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もちださんの鎌倉リポート No.98(2014年12月20日)



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八幡宮の謎・1



鶴ヶ岡八幡宮
 総本社・宇佐八幡宮(大分県)の起源は明らかでなく、正史では新羅との関係が悪化した奈良時代にとつぜんあらわれる。そのころの外交文書には「(三韓地方を平定した)神功皇后の恩を忘れたか」といった文言すらみられ、時代は祭神が応神天皇母子と習合しはじめたことを、匂わせる。

 正式名を「八幡広幡」というからには、無数の幡をぶらさげた飾り鉾の信仰からでたようだ。北部九州には弥生時代から銅矛文化があり、魏が倭王に黄幢(旗)をもたらしたともいい、幡鉾には邪を祓ういみもあった。平安時代にも、御霊系の鎮疫神、紫野今宮とか設楽神のたぐいが、鎮西から飾り鉾や花笠・風流(鼓笛)をたずさえてたびたび上洛してきた。



九州から上洛した今宮(京都)
 八幡神も、奈良の大仏を祝うため、と称して上洛し、東大寺の鎮守となった。やがて怪僧・道鏡の即位を託宣して孝謙称徳女帝の歓心を買い、一転して即位を否定したことは周知の通り。弓削道鏡は一説に白壁王(光仁天皇)の兄にあたり、そうだとすると還俗以外、即位におおきな問題はなかったはずだが、なんにせよ神は権力闘争を利用したのだ。

 宇佐には神宮寺(弥勒寺)がたてられ、桓武天皇の時代には、大菩薩の神号を得た初の神社となった。桓武天皇は前女帝の妹にあたる高貴なまま母や同母・異母弟らを失脚させるなど、権謀術策のあげく、生涯悪霊に苦しんだ天皇でもあった。外祖父を和乙継(やまとべのおとつぐ)といい、姓(かばね)のない平民の、いやしい血をひいていた。



宇佐八幡(大分県)
 冒頭にのべたように当時、新羅征伐が真剣に議論されていた。ふるく神功・応神天皇の時代には半島出兵が盛んにおこなわれ、韓国南部には大和式の前方後円墳さえのこっている。神話では神功皇后の母方の先祖に、天日矛(あめのひほこ)という、新羅あたりから降伏してきた伝説の王子がいた、とされる。その伝承にちなんで、桓武は名もない実母・新笠を往古、日本へ人質として来た百済王・斯麻の子孫だと主張、和部改め高野朝臣の姓を贈っている。斯麻はいくつかの金石文にもみえ、実在した人らしい。

 高野とは現在の奈良市高の原、近年の宅地造成まで「鹿鳴く山」とうたわれたただの山林だった。高野朝臣のさかえた実体はまったくない。ただ祖母方の氏寺・秋篠寺からのぞめば、てまえに神功皇后の巨大な古墳がよこたわる。どうやら桓武は、じしんを皇后の子・八幡神の化身と考えたがっていたようなのだ。


 奈良薬師寺・休岡八幡宮などにのこる僧形八幡は地蔵のような姿をしており、今日では地蔵信仰が確立する前につくられた地蔵像を疑問視して「僧形神像」とよぶことがある。こうしたふるい地蔵のなかには、聖徳太子ゆかりの「日羅」とよばれるなぞの像もある。唐土には朝鮮半島に生身の地蔵がきた、などという迷信があった。

 八幡宮の正体が阿弥陀仏と定まったのは、大安寺(奈良)の僧・行教がまず鎮守の元八幡を宇佐から勧請し、それを京都・石清水八幡宮寺にうつしたさい、宝前に感得してからだ。鶴ヶ岡の八幡はこの石清水から分祀したもので、鎌倉の阿弥陀大仏も、鶴岡八幡宮の霊夢託宣によってつくられた分身であることが、金沢文庫につたわる勧進帳「大仏旨趣」によってうかがえる。

 阿弥陀の種子「キリク」には地蔵の種子「カー」がふくまれている。密教思想ではこれを垂迹といい、神もまたいくつかの位相(化身)のひとつ、とされた。


 石清水の八幡は、業平伝説でもしられる陽成天皇母子が廃位となり、いったん源氏にくだった宇多天皇が即位するなど、皇統の危機に乗じてにわかに権威を高め、行幸をあおぐなど、宇佐の本宮をしのぐ国家の宗廟の地位を占めるようになった。北野天神の呪い、と称して醍醐天皇の太子が廃されるや、三十過ぎの古妃が、宮中の密室でとつぜん代わりの皇子を産む。こうして朱雀天皇が即位すると平将門が謀反をおこすが、将門に「新皇」の位を託宣したのも、北野天神を使いとする八幡神、とされた。

 鎌倉の町並みが、八幡宮、荏柄天神、阿弥陀大仏を基準につくられていることは故なきことではない(レポ85)。一説に清和源氏は、じつは陽成廃帝の子孫、ともいう。相続がからむ養子関係がふくざつな中世では、ありうることだ。



異形の神(京都・摩多羅神)
 やがて八幡宮は、元寇を退けたことでさらに神威をたかめた。記紀伝説で、神功皇后の三韓平定をたすけたのは住吉など、他の海洋神や武神たちだった。その皇后のゆかりの神社とされるのも、香椎・箱崎など別の神社だったから、八幡神の神威はすべて後付けである。だが九州には五所別宮もでき、修験道と習合した、独自の神話もできた。

 それによれば、インドの皇子がながされて鹿児島にたどりついて神となり、やがて人民の苦の身代わりとなるため、大量の油をかぶって壮絶な焼身自殺をとげた。かれの名を「仁聞菩薩」という。一説に「人母」ともいい神功皇后がなまったものとも、奈良時代のたんなる修験僧の名が紛れ込んだだけ、ともいう。



海をのぞむ
 海のかなた、東の国から寄り来る神といえば沖縄の「ニライ」伝説が思い浮かぶ。仁聞菩薩の正体も、似たようなものなのだろう。それは前方後円墳を西の地の果て・日向大隅地方につたえたヤマトの大王だったのかもしれないし、あるいは中世、南方交易を支配するためやってきた相模の御家人・島津氏だったかもしれない。

 また、この仁聞菩薩を、大陸から来た騎馬民族=応神天皇とみなすような説も浮上、パンダの来日ブームもあいまってあらたな神話をメディアがこぞって強要したこともあった。

 永劫回帰、神話は何度でもくりかえされる。ひとつの神は、そうしていくつもの顔を持つ。たしかなルーツなんてもはや、どこにもないのかもしれない。


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