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もちださんの鎌倉リポート No.310(2018年9月9日)



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宋版大蔵経



(8.10)
 この夏、由比ガ浜にながれてきたというシロナガスクジラを見に行ったら、もうとうに片付けられたという。ハマユウがちょこっとだけ、咲き残っていた。

 「銀河ネットワークで歌をうたったクジラ」なんていう童話を、むかし読んだのを思い出した。この作家、いまどうしているのだろう。そのころ村上春樹の「めくらやなぎ」とか「街・その不確かな壁」「BMVの形をした・・・」なんてあったけど、こっちの人は大ヒットして、さいきん鳴り物入りでラジオ番組にも出演。いまさらドアーズとかGハリスンとか、途方もねえ懐メロを聞いてしまった(笑)のだが、昨今のネットラジオだと、いつでも暇な時に一週間分が聴ける。


 長谷寺は四万六千日っていう縁日で早朝から開いていた。朝から暑いので、境内では扇風機付きのミストがまわっている。すずしいけれど服に銀色の粒がついてくる。観音堂では和尚がお札をくれた。宝物殿(観音ミュージアム)や弁天洞はまだしまってたが、阿弥陀堂や一切経堂はあいていた。一切経堂はいわゆる輪蔵で、朝から参拝者がくるくる回している。

 回せばすべての経を読んだのと同じ功徳があるとされる。三方の壁に付いた計18個のガラガラ、いわゆる「マニ車」にも、おなじような謂れがあるようだ。仏教の宣布を「転法輪」といい、古代インドの遺跡では仏像のかわりに車輪を仏陀の象徴としているから、たぶん古いいわれがあるのだろう。

 厖大なお経を読破するには、それなりの修行と時間がかかる。専門の坊主がおこなう法要でも、大般若600巻などはとうぜん読みきれないので、転読と称し一巻だけを朗読し、大勢で手分けして折本をアコーディオンのように繰って、「全部読んだ」ことにする。大般若は唐代にかの玄奘が、インドから将来・編修した般若系経典の集成。もちろん孫悟空とかは架空の人物で、実際には飛鳥寺道昭など、遣唐僧にも弟子がいた。



横浜市歴史博物館
 大蔵経とは一切経ともいい、いわば仏教全書。写本のかたちでは奈良時代に玄ムや吉備真備がつたえたともいい、光明皇后は九月一日(奥付)経など、なんどか書写させた。日本に現存する手書きの古い写本には、中国大陸で夙に失われたはずの幻の初期経典(偽経)が載っていた事例もある。遣唐僧がどこかで発見してきたものを、写し加えたらしい。

 宋版の大蔵経は、唐の分裂で衰退した仏教を立て直すため、大宋が国家の威信をかけて再編集したもので、精緻な木版印刷と美麗な折帳仕立てがよろこばれた。ただ、大陸の古代国家には帝王の偏諱というものがあり、王名に使われた漢字などをはばかって、奇妙な異体字などを創作・改変する風習があった。すると南宋・元・明・清と、時代が下るごとに肝心な経典本文が崩れ、ひどく読みにくくなってしまう。日本や王氏高麗国などで盛んに模造品がつくられたのは、こうした「改変」を予防する意味があったのかもしれない。

 日本のものは「春日版」がよく知られている。平家の「焼き討ち」で版木が全焼したこともあり、初期にどのくらい進捗したかは明らかではない。高麗国でも少しづつ進めたことがしられるが古版はすべて消失、現存のものは蒙古占領下の高麗で製作をはじめ、李朝までに完了した版であるらしい。



「弁天窟、終了しました。」
 李氏朝鮮国と室町幕府・大名らがおこなった日朝交易では、王侯同士が取り交わす信物で「高麗版大蔵経」が望まれることがすくなくなかった。李王は犬などの毛皮やモンゴル風の花氈(フェルト)、木の実・蜂蜜などの特産物(方物)を贈りたがったが、それらは日本の嗜好にはあわなかったようだ。大名らは、菩提寺に箱のままどーん、と寄進できる大蔵経がほしかったのだ。朝鮮では鮑の螺鈿でかざった経櫃などに入れ、付加価値をつけていたらしい。

 大きな寺には、日本・宋(元・明・清)・朝鮮の三国大蔵経をセットで収める一切経蔵がたてられた。ただこれはカネで手に入れたものだし、全部五千冊前後にもおよぶ仏教全書は散逸しやすく、実用になったかどうかもうたがわしい。それでも形だけの需要はあったので、日本でも天海(寛永寺)版1648・鉄眼(黄檗)版一切経1681が版行されるなどした。

