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もちださんの鎌倉リポート No.312(2018年9月24日)



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印融法印500遠忌・4


 印融修行の瀧とつたわる場所にふたつの石仏がたつ。かつて石仏はひとつで、熱心に信仰していた者がなぜか病に苦しんだ。実は川を渡るとき、毎日踏んでいた飛び石がこのうちのひとつであったという。

 不動と瀧の出会いは雑部密教の修験道に由来するようだ。はじめは「室生の龍穴」などがしられるように、水源信仰が先にあって、しだいに本尊が定まっていったのだろう。とくに所依する経はないようだが、これは日本各地の神々に本地の仏菩薩が定められてゆくのとおなじだ。比叡山の千日回峰をはじめた相応は比良山中の瀧で不動尊を感得した。真言宗ではきりもみ不動(身代わり不動)の伝説も名高い。



某旧家にたつ手作りの塔
 ようするにこれも、ありふれた瀧不動にすぎず、印融の名はどこにもでてこない。印融が架けたという小山橋(念仏橋)にしても、根付きの菩提樹、念珠坂などにしても、みな後付けの感は否めない。観護寺の閼伽の井にいたってはつとに失われ、コンクリの堂が建っている。印融はわすれられた人なのだ。

 「武蔵国風土記稿」の都筑郡小山村観護院の項には、「しぱ/\回禄に逢ひて旧記等烏有せしかば、後願ふべき便りもなく、往時を知る事を得ずと云ふ」「開山詳らかならず、僧印融を以て姑(しばら)く開山とせり」とし、「印融は久保村の産にて同村旧城寺の住職となり、他山へも移転して後、また当寺に来たり」とつづく。

 「旧城寺住職」説は「風土記稿」にのみみられ、同書橘樹郡鳥山村三会寺の項にはこれを「当寺の末、観護寺の伝」などとしている。ただ印融の時代には旧城寺はなかったため、おそらく観護寺そのものの前身がいまの旧城寺ふきんにあり、のち現在地に移転したことの訛伝ではないだろうか。関西で編まれた「野峯名徳伝」1687・「本朝高僧伝」1702・「高野春秋」1719などのたぐいとはちがい、「風土記稿」は地元の伝承をそのまましるしたものだけに、貴重な証言だ。



団地にかこまれた浅間砦・私年号板碑があったという西八朔杉山神社
 高野山無量光院では、印融の孫弟子・清胤(1521-1600)なるものが上杉謙信に伝法灌頂を行ったとし、謙信とのゆかりを誇っている。清胤を訪ねたのは長尾景虎(24)となのる青年時代、初度上洛の折のことらしい。印融(1453-1519)が謙信(1530-1578)の子だなどとする俗説はそのへんから生れたようだが、もちろん時代が錯誤し、親子ではありえない。

 いっぽうで謙信は小田原攻め失敗の腹いせに、三会寺に放火したとのつたえもある。「風土記稿」観音堂の項に「永禄三年上杉輝虎、鶴岡八幡宮拝賀の帰路、この辺りの堂塔寺院を放火せしとき、この堂も兵火に罹りて烏有となれり・・・古縁起六巻及び旧記等は皆、焼失せりと云ふ」。謙信蛮行の伝えは他にも多く、案外これは事実かもしれない。

 印融のあと、三会寺は継範・隆全・覚賢・継印・経融・・・と続いたらしいが事績は詳らかではない。三会寺の印融墓がぼろぼろなのも、この時期の荒廃をうかがわせる。



念仏橋。左奥に観護寺の屋根がみえる
 観護寺の墓は比較的きれいなのだが、セットになった左右の墓は「真仏法印・文禄五年九月五日」1595「印能法印・元和九年九月二十一日」1623などとあり、徳川開幕の微妙な時期に再整備されたものとみられる。「この墓の地を掘ると身がしびれる」などという伝えは、石塔がなくなっていた時期があったこと、あるいは移動の記憶を示唆するのかもしれない。

 桃山〜江戸初期といえば後北条時代の土豪を逐次一掃し、旗本らに采地があてがわれるなど、在地領主は不安定だったようだ。こうした政治的転換期に伝法や伝承が一気にうしなわれることは、たぶんにありえる。住持は学識よりも檀縁でえらばれるものだし、中世までの寺は特権階級のもので、地元庶民からみれば年貢を納める荘園領主でしかなかった。

