トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第306号 


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もちださんの鎌倉リポート No.306(2018年5月15日)



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世田谷のなかの鎌倉・2


 大田南畝の「調布日記」「玉川披砂」には、鎌倉後期の内管領(御内人)・長崎氏の子孫が瀬田に住んでいたとつたえる。長崎氏は小田原後北条氏の直臣として砦をかまえ、行善寺という氏寺をひらいた。帰農後も学問をこのみ、占勝亭を築いて本間游清・山田常典ら江戸の文化人をまねいた。幕末明治の女流歌人・斎田佐枝子はそこから世田谷代田の旧家にとついだが、その斎田家も木曽義仲の臣・中原兼遠の末で、ながく世田谷吉良氏に仕えた侍であったという。

 今回、世田谷界隈をたずねたのは、区役所に寄ったついでに、こうした人々の資料をさぐるためでもあった。


 長崎家の旧母屋は、二子玉川駅から徒歩20分、(旧三菱岩崎家)静嘉堂文庫美術館の下の「岡本民家園」に移築されている。周囲は多摩川の崖線(河岸段丘)が森林のまま保存され、かつて大蔵から瀬田方面に流れていた次太夫堀(六郷用水・丸子川)が、ここでは埋めたてられず露出、黄色いかきつばたなどを咲かせている。23区内ではめずらしい閑静な場所だ。

 母屋は土間付き広間づくりの平凡な農家を幕末に変形四つ間取りに改装したもので、瀟洒な平書院・床の間などもあるがけして広いとはいえない。もちろん富農の家はここに移築された一棟ではなく、いくつもの離れとか涼亭、土蔵などもあり、一度に大勢の客をもてなすこともできたのだろう。とりわけ長崎家は別邸・占勝亭などをかまえ、将軍の玉川見物のさい、立ち寄り場所にもなっていたという。将軍もここでは鄙びた山水の雰囲気をあじわうため、普通の屋形船に毛氈を敷いて乗ったらしい。目黒のサンマではないが、かつての名物・玉川鮎の塩焼きとか「うるか(塩辛。酒のあて)」とかを用意したのかもしれない。

 氏寺の行善寺は二子玉川の線路沿いの段丘上にあり、かつては玉川八景の展望所としてしられていた。瀬田には旧小坂家緑地など、近代の邸宅も残されているし、おなじ崖線には田園調布の多摩川台公園など、多摩川の広い河川敷を見下ろす見晴らしのひらけた場所が、まだいくつかのこっている。


 「瀬田の記」(岡島林斎画・江口忠房文1850)という絵巻物に、たぶん幕末の長崎家が描かれているのではと、代官屋敷の郷土資料館で学芸員にたずねてみたが、寄託資料のためなにかと制限があるらしく、複製のようなものはないようだった。

 そのかわり、以前レポ280で触れた世田谷大蔵の永安寺附近を描いた大絵馬1874が展示されていた。これは鎮守・大蔵氷川神社の祭礼図で、別当寺の永安寺ほか村役の主だった氏子の家などを描いたもの。幕臣石井盛時(至穀1778-1859?/61)が屋代弘賢をまねいた石井家はいまもあるが、広大な敷地にふるい建物はもうないらしい。「玉川紀行」1813にえがかれた別邸垂穂舎(下)は本宅の左にあったらしく、北側を次太夫堀が流れていたがいまは暗渠化している。次太夫堀とは江戸初期、六郷(世田谷・大田区)・二ヶ領用水(川崎)を指揮した用水奉行・小泉次太夫吉次(1539-1624)を偲んだ通称。次太夫の先祖は駿河今川の家臣で、家康に帰参し数々の手柄をたて、身体不自由になりながら天領開発に抜擢された。

 垂穂舎には庭に張り出す書斎がつき、傍らには茶室「杉乃庵」、池の中島には飛び石がかよっている。江戸中期にはここに玉川文庫なるものが設置されたことが、注記されている。



「玉川紀行」国会図書館HPより
 この石井盛時について、もう少し委しく調べてみると、先祖は三浦党で初代の兼実らは北条氏康・吉良氏朝に仕え、大蔵村石井戸を苗字としたらしい。江戸期には幕府につかえ、杉庵石井兼時は附近を治める喜多見重勝の姻戚にもなった。喜多見の氷川神社の石鳥居にはその重勝の奉納銘があり、書いたのは石井兼時であるという。

 喜多見氏は由緒ある鎌倉武士「江戸氏」の改名で、太田道灌のころまでに江戸からこの地に移り、喜多見流茶道など文化活動でもしられていた名門御家人。大蔵の氷川神社にはかつて喜多見氏の氏神として、いつのころからか江戸氏の兜がまつられていたらしい。重勝の父・喜多見氏初代勝忠は堺奉行となり、沢庵とも親しかった。次の重政の代には犬公方綱吉の側用人として二万石の大名になるなど全盛をきわめた。しかしその出世が仇となり、「一族の刃傷事件」などを理由に喜多見藩は突如改易となる1689。

 喜多見藩の解体で、数万巻ともいう莫大な書物は、重勝の血を引くという石井家に預けられた。杉の庵に玉川文庫がたてられたのはこの時らしい。帰農した6代当主石井兼重はここに菅刈学舎という塾をひらき、好学者には書物を貸し、村人に学問をひろめたとされるが、喜多見藩再興にそなえて一族・遺臣たちの子弟を教育していたのかもしれない。



