トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第9号 


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もちださんの鎌倉リポート No.9(2007年11月1日)



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「歴史」について

 年々、ヒグラシの声が減っている。首都圏の至るところで屋敷林がへり、杉系の植樹林ばかりが「残されている」ためだろう。緑の砂漠、などというひともいる。ヤマユリやアケビ、山吹などがひそんでいる豊かな雑木林にはいろんな虫がいた。寺めぐりに飽きた子供の頃、ほたるやクワガタをもとめて有望な沢や森を勝手に物色していると、人知れず延々と続く長い切岸に出会うことも多かった。

 いま、そうした崖を「鎌倉城」などといって調査しているらしい。


大町、妙法寺あたり。



切岸。造成などとは無関係な山や林の中などにも、ひとしれず続いていることが多い。
 ただの石切り場とか、だんだん畑の跡だとかいってやみくもに否定する説もある。そう思うひとは、いたるところに分布する砦の形をした石切り場やだんだん畑を想像していただいてもよい。ただしこれらは羅城のようなものではなく、大部分はまちの内側をむいている。はじめはふもとの谷戸をまもる程度のものとして内側からすこしづつ造られ、やがて町の外縁をかこむまでになったのだろう。

 落とし穴のような堀切をほり、木や竹のトゲを植えることを「逆茂木」という。「走木」は丸太を吊るし敵に落とす。たとえば旧大仏坂の、せまくけわしい切り通しのうえでブランコのように揺れていたら怖いだろう。鎌倉の山々には、戦時仕様の地形の面影が残る。侍たちはトゲを避けるため、近在の家をバラし、その板切れや馬や味方の屍骸を投げ込んで埋め、ためらいもなく踏んでわたった。

 合戦は元寇のホロコーストを境に、さらにえげつないものへ変っていったという。一般人に近い、悪党とか足軽のような者まで駆り集め、そうした者でも人殺しの役に立つよう長槍のような安易な兵器をあみだし、からくりをこらした城砦など「卑怯な」装置が一気に、爆発的に普及するようになった。しかも、これらは元や高麗にたいして使われたのではなかった。

 鎌倉では明治のころまで「あらぬもの」がほりだされる畑があって、そこのニンジンは血の色をしている、などと噂された。その気持ちの悪いものこそが歴史の主人公たちだった。


釈迦堂トンネルあたり。



約90年前のアジア。古い絵葉書より。
 ほんとうの「歴史」は教科書なんかには存在せず、現地へ行くか、なまの古記録や発掘資料などをみて、直接よみとるべきだという。そこには、公式発表とは間々ちがうことが「書かれて」いたりする。

 いにしえに思いをめぐらせば、めまいがするようだ。私たちが古写真などで知っている「確実な昔」は、せいぜい幕末からのことだ。糞尿の中に暮らしたり、残飯をせびったり、はげしい猜疑心のすえに容易に他人を襲って八つ裂きにしたりするような、もう一段古い生活は、かつて隣の国々に残っていた。明治の人々は義憤と正義感に駆られ、かれらの文化を「中世」となづけて勝手に苛立ち、嫌悪し、慈善団体を組織してむりやり矯正しようとさえした。

 鎌倉時代の人々が、かれら途上国のひとびとに優っていただろうか。歴史のリアリティとは、そういうものだと思う。義経ら、いたずらに美化されたヒーローの影に、今やゴミくずのように風化した五輪塔をたて、常に「地獄」を観念した武士たちがあり、町を浮浪し、不潔な水を飲み、野辺のかばねとなってチリすら跡をとどめない土民たちがいた。片瀬の海に入水してうれしそうに成仏してゆく庶民の顔は「一遍聖絵(1299)」にある。


浄光明寺あたり。



瑞泉寺。
 子供の頃、自転車をとばしてあちこちをまわった。覚園寺では見知らぬ老婆がとつぜん、黒地蔵のお守りをくれた。なんでも月光菩薩に拝んだらお孫さんが「がっこう」に受かった、という。そんなとりとめもないことを思い出していると、改めて今現在のこの平和な時間に生きていることのふしぎを感じるのだ。

次回は「信仰について」です。


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