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もちださんの鎌倉リポート No.123(2015年4月1日)



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法泉寺ヶ谷


 「鎌倉の方をみれば、袋の中にものを入れたるやうに」侘びしく住んでいるといったのは、鎌倉時代の女流日記「とはず語り」をかいた後深草院の女房・二条。

 いまでも入り口がどこにあるのかわからないようなお屋敷や、住宅街そのものが山の上に隠れていたりする。目立たないところに、せまい私道のようなものがついてはいるのだろうけれど、いかついメルセデスなど通うよしもないから、お迎えが参上するご身分なのだろうか。と、そんなあらぬ空想までめぐらせてしまう。小説家ならゴシックロマンの舞台にするかもしれない。


 遺跡にも、いりくんだ山の奥にあったり、フェンスでぐるりとかこわれたようなものがある。それでも空き家のようなものは、放火にあうものもすくなくない。大鋸の旧モーガン邸、大磯の吉田茂邸、富岡の川合玉堂別邸、俣野の住友別邸・・・さいきんも明月荘が焼失。

 鎌倉の風致保存会では、雪ノ下の大仏次郎邸や十二所果樹園、泣き塔、回春院裏山(朱垂木やぐら)、東勝寺跡などを管理しているらしい。べつにこの手の団体に肩入れしているわけではないけれど、いちおう散策路整備なんかで世話になった分、財布にふくらんだジャリ銭くらいは寄付している。募金箱は市役所や郵便局をはじめ、金融機関などを中心に数十ヶ所もあるんだという。


 保存会の事務所ははじめ御成の旧安保小児科にあったが、そこはもう安保さんにお返ししたそうで、公開については関知していないという。いまの事務所は扇谷の法泉寺ヶ谷にあり、そこは清拙和尚ゆかりの地でもあるから、興味本位でちょっとのぞいてみたのだ。

 法泉寺谷は横須賀線のトンネルの旧市内側にあたる。線路沿いの土の小径をたどってゆくとつきあたりにあるのが旧坂井邸だ。ここも和館と洋館がつながったキメラ建築1927で、こんにちのように和洋が融合したハイブリット様式が確立するいぜんの別荘だったという。さほど奇抜な造形はみられないが国の登録文化財に指定されているらしい。


 会の事務所によれば、まだ権利関係が確定していないため、内部の見学は会員に限定しているが、ちかく一般公開も検討しているのだとか。上述のように、いつまでも無人ではやばいので、むろん公開はしたほうがいいと思う。

 私自身、古民家にはさほど興味はないのだけれど、あんまり秘匿しておくと心霊スポットよばわりする人もでてくるかもしれない。正体不明の、薄気味悪いものにしておくよりは、「茶寮」だの「民芸ギャラリー」などといったありふれた名前をあたえたほうが、ひとびとは安心する。貴重な文化財などと、内輪だけで知っていても、世間はなかなかみとめてくれないものだ。


 北鎌倉の駅裏洞門のとりこわし計画やフラワーセンターの存否、相槌稲荷の移築、焼却所建設地の選定問題など、ややこしい議論は毎年のようにおこっている。古都の保存に、おわりなどないらしい。

 かつて大尽さまといわれたワケありのお屋敷で、じっさい主人がおかしくなり、ついに縊死してしまったところがある。そこは現在、県だか市だかに寄付されて、さっそくどこかのNPOが「里山ナントカ館」として運営、各種イベントなどを矢つぎばやにおこない、妙なうわさを完全に払拭してしまった。よそものがやってきて、ひな祭りだの竹細工だの、あらぬ風物詩をつぎつぎとひねりだし、雰囲気がかわってしまったことは確かだけれど、そういうリノベーションだってありかもしれない。


 いまはなき竹園山法泉寺についてもちょっと記しておきたい。開山は建長寺35世・了堂素安(1292-1360)、開基は新田義興を討ったことでもしられる公方府の執事・畠山国清とつたえるが、寺は鎌倉時代からすでにあったようだ。素安の塔所・宝珠院と開基、山号がおなじだから、混同されたのかもしれない。この寺の鐘1330のことは「鐘について」でもふれたが、住持であった素安がつくらせ、銘は清拙和尚が撰した。

 鎌倉時代の記録では北条貞時三十三回忌1323にすでに寺号がみえるほか、宴曲集「玉林苑」にも詠まれている。大覚禅師蘭渓道隆のでし桑田道海(?-1309)、同じく無隠円範(1230−1307)、葦航道然(1219-1302)らしきなまえもみえ、いちじ逼塞した大覚派の拠点だったようだ。誤写も多くよみにくいが、参考までにいちぶを引用しておく。


・・・爰に累葉世々に栄ゆる竹園山動るぎなく、鳳凰翅をやすめてや明王の徳化を囀るらん。寺号はまた賢き法の泉、流れ久しく絶えざる末を受け伝へ、智水の源、あの源を汲みて知る。然れば桑田無絃葦祝(ママ)より、ないし今に及ぼす徳、仙岳の高きに異ならず。・・・伝へ聞く、和尚の古へとかや、発願を西海の波に(ママ)うなし、成就は東関の窓に揚げ枢を推し開くに新たなり。・・・さても此の勝地のていたらく、摩訶調御の伽藍、甍を並べて双びなく、世に異にし、往反の道有る常盤の山は後にめぐりて北に行き、東の境を渡りの谷、谷より西の面の谷の方域、西土の教主の縁として六八の聖容を安置す。仏殿は釈迦の三尊、羅漢諸聖星をつらね、祖師の勅号を仰ぐは大学堂(ママ)の額の文、さは機に与し竹箆を、此の打ちある諌めと思ひきや。
(「玉林苑」所収「竹園山誉讃(抜粋)」。国会図書館デジタルアーカイヴ)  

※大覚禅師の勅諡は1279年。禅師の勅号は日本初だった。


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