 これらは文献学的にいって、ほぼ「宋版」の編集範囲をでず、模造であり停滞したものでしかなかった。近代以降は「大正蔵」などあらたな仏教全書が編まれたり、サンスクリット原典など、世界各地で発見された多様な文献が続々紹介されるなどしている。


 経典の多くはインドや西域で作られたもので、主に竺法護や鳩摩羅什といったインド僧によって漢訳された。漢土の民衆向けに幼稚に創作されたものを古来「偽経」というが、主要な経のなかにもサンスクリット原典が発見されないものもあって、たとえば宮中で重んじられた「仁王経」、奈良の大仏が所依した「梵網経」などは灰色ゾーンの経とされる。

 また翻訳経にしても「四十華厳」「六十華厳」などの差異があり、原典じたいに多様なバージョンがあったことがわかる。「法華経」の「提婆品(女人成仏を説く章)」なんかは、巻末の識語によって唐土における後世の追加であることが知られる。つまりお経がしだいに加筆されたり改訂されたりしていたのだ。江戸の学者はこれをあげつらい、経のほとんどは釈迦の死後にでっちあげられた贋物と主張した。

 もちろん釈迦以降、龍樹・不空ら、無数の学者が仏教哲学を再解釈し、深化させてきたことを、すべて否定する理由にはならない。むしろ哲学史をすべて釈迦ひとりに負わせることにこそ無理がある。仮に釈迦が全てを説いたのなら親鸞も日蓮も必要なく、そこで仏教は完結していたことになるのだから。長谷寺式十一面観音などもまた、11の顔や、地蔵(僧形神像)と習合して錫杖をもち裸足でたつお姿は、唐や日本で変化した儀軌によるもので、インドにはない。



龍舌蘭(雪下)・芙蓉(収玄庵)
 聖徳太子が法華経などの義疏を書いた飛鳥時代の東アジアには、もともと三論宗など、極度に思弁的・学究的な仏教が栄えていた。そのため伝来初期でも難解な注釈書を引用・編纂する空気があった。平安時代には法華八講などといって講師が日常的に内容を講義したから、教義にうとい王侯貴族もその内容をある程度は理解して、法華28章の経文和歌などを盛んに詠んでいる。

 鎌倉時代には五山版をはじめとして、禅や浄土の書籍が版行、なかには仮名でかかれたものもあった。たしか尊氏だか直義にも「なむさかぶつぜむしむさり」の10文字を頭にすえた和歌があったと思う。

 日本には哲学がなかった、などと喝破して悦に入る学者は少なくない。が、そもそもそう言う歴史学者自身、まったく研究などしていないまま、「すでに殷の時代に中国独自の仏教がさかえた」などと、勝手な思いつきでうそを言っている。カントだのキルケゴールだのと、西洋哲学万能説もけっこうだが、世界各地を侵略してきたキリスト教・白人思想にひそむ自己正当化はいまだなにひとつ自覚されていない。こうした現状を俯瞰する専門の宗教学者も学識ある和尚も、けして多くはないのだ。


 八幡宮の池では蓮が咲いていた。赤は弁天島がある源氏池のほうに多く、平家のほうは白ばかり。八幡の縁起類には、八幡の名の由来として「白幡四つ赤幡四つ天より神前に下る」という説がある。平家も皇胤だから応神天皇の子孫なのだ。それにしても、閉鎖された旧美術館は一体どうなるのだろう。

 白の蓮。いまをときめく人気女優の石原さとみさんが好きな花。事情通はお気づきだろうけれど、法華経の原題は「正しい教えの白蓮華」。真理は泥の中にこそ花開く、という意味。蓮華は高山の絶頂で咲くだろうか。孤高の世界で自分勝手に悟っていても、そんなものには何の意味もない。あえて世間という「汚い泥の中」で純白に咲く花にこそ、意味がある・・・これは仏教が、はじめて現実社会に関わってゆこうという「大乗」運動の宣言なのだ。

 となりの小学校に咲いた龍舌蘭はまだ残っていた。百年に一度咲くというが、これはいろんな場所で、何度かみている。三千年に一度という優曇華は、一説に虫の卵とされるが、これは庭の植木についていたことがある。幼虫はアブラムシを捕食するいい虫らしい。撮っておけばよかった。


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