 小机には早雲以来の古参の寵臣・笠原氏が入部していた。謙信が三会寺を焼き払った(?)のも、あるいは当時の和尚が北条側とずぶずぶだったのかもしれない。たとえ露骨に兵站を供給したり、「調伏の祈祷」なんかやっていなかったとしても、嫌がらせの一環としてとばっちりをうけることは、大いにありうる。いっぽうの小田原北条氏が山内・扇谷勢力を倒し関東を席巻したさいにも、おそらく同様のことがおきたはず。



奥の森が旧城寺
 遠藤先生のレジュメ(レポ290)をみると、生涯のほとんどを横浜周辺で活動していた印融が、「諸尊表白抄」を書いた延徳(福徳)三年1491ころには埼玉・川口錫杖寺に、また「杣保隠遁抄」を書いた晩年1514〜19には東京・青梅即清寺や浦和延命寺に異例の遠出をしているのがわかる。

 そのころにもまた、三会寺や観護寺に、焼き討ちなどの危機がせまっていたのだろうか。引越し土産ともいうべき渾身の主著が、わざわざ出先で執筆されていることも注意される。隠遁という刺激的な言葉もさることながら、貴重な研究ノートなどを持ち込んでの事でなければ、単なる旅先で大著を編むのはむずかしい。かれを愛する地元から追い立てた理由は定かでないが、前者は両上杉が争った長享の乱のさいちゅうで、革命信仰をしめす私年号「福徳」とかさなっていることも注意される。

 また印融の晩年は早雲のそれとかさなり、相武地域には権現山合戦1510、逗子住吉城攻め1512・・・などと続くのだが、小机地域への侵攻時期については明らかでなく、印融が没して四・五年後にはほぼ陥落したものと推測されている。


 500遠忌の法要は今月、観護寺でもひらかれた(上)。舞台などつくり、何をするのかと思えば法要と同時進行で無関係な雅楽などをやっている。たしかここの婆さんかなんかが雅楽会をやっていて、それを披露するためらしい。

 ただ客席ははしっこで、正面に自前のカメラを何台も装着。本堂を覗けば本堂内もそうなっている。ようするに参拝者は「カメラマン」の尻を始終おがむようになっていて、他人を近付けないよう、いちいち注意している。息子を披露するならほかに方法もあるだろうに、ふだん静かな寺の、五百年に一度のイベントに、和尚やその家族もまいあがっていたのだろう。

 高野山の僧を招いたといっているが、はしっこからは全く見えないし、さすがに息子の尻に賽銭箱をつけるわけにもいかず、本堂は雅楽テントの裏だから、ろくに手を合わせるものもない。お経と雅楽がまじりあった音はまだ続いているようだったが、河辺の果樹園のあたりをちょっと歩くうちに、それも消えた。五百年、すべてが消えてしまうには十分な時間だ。



「横浜市史稿佛寺編」ndl
 現在、古寺の観光化がはやるいっぽうで、寺離れは確実にすすみ、墓参の車の列もめっきり減った。誰もが断縁して無宗派の無縁墓に入りたがっている。意識の低い僧やその家族は、まだ自分たちが尊敬され、ちやほやされていると思いこみ、特別視されることのみを望んでいる。そうして檀家や参拝者は、少しづつ内心の信仰を失っていった。

 あやしげな新興墓苑でも、旧来の寺よりはまし。常連にばかりべたべたする昔ながらの商店よりも、コンビニのほうがずっといい。そんな人が多くなった。

 どの土地でも、新興宅地の住民と旧家の人間との仲はよくないようだ。昔かたぎの年寄りは、自分がいまでも村の主であるかのように振舞いたがる。このへんにも遠い親類やその縁者はすくなくないのだが、だれもがいい人間であるはずもなく、墓じまいする若者や、新住民がいやがる気持もよくわかる。独占したければすればいいのだ。記憶や信仰が滅んでゆく理由も、おそらくは奈辺にあるのだと思う。(終)


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