トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第311号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.311(2018年9月15日)



No.310
No.312



印融法印500遠忌・3



講義画面より(PP)
 印融法印500回忌の記念講座は去年(レポ290)に引きつづき、今年七月にも横浜市歴史博物館で催された。講師は金沢文庫で「宝生寺展」を監修された西岡芳文先生。宝生寺も印融ゆかりの寺で、地下鉄「吉野町」から掘割川にむかって15分ほど、週末に中華の直売をやってる「正華」の、山裏にあたる。

 宝生寺の秘宝に「旧覚園寺の大日像」とともにつたわる「印融の伝法印信(証明書)」。その宝生寺印信の一部とみられる断片一枚を新たに西岡さんが発見されたが、そこには従来確認されていなかった、印融自筆の「花押」がしたためられていた。そしてその花押の形は、一流大名のみが用いるような格式の高いもので、「印融は実は宅間上杉憲直など、高貴な武家の出身ではないか」とする、つとに述べられてきた仮説を裏付けるものとしている。


 印融生誕地ちかくの榎下城(横浜市緑区)を拠点とした上杉憲清―憲直は、鎌倉報国寺をひらいた宅間家の出。南北朝時代には重能・能憲などが活躍した名家だった。上杉禅秀の乱で犬懸上杉氏が没落すると、憲直は鎌倉公方足利持氏の寵臣として一色直兼らとともに台頭。ふたりは公方の寵をたのんで管領山内憲実と対立した。

 危機を察した憲実は軍勢のいる守護国上州に逃げ、京の将軍家に「公方持氏の謀反」を訴え、討伐を請う(永享の乱1438〜)。これを追って持氏も府中高安寺に出陣するが、箱根を越えてきた京方の大軍に憲直らの軍勢は後退、公方も海老名に陣をうつす。しかし留守中の鎌倉を攻められ、公方の嫡男義氏を報国寺に幽閉(翌年殺害)。ここで持氏も降伏を決意し、山内の家宰・長尾忠政の甘言にのって金沢称名寺に入り、出家。しかし赦されることはなかった。

 憲直をはじめ一色、海老名氏らは金沢に於いて最後の合戦にいどむ。「その隙に憲直父子二人・・・以下一族門葉、心静かに念仏申し、指し違へ/\算を乱したるごとくに重なり合いて死ににけり」。憲直の次男持成も山内徳善寺で立派な辞世を詠み、「・・・九寸五分の刀を抜き、左の脇より右の乳の下まで引き廻す」ところを介錯の傅親(めのと)によって首をおとされた。持成は名前からして公方持氏の烏帽子子とみられる。



上行寺東遺跡・龍華寺
 そうして公方持氏も鎌倉永安寺に幽閉のすえ翌年に命をおとすのだが、「このまま公方府が消滅していいのか」が関東武士のあいだで議論となり、結局持氏の子、成氏が探しだされて公方を継ぐ。勝ったはずの山内憲実も責任を問われて出家、長寿寺にて自殺未遂の末、事実上の追放になり、下野足利学校を復興したり、諸国を放浪するなどして死んだ。

 宅間上杉憲直の長男憲家の遺児とされる淡路守憲宗・上総介憲房なども、どこかで生き残って復権する。乱の当時、それぞれ6歳・3歳であるから、印融(4)と世代的にはおなじだ。宅間上杉一族にかんする記録はけして多くないが、宿敵・高師直を殺害しながら公方府に帰参し、関東管領にかえりざいた功績は大きい。さきにのべた憲直の次男持成の辞世というのは、「合わせ受く百年煩悩の業、今朝端帰し身を清に転ず。心頭を滅却して化縁は尽き、直に向わん本来空性の行」などと、仏教的な知性も窺わせる。

 また、この合戦で「六浦引越道場」で討ち死にした海老名氏の墓というのが、近世まで泥牛庵の後ろの山にのこっていたという。「引越道場」とは、現在では京急の線路で切りとおされているが、おそらく山続きの上行寺東遺跡のことで、現在分譲アパートが建ち、かたわらに遺構の実物大模型がおいてある。そこには当時、のち印融らによって別の場所に再興された龍華寺の縁起類にみえる前身寺院、浄願寺という寺があったらしい。


 浄願寺は弘法大師伝承の地に、頼朝・文覚によって瀬戸神社別当寺としてひらいたものという。のち鎌倉入り前の忍性がすんだり、弘長二年1262には京都東寺の能禅がここで住持弁誉に堂上灌頂をさずけたという。能禅法印は宏教律師らにつづいて鎌倉に招かれたらしく、西院流伝法血脈には正嘉二年1258称名寺伝、建治三年1277佐々目伝などとみえ、この法脈(能禅方)の末を印融も引いている。その他、おなじく仁和寺西院流(元瑜方)、頼瑜らを通じてもたらされた三宝院流(道教方)など、印融がうけた法脈は同時代の関西のものではなく、全て【鎌倉時代に関東に流れたもの】だった。