大蔵氷川神社・旧長崎家・二子玉川駅
 10代盛時は名主(里正)の職を放棄し、江戸にでて御家人株を入手。幕末の実力者登用の風潮もあって晩年には書物奉行1851にもなり、念願の武家への復帰を果たした。玉川文庫は享保年間に火災に遭い1726、古文書はほとんど烏有(うゆう)に帰していたようだが、出世の源泉となった蔵書及び知識の「復元」は、盛時をふくむ代々の当主の、執念の賜物だったのだろう。

 屋代弘賢は幕命により厖大な資料を駆使し、「古今要覧」という未曾有の大百科事典を編んでいた当代屈指の文献学者。盛時はそのアシスタントとして推挽されたようだ。盛時が自慢げに案内した大蔵の実家は、弟の晴保が名主を継いでいた。上掲の絵馬にえがかれた大蔵氷川神社の棟札1820には、晴保の署名がある。ただ、この弟はやがて早世。名主は絵馬の右端にえがかれた次席の安藤家が代行し、明治をむかえた。代官屋敷でもらったパンフレットによれば、その安藤家旧母屋が、喜多見の次太夫堀民家園に移築・復元保存されているようだ。ただ区役所での用事が思いのほか手間取ったため、閉園直前の岡本民家園に駆け込んだところで時間切れになってしまった。

 大蔵の現地にはまた、天明年間に源義賢の古墳を発掘した清水惣右衛門の子孫とおぼしき旧家も分布。いま義賢塚があるのは、その分家のお庭にあたるようだ。



石井盛時と太田子徳の編著
 世田谷の史跡のあれこれについては、区がYouTubeに帯番組「風は世田谷」のバック‐ナンバーを全編掲載しているので、深く興味をお持ちの方は検索するといいかもしれない。30年ほど前の映像だけれど、開発前の地形とか原風景を知るにはかえって好都合。

 さて、嘉永三年九月のなかば、瀬田の長崎家に本間游清をまねいたのは弟子の豪農・太田子徳(?-1861)という人で、行善寺の八景を見学、二子ふきんで舟遊びし、鮎に舌鼓をうったあと、ひきつづき奥沢の自邸にもいざなった1850。奥沢は駒沢公園のちかくで、当時はまだ無名の僻地。有名な長崎家は一行のもてなし場所として選んだらしく、師匠の游清とその家族以外は長崎家を後にして別れた。子徳はこれらの遊興でよまれた詩歌をひとまとめにし、「江西三十八勝詩歌」と銘打って出版・頒布までした。瀬田では翌々年1852、当主の長崎重行親子ら地元の歌人・文人を集め重ねて詩歌の会をひらいたほか、釈獅絃という漢詩の先生を連れて、等々力不動・洗足池・鵜の木光明寺で追加の詩歌を詠み、本の体裁を整えた。子徳は兄を継いで当主となったから、若いうちはプロの歌人をめざしていたのかもしれない。貴族・武家のものだった高等教養は、農民のあいだにも静かにひろまりつつあったのだ。

 本間游清(1776?/81-1850?/54)は村田春海の弟子の歌人。伊予吉田藩伊達家の江戸屋敷に藩医として仕えながら平民層にも多くの弟子をもち、国学(博物学)の大家でもあった。ただ生没年はよくわかっていない。通説ではこのとしの八月、享年75ですでに【死んだ】ことになっている。高輪の陽寿院に葬られたらしいが、墓はのこっているだろうか。なお内閣文書に吉田藩士族として本間游清(1833生まれ)の名がみえるが、これはおそらく二代目。・・・このように、幕末の文書でさえあまり研究がすすんでいるとはいえず、しろうとでもわかることは少なくない。最近よんだ間宮八十子「筥荷の日記」「後の筥根の日記」は、一読して女の文章だとわかるのに、いまだ夫・間宮永好の作品に分類されていたりする。



静嘉堂文庫・次太夫堀
 世田谷附近の風光は、いつまであったのだろうか。一時、多摩川は家庭排水で泡だらけになっていたが、環境保護がすすんで、水はだいぶきれいになった。その反面、いまは高級住宅やアパートがたてこんで、郊外らしい森林や農地はごくわずかになってしまった。玉川高島屋などのおしゃれビルができて以来、「人気タウン」の波は二子にも、対岸の川崎郊外にも、押し寄せ続けている。

 有坂鉊蔵(1868-1941)という人の随筆集「象の欠呻」には、まだのどかなようすがえがかれている。この人、軍属ながら学生時代には弥生土器を発見し、息子の秀世も言語学の泰斗として名を成した。大正末年、若林のあたりはまだ農村だったというし、世田谷城の堀には水があった。沼部の観音堂には、本尊の胸に扉があって、なかに秘仏として古墳時代の埴輪の頭部が祀られていたという。これは現在の田園調布での話。

 都市開発のなかで、解明された中世の遺構はほとんどない。ごくまれに発掘調査がなされても、耕作技術のすすんだ近世には、すでに遺構は攪乱されていて、喜多見陣屋のような明白な場所ですら、残存状況はかんばしくないようだ。これは「歴史の街」をうたう京都でも鎌倉でも同じらしい。


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