トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第309号 


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もちださんの鎌倉リポート No.309(2018年9月2日)



No.308
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黒地蔵四万六千日



蜂蜜・塗香・お箸・・・
 ひとむかし前の黒地蔵縁日(八月十日0:00〜12:00)は、今ほど賑わってはいなかった。夜店もなかったし、すくなくとも午前3時から日の出前までの真空時間があったと思う。いまはまるで平日の昼間のように、ごく自然に人が歩いているし、自転車の女の子までいる。たぶんSNSで誘い合わせた地元の人なんだろう。

 「静かな環境を守るためなのです」。かつて人の絶えた時間帯に、鎌倉todayをなのる勇気あるおじさんが、老住職に取材を直談判して、けんもほろろに断わられているのを耳にした(・・・実はこれがこのサイトを知ったきっかけなのだ)。いまは薬師堂のなかで解説する若住職にひとだかりがして、嫌でも「ひそひそ話」がきこえたような寂しさはない。


 境内柵内の撮影を固く禁止しているため、覚園寺には「好き嫌い」がわかれる。たいして広くない境内だから、公開範囲では薬師堂・地蔵堂の各外観・十三仏やぐら・堂裏のイヌマキの古木ていどしか撮るものはないだろうに、黒地蔵縁日でも檀家・和尚など無数の地回りを配置して参拝客の行動を徹底マーク。あいかわらずの執着ぶりだ。

 とくに気色わるいのは、一般客までが相互監視に協力しているらしいこと。「自分はルールをまもっているのに、違反するのは、ずるい」「いいつけてやる」。そんな処罰感情を露骨にただよわせていることだ。

 撮影禁止は法的には「所有権」に属するものなので、文化財の秘匿・私物化、といってはおおげさだけれど、やはり和尚や笑顔で張り切る檀家連にしみついた、独占的支配欲にゆらいしているのだろう。野の仏や大仏が、撮影を拒んだことがあっただろうか。「静かな環境」「新盆の方がいる」などというのはうそで、檀家の息子は腕章をつけて、ドローンカメラで境内をとくいげに撮りちらしている。むしろ過剰な「差別感」を演出することが目的のようだ。




「関所」附近
 行燈を並べたり、パン屋や蒲鉾屋が出店を構え、おなじみの十三仏Tシャツなどを売り、もうじゅうぶん人寄せイベント化しているし、別の日には「カマクラでワインの会」なども開催。すでに関西テレビの「TV見仏記」やら学研「仏像ガール」なんかの取材も盛んに受けている。公称非公開の百八やぐらもいつからか、大手TV番組で紹介されるようになった。会員制クラブじゃないんだから。すべての人が気持ちよく参拝するには、多少の雅量があっていい。

 それでも人があつまるのは、深夜の鎌倉を徘徊する、シュールな体験を求めてのことだろうし、徹底監視付きの平日拝観とちがって多少は自由に歩け、そしてゆっくり見学できるからだ。本尊の正面におかれた今上皇帝の位牌・開山智海の頂相、尾花沢産のラベルがついたお供え物の西瓜にいたるまで注視する人は、そんなにいないだろうにしても。

 図書館の図録にでているようなものは、とくに注目にあたいしない。そこでしか見れないもの、たとえば光と影のようなもの、和尚の読経・梵唄声明の節などを、心にきざむ。本尊をてらすLED照明は蝋燭にくらべ変に蒼白い。善の綱を引いて「鈴がならない」と不思議がるひともいた。



資料映像により構成
 薬師堂には三尊をめぐって、十二支をかたどったほぼ等身の十二神将が、右奥の矢を持つ宮毘羅(子神)から順にならぶ。それぞれの神将に対する十二支の当て方はふつうと違い、特別な寺伝があるらしい。後陣は右に理智光寺の鞘阿弥陀、左に伽藍神。鞘阿弥陀はわきの格子窓から横顔がおがめる。堂の敷居は踏む人が多く砂だらけだが、戸車があって開け閉てはわるくない。ここのお堂は創建いらい土間なのだ。

 いまの覚園寺は京都泉涌寺の智海心恵を開山として執権・北条貞時がひらいた1296。その後、足利尊氏がやはり泉涌寺の12世・朴艾思淳をまねいて再興した旨が、薬師堂の天井の棟札1354に書いてある。もっとも胡粉の剥落のため、下からでは「聖寿」とか「天下」とか、部分的にしか読めない。全文は細長い板に書いて、前の柱にも吊るしてある。

 思淳の「月課年課目録」(市史所収)には貞時・高時一家をはじめ、尊氏みずからが殺めた実弟・足利直義の命日供養なども定められており、主に鎮魂の寺とされていたようだ。因果のはてに最愛の弟を殺してから、尊氏は元弘以来の怨霊の祟りをびびるようになり、さかんに法要をおこなった。境内奥には百八やぐらという中世の厖大な墓も存在し、犠牲となった多くの骸も、眠っているのだろう。