 その浄願寺が戊戌の年1479兵火で焼け、印融の勧めによって弟子・融弁のすむ光徳寺に合併、洲崎龍華寺として再興されたのは、1499年とも1507年(弥勒二年)ともいう。同寺の鐘銘はつぎの善融僧都の名がきざまれているが1541、これは追刻で本体は鎌倉時代の鐘かもしれないという。「戊戌」の兵火は大田道灌の活躍時期だが、詳しくは不明。同世代の宅間淡路守憲宗らもこのころ死んでいる。

 かつて金沢合戦で宿敵上杉憲直を滅ぼした山内憲実は、貴重書を前後して足利学校に移している。合戦の巻き添えに金沢文庫が焼けてしまうことを恐れていたようだ。印融が憲直の子孫だとすれば、まさしくここは父祖玉砕の因縁の地でもあった。奇跡的に焼けずに残った称名寺界隈の聖教を、子孫である自分がなんとか復興し、守り広めたい。そして弥勒成道の暁に、修羅に堕ちた父祖を仏・菩薩としてよみがえらせたい。そんな思いもあったかもしれない。



古文書の展示と西岡先生
 講演で西岡先生が述べられたのは、鎌倉時代の関東に密教が本格的に伝わったのは、元寇の影響かもしれないという。高野山の復興は鳥羽法皇にはじまり、頼朝・政子も一役買ったが、「ブラタモリ」にも出ていたように、参道に「町石」を建てるなどした安達泰盛が最も熱心だった。泰盛は元寇防衛の責任者だし、金沢文庫の金沢北条氏は婿、遺身院をはじめ密教寺院があつまった甘縄笹目は「お膝元」だった。

 密教の関東移植は、いわば兵火にそなえた「疎開」だったのでは、という。印融は晩年、「杣保隠遁抄」をあらわし秘説を集成しているが、この「隠遁」ということについても、関東の津波や地震といった天災などから教説の「疎開」を意識したのではと、西岡さんは言われる。杣保とは85歳で没する、ほんの七日前まで行き来した、東京青梅の柚木即清寺のこと。

 はたして元寇が実際に、関西にやってくることはなかった。しかし「戦国」「下剋上」の思想は全国をおのずから修羅の巷(ちまた)に変え、儒学による無仏無神論が、みずからを恃む為政者・知識人の心を、なし崩しに捉えはじめていた。


 高野山は印融の没後、まもなく大火に襲われた1521。ただでさえ戦乱で経典類をうしなった寺もおおかっただろう。高野山でも山内の堂衆ら、みずからの紛争で全山焼失した事があった1464。

○ 実にその時に当たりては、山中に更に以て一宇も残るべきとも覚えず。中々浅ましき次第なり。凡そ一山の伽藍・名跡・経蔵、聖教等の御筆御作、多分に焼失し畢んぬ。相残る分は、九牛が一毛なり。・・・(永正十八年高野山焼失記)

 弟子の無量光院覚融が187代高野山金剛峰寺検校になったのは、大永の大火の復興がなった時期だ。印融が関東にいながら「無量光院の中興開山」になったのは、寛正の大火の復興時期で、各地にのこる文献の再結集をはじめ、教学の復興や資金集めを担当する、いわば名誉住職のようなものだったのかもしれない。実際に「幼くより高野山に登り老年まで居住した」のはたぶん、若き弟子の覚融の方なのだろう。



堂屋敷裏山からは五つの花火大会がみられる。中央は榎下城跡
 印融の編著は、江戸初期に京都の書肆から複数板行された。写本をふくめ、弘法大師ゆかりの四国善通寺など、全国各地に厖大な数が伝わっているという。

 聖教の伝播には、戦国を経て空っぽになった寺側の、とりあえずの都合ということもあったのかもしれない。復興が進むにつれ追々その有り難味が薄れ、泰平の世に登場した京都の学僧らは、自らの所説を誇るため、「印融のつたえた鎌倉密教はにせもの」などといった、謂れのない誹謗中傷もふえていったらしい。

 それはともかくとしても、近世の権力者はもはや盛大な密教修法には興味をうしない、教学の形骸化と、それを埋め合わせるための大衆化には、歯止めがかからなかった。それは五輪塔の衰退・中世板碑の消滅など、目に見える形で現れている。


No.310
No.312