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もちださんの鎌倉リポート No.314(2018年10月13日)



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杣保の結衆板碑・1


 JR青梅線は東青梅駅をすぎるといきなり単線となり、線路と住宅地は多摩川の深い谷の中腹の斜面に沿って続く。鉄道マニアなら青梅鉄道公園を訪ねた方もおられると思うが、まあなんでこんな所に、という坂の上に昔のSLが並んでいる。町おこしのコンセプトは「昭和レトロ」で、駅には古い映画看板やバカボンパパの銅像が観光客を迎える。

 この木下神社の十三仏月待ち結衆板碑1470は、青梅より五つ程先の「軍畑(いくさばた)」という無人駅で降り、はるか下の方にみえる軍畑大橋を川向こうの柚木の集落にでて、ちょっと路地に入ったところにある。ささやかな神社はGoogleMapなどで見つかると思うが、板碑のあるこのほこらは社殿のやや右奥、竹やぶ交じりの林のなかにあり、杉系の木が鬱蒼と茂る多摩川の崖に面して、里に背を向けるように建っている。



左端はすぐ崖
 板碑は瓔珞に日月をあしらう典型的な後期板碑なのだが、竹の葉にまみれ、あまりおがむものもなさそうだ。祠にはほかに「徳治二年八月日」1307の弥陀一尊板碑、石塔類や断片などがおさめてある。写真の右手前をおりてゆくと宅地の間にちいさな畑があり、色あざやかなコスモスが咲き誇っていた。

 この青梅市あたりを、中世には「杣の保」と呼んだ。杣とは木材を伐り出す山のことで、真っ直ぐに枝打ちされ、あちこちには伐られた尾根もあるから、いまも林業は細々と続いているのだろう。JR青梅線をさらにふたつ行けば、山犬(大口真神=狼)を祭る霊社として名高い武蔵御嶽神社がある。その別当寺院(世尊寺)頽廃後は、ここ柚木の即清寺が兼帯したというから、すなわち門前町でもあったのだ。

 山犬は、修験道で先史的人物としてあがめられる日本武尊を先導した神使(つかわしめ)とされる。いまでこそ吉野街道を車やバスが行き交い、郊外住宅化がすすんでいるが、その昔にはじっさいに狼もいたのだろう。青梅市郷土資料館には、その骨とされるものも展示してある。


 板碑には「文明二年十月廿三日 月待供養 一結衆敬白」と刻まれる。日付からして下弦の月を極楽往生の「迎接の船」として仰ぐ二十三夜待ちの講が開かれていたことがわかる。一方の梵字(種子月輪)は、三十三回忌供養の本尊虚空蔵菩薩(タラーク)を中心に、右上より阿閦(七回忌)勢至(一周忌)薬師(七七日)地蔵(五七日)文殊(三七日)不動(初七日)、左上より胎蔵界大日(十三回忌)阿弥陀(三回忌)観音(百ヶ日)弥勒(六七日)普賢(四七日)釈迦(二七日)、計十三仏があしらわれている。

 中世には逆修(生前葬)がはやり、そのばあいは短期間に13回の仏事をまとめておこなう。十三仏板碑も一枚で13回分のおトクな回数券としてつくられたのだろう。ただ、個人の逆修には贅沢すぎたのかもしれない。多くは村の主百姓らのグループ(結衆)が購入し、仏事も節約して「二十三夜待ち」などに転用してしまったようだ。

 もちろん月待にだって成仏の願いは含まれているのだが、正式な仏事というよりは民間信仰・年中行事にちかく、欲張りな庶民は二十三夜の「三」にかけて安「産」だとか、村の安穏・豊作などといった現世利益をも、思い思いに祈っていたようなのだ。



軍畑駅より川向うの柚木方面をのぞむ。軍畑大橋ははるか下
 板碑が営まれた文明二年は、関東では大田道灌(39)の全盛期で、連歌師心敬(65)らを江戸・品川に迎えるなどしていた。鎌倉密教の再興を志す学僧・印融法印(36)は、この年高野山に登っている。

 杣保一帯を治めていた三田氏は、平将門の子孫などと自称していたが、その出自はさだかでない。ただ杣はもともと律令国府のものであったから、武蔵国衙を管掌した畠山重忠ら武蔵平氏の伴類と考えるのが妥当だろう。冒頭にのべたように、まだ平地がのこる東青梅あった勝沼城というところが本拠であったが、関東管領山内氏に従い、戦国大名後北条氏に抗ったがゆえに滅ぼされた1563。