 お経をずっと聞いていたからか、「12時から、ずっといたでしょ」と和尚に声をかけられた。実際には中抜けして杉本寺の四万六千日にも行っていた。車はほとんどなかったけれど、金沢街道のアルカリ‐ランプの下を徘徊する人影がやはり、ちらほら。ASA(新聞屋)があって交番の赤いのがまわっていて、もうすぐそこだ。森の下闇に暗い提灯がともり、石段に蝋燭がちらちら。

 うすくらい堂内の、内陣にむかう閉ざされた通路のさきに秘仏がぼんやりとしか見えないのは、昼間とおなじ。前立ちの観音や毘沙門天、小柄な33変化など、いつもの仏像や絵馬をながめる。石段のかげにキリギリスがたかっていて、なつかしい気持になる。

 段葛が新しくなり、二の鳥居のかたわらにファミマができるなどして、鎌倉もすこしづつ小ぎれいで、ありふれたベッドタウンに近付いている。「人と同じ」であることの価値は、この国ではまだとてつもなく大きいのだろうし、それが住民の意思であるのなら、たぶん止めることははできない。「鎌倉文化人」とか、「生粋の鎌倉っ子」を自称する、自意識過剰なひとびとが多少は生き残っているにしても、だ。



TVのニュース画面から(2017.5.8)
 京都で地蔵盆といえば、こどもがお菓子目当てに町内の地蔵をクレヨンなんかで面白く化粧する。また、祇園祭の宵山でも、ちいさな女の子たちが「♪ご信心の御方様は・・・」と、わらべ唄をうたいながら、賑やかにお守りや献灯のローソクを売る。そんなのを思い出しながら、第二小学校のわきの真っ暗な道を二階堂にもどる。

 子供のころ、京都の送り火をみて、東山の無人のドライヴ‐ウェイをさまよい、そのまま終電で近鉄奈良駅に着いて、真夜中の阪奈道路を夜明けまでの時間つぶしに西の京まで、とぼとぼ歩いたことがあった。ところどころに集蛾灯がともり、水銀灯の下の自動販売機で名も知らぬメーカーの缶ジュースを買ったら当って、もう一本でてきた。・・・今日の夜はたぶん、子供時代の鮮烈な記憶のようには、刻まれはしないだろう。徹夜で歩き回るなんて、これがもう最後(?)なのだとしても。

 五月ころの赤潮の夜には、鎌倉の海が夜光虫で光るのだという。さすがにこれは見たことがないけれど、生きていれば、まだチャンスはある。夜空を眺めたが、暗い割に星もまばら。今日は台風一過で霞んでいるのか、数日前にはみえていた、大接近の火星はどこだろう?



六時前でも人出はたえない
 明け方、一斉に鳴くヒグラシの声を聞きに薬師堂の裏にでた。やはり以前よりはだいぶ減ったようにかんじられる。パワー‐スポットなのかイヌマキの幹に手のひらをつける若い女性も。左手には棟立井戸からながれる溝があり、右手には道をへだてて「旧・内海家」という古民家が移築されている。これは手広の名主の家だとか聞いた。道の先は墓地で、まいど柵には檀家以外の立ち入りを禁ずる旨が書いてある。

 特別公開のばあい、ここを越えて墓地奥にある、開山和尚らの古く巨大な石塔を案内されるらしいのだが、最近のようすは知らない。古絵図には、この手前に泉龍院とか蓮華院・方丈などが建っていたというが、それも定かでない。いぜん建長寺の風入れで泉龍院の古文書をみかけたが、廃寺のさい、住僧とともに散逸したのだろう。開山智海の「置き文(遺言書・1306)」には、現存する宝篋印塔のほかに灌頂堂なども建てるよう書いてあるのだが、いま横浜の宝生寺灌頂堂に伝わる大日如来は、江戸の初めまでこの寺にあったものという。また、十三仏やぐらの脇を登ると石造宝塔がたっている。ここは蜘蛛が張っていたから、まだだれも上がってなかったらしい。古いものかは知らない。

 ちなみに智海心恵の出身・京都泉涌寺は鎌倉で活躍した願行房憲静ゆかりの寺。承久の乱後、幕府がたてた後堀河天皇は、京都東山の今熊野にほうむられた。その子で幼くして死んだ四条天皇の葬儀は、たまたま隣接する泉涌寺でいとなまれ、以後泉涌寺は皇室の菩提寺として格式を高めた。覚園寺には、憲静が鎌倉に草創した大楽寺・理智光寺の遺仏が伝わる。


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