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もちださんの鎌倉リポート No.308(2018年6月8日)



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印融法印500遠忌・2



本法寺鐘楼門
 鳥山三会寺はもともとやや西側、城郷小学校の奥(馬場・元屋敷)にあったとされ、そこに住んだ佐々木高綱が頼朝の命で草創したといわれる。吾妻鏡には佐々木泰綱に小机郷鳥山を開拓させた史実が記されているから、まったくの伝説というわけでもない。いまは住宅地で、とくに霊地のおもかげはなく、遺跡の調査もされていない。 

 谷戸の奥から小机小学校に登る道があり、峰筋を越えて駅のほうに降りると日蓮宗本法寺。ここは小机城家老という鈴木丹後守が綱島からうつしたとされ、明治には城郷小の前身となった寺小屋「小机学舎」があったとか。戦国時代の小机城は北条幻庵の猶子らが「小机衆」をたばね城主に擬せられているが、実際の在地領主として入植したのは氏康の寵臣・笠原氏とみられ、ゆかりの寺院は駅前の雲松院をはじめ鴨居の林光寺・東観寺(東本郷)、法昌寺(同、現在は移転)・大倉山の竜松院、中山の弘聖寺(台村)など数多い。「ブラックペアン」佐伯教授でおなじみの某人気俳優がどうのこうので、話題にもなった。



笠原氏ゆかりの寺々
 雲松院は南方、三ツ沢にちかい神大寺(現在は地名のみ)から城下に移した1525とつたえる曹洞宗の寺。本堂の額は心越禅師、すなわち能見堂の額を書き八景の詩をつくったあの渡来僧のものという。戦国時代の禅宗寺院は曹洞系のものが多い。

 印融の没後、このあたりは後北条氏の手におちた。領主が変われば檀家も一新され、縁起や古文書が失われたり、寺名や宗派すらかわってしまう場合がある。印融ののち、三会寺8世継範・9世隆全などの事蹟はさだかでなく、また境内の観音堂は謙信による兵火で焼けたとつたえ、江戸初期(16世祐秀)には家康の援助でそこに弥勒堂(現本尊)が建っていて、本堂には不動がまつられていたとか。いつしか印融にまつわる伝承や古文書も、消えてしまった。かの弥勒堂の棟札にはすでに高綱・頼朝云々の記述が見え、そちらの由緒を誇るようになっていたようだ(風土記稿・横浜市史稿など)。

 「風土記稿」にはまた、三会寺から鳥山川をわたったところにある、岸根町の貴雲寺の裏山にあった横穴を「この辺りにてこれを矢倉といふ。その所以を知らず」とみえる。横浜・川崎地域では「かんかん穴」と称することが多いが、ここでは鎌倉での呼び名とおなじだったらしい。



ぶきみな地下道
 小机にはこのほか、野口米次郎が発見した初代広重(1797-1858)の杉戸絵でしられる浄土の古刹・泉谷寺がある。鎌倉創建ともいうが定かでなく、後北条氏家臣・二宮氏の中興で、江戸後期には広重の兄か弟が住職をしていたとか。絵は本堂の内陣・外陣をしきる杉の戸に桜を描いたもので、たぶん花鳥画がマイブームだったころに力だめしに描いてみたのだろう。いわゆる広重風の絵ではなく、現在は非公開。ふるくは太田南畝1809らもたちよっているが、杉戸絵以外にもなにか心惹かれるものがあったのだろうか。

 本法寺からその泉谷寺にゆくあいだには第三京浜(高速道路)がとおっていて、横断するには立橋をわたるか地下道を通るしかない。地図をたよりにいってみると、どうやら宅地開発前に農道として整備されたものらしく、現在ではかえって荒廃し、近道どころか廃道にちかいものだった。不気味な長い地下道をくぐるとむこうはすり鉢のような竹薮の底で、崩れかかった石段のうえは造成工事の真っ最中。ブルドーザーの足場になっている鉄板を伝って、菅田団地(神奈川区)のちかくにでた。このへんの峰すじが小机町(港北区)との境界になっている。

 団地のなかの公園にある塚はいわゆる「富士塚」らしいが、あるいは村堺をしめす十三塚のたぐいなのかもしれない。泉谷寺坂とよばれる古道が、いまは切り通しになって、すぐ下を通っている。南畝によれば泉谷寺の庫裏より東、本堂側が橘樹郡、西側は都筑郡(現・緑区東本郷〜)であったとか。ここも元来は人を拒む霊地、のちのちまで境界が錯綜した空白の地であったのだ。


 泉谷寺には壮大な並木の参道と裏山がのこっている。かつてはとなりの城郷中学校の敷地にかけて、もっとずっと広かったらしく、戦前には桜を植えて公園にもなっていたようだ。並木も江戸期には「桜の大門」といわれ、名所だったらしいが、みな枯れたようでいまは桜は少ない(ちなみに現在、「桜の大門」があるのは日吉本町の金蔵寺など)。ただ山門あたりには紅色の薔薇が咲き誇っていた。