 その終焉の地が、軍畑の山上にあった辛垣(からかい)城という山城で、その麓の軍畑という地名は激戦の地で、死者を埋めたという「鎧塚」なるものものこっている。青梅周辺の中世遺物はこの三田氏にまつわるものが多く、当然無銘のものであっても、なんらかの形で三田氏の影響下にあったのはまちがいない。近世の兵農分離で刀より土地をえらんだ、いわゆる「村の主百姓」たちも、中世には歴然たる武将・武士たちでもあったのだ。



「福徳二年」
 東青梅の勝沼城跡の近く、宗泉寺という禅寺には「私年号板碑」がいくつか伝わる。私年号は独自の文化圏を示すものだが、宗泉寺自体は天文年間1550創建というから、板碑はそれ以前のものだ。あるいは三田氏滅亡後、後北条時代になって前身寺院が立ち退きを迫られたのかもしれない。軍畑の手前、二俣尾の海禅寺には遺臣・野口氏らによる主君の供養塔が残っている。一族のうち、小田原に属いて生き残ったわずかな系統のみが、のちに旗本になった。

 三田時代の勝沼城にやってきた文化人に、連歌師・宗長(1448-1532)がいる。宗祇の高弟・宗長は奥州白河へむかう途中、藤沢から青梅に分け入り、三田氏宗・政定父子とともに馬に乗り山内方の拠点・鉢形城(長尾顕方)、そして足利学校などを訪ねている。また「宗長日記」によれば後年にも政定と会っている1531。氏宗は宗長のつてをたどり、書状を介して三条西実隆にも歌をまなんでいたようだ。

○ 武蔵国勝沼といふ処に至りぬ。三田弾正忠氏宗、この処の領主なり。・・・ここの休らひ十五日に及べり。連歌度々有り。
 霧はただ分け入る八重の外山かな
・・・この山家、後ろは甲斐国の山・北は秩父といふ山に続きて、誠の深山とはここをや申すべからん。(「東のつと」1509)


 杣保へは遊行二世・当麻上人真教も来たといわれ、今日思うよりはずっと賑やかな土地だったのかもしれない。杣の巨大な木材は寺社や城郭の建設に欠かせないものだった。これを安く大量に運ぶには、谷間の急斜面を上手く滑らせて集積しておき、多摩川のような大河の増水時を利用すれば、当時の技術でも容易だったはず。

 天守閣に使われたような数百年の大木などはすでに切りつくされたのだろうけれど、その後も人の手で植え継ぎ、神殿の柱のような壮観をほこっている。戦前には軍畑のひとつ先、沢井あたりの丸太が名高く、筏流しも行われた。いまでは都市化や人件費などから搬出がむずかしく、容易には利益がでないから、格段に太く育つまではこのまま放置しているのかも。

 里山は自然ではなく、ほとんど人の手が加わっている。農政と流通が極度に発展した近世には、一見つまらない草木でさえ徹底的に利用つくされ、カネになった。したがって庶民はさまざまなものを植え、手入れを欠かさず役立ててきたのだ。気安く自然保護とか緑地保全だなどといっても、ただ放置するだけではすぐにバランスを崩し、荒廃してしまう。



即清寺明王院
 かの印融法印も、晩年はたびたびこの地に滞在した。本拠とした横浜の三会寺・観護寺ふきんから青梅柚木までは、小牛に乗ってちょこっと行けるような距離ではない。JRでも千円くらいかかり、立川に迂回するか本数の少ない単線電車(八高線)を乗り継ぐか、現在ですらちょっと面倒。青梅で著した「杣保隠遁抄」は秘伝口伝の集大成だから、参考資料も運ばなくてはならない。85歳の身にはひどく応えたのだろう、八月八日に秀尊という者に印信(伝法証明書)をあたえ、七日後、帰郷まもなく死んだとつたえている1519。

 晩年の印融が再興し、秘伝の全てを伝え残そうとした杣保柚木の明王院にも、残念ながらすぐさま破壊と略奪の時代が忍び寄ってきた。風土記稿に載る江戸期1630の鐘銘によれば、没後まもない大永年間(1521〜28)、「国騒動により凶徒往来して当寺の鐘を奪う。爾(これ)より以往、梵響絶えて続かず、鯨声廃して興ること無し」などと、日に日に衰微する寺の歴史が刻まれていたという。


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