 ここは浄土宗の寺だが、古くは真言寺院にも浄土系のものがあり、いまのように厳密に派閥分けされたものではなかった。後世に「南無大師遍照金剛」の名号が普及するまで、高野山でも南無阿弥陀仏がとなえられていた。興教大師こと覚鑁(1095-1144)は「阿弥陀秘釈」などを書き、念仏即成仏の思想をひろげた。事相(修法)の一貫として庶民にも行いやすいものをとりいれたのだ。他にも阿字観など、多様な修行をひろめようとしたが、流行ったのはただひとつ。板碑など、真言=梵字をあらわす中世遺物においても、阿弥陀の種子キリークが殆んどを占め、バンやア(大日)などはあまりない。中世の密教はほぼ念仏に満たされていたともいえる。

 印融の思想背景となったのは、そうした民間信仰ではなく、金沢称名寺にのこされた全盛期の鎌倉密教だったのではないか。称名寺には鎌倉幕府・鎌倉公方府の滅亡であるいみ宝の持ち腐れとなった密教儀式の古文献が、いまも数多くのこっている。なかには、関西よりもずっとオリジナルに近い、鎌倉時代の貴重な古写本も含む。



印融編「古筆拾集鈔」・覚鑁「五輪九字明秘密釈」
 印融の編著にはかの覚鑁をはじめ、中世の密教僧による厖大な所説・口伝(古筆)からの引用が多く、金沢文庫の蔵書と一致するものもすくなくないようだ。たとえば五輪塔が即身成仏の人体であり、大日如来かつ阿弥陀仏でもあるとする「五輪秘釈」は、中世に絶大な影響を与えたが、類似する挿図からも、一見して同系統の学説をひいているのがよくわかる(左)。

 わたしたちは現在、くずれかけた、夥しい数の五輪塔を見るだけだけれど、その流行をになった和尚たちや思想背景までは、なかなか理解できない。仏典はあまりに専門的で、よみづらいのだ。

 覚鑁は空海が「秘密」にしてきた即身成仏の秘儀を、臨終念仏というかたちで大衆に解き放った。あるいみ鎌倉仏教の先駆者でもあった和尚だ。「空海の再来」といわれるような偉大な和尚は、歴史上ほかにも数多くいたのかもしれない。だが中世の板碑にしても、夥しく造られた五輪塔にしても、近世にはなぜかすたれてしまう。印融の功績は、たまたま戦国にうまれ、空隙の時代に滅び行く法脈を拾い上げた、その偶然もあずかっているのだろう。



現在の堂屋敷附近
 空海や道元が唐宋でまなんだのは、おそらく一期一会、その当時、その時点にしかなかったものを探し求め、みずからの見識にしたがって取捨選択したものだ。同じものが唐土で「ごくあたりまえに存在していた」わけでも、「長く存続しつづけた」わけでもなかった。また空海にせよ道元にせよ、帰国後は弟子たちとともに独自に思想を展開し、日本の文化・風土にあわせて布教していったため、ますますちがった道を辿っていった。かれらは原拠となる法典をただ「伝えた」のではなく、みずからの見解・学説として不断に創造しつづけたのだ。

 仏教史からみると、イスラム教の圧迫で北インドや西域では衰退し、ヒンドゥ化・ラマ教化がすすんだチベット‐ルートをのこすのみとなった。中国大陸では儒教徒による廃仏運動がすすみ、ふるい宗派は土俗的な神仙道(道教・中国神教)や朱子学などとと習合した、禅宗へと収斂してゆく。信仰のかたちはうつろいやすく、すぐに変質してしまう。かつてのマルクス思想がいまや狂気とされるように、正義や理想は善か悪か、いずれにも転びうる。それはうけとる側の智恵によるのだ。

 明白な事実として、インドのシヴァ神とか中国の媽祖・布袋のたぐいは日本ではあまりはやらず、大部分が日本の「神」に置き換えられ、ほとんどの神社に別当寺院がおかれるようになった。神=仏という括りでかんがえてゆくと、神仏分離以前の神社のほとんどが真言寺院であったともいえる。


 禅宗では日本臨済宗の寺院が明清との外交などを通じ、漢文をあやつる政治的なエリート寺院になっていったのに対し、日本曹洞宗では民衆に密着した土俗信仰に傾斜した。夢窓国師にも「夢中問答」など、俗人むけの易しい著作があるが、本場の禅問答などはほとんど意味不明の判じ物だから、素人には理解不能だったのだ。

 そもそも、禅宗でおもんじる「金剛般若経」じたいがすでに禅問答のようなものだった。「如来はなにも悟っていない・・・如来はなにも教え示してはいない。・・・それが悟りであり、教えだ」。

 道元の「正法眼蔵」は言葉では伝えられないはずの教外別伝のさとり(=正法眼蔵)を、なんとか意を尽くし、文章として丁寧に説明しようとする。その悟りを神秘として韜晦する真言宗、あるいは念仏や題目によって象徴し思考停止をせまる宗派とは、一見逆のように思われる。ただそれは庶民教化への、関心のありようの差でしかない。戦国という殺伐とした時代において、排他的な正義や強引な出世欲、無慈悲な蓄財などにとりつかれたひとびとを、いかなる方法で済度してゆくか。その方法はたぶん、ひとつではなかったのだろう。


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