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もちださんの鎌倉リポート No.315(2018年10月19日)



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杣保の結衆板碑・2



即清寺と愛宕山
 印融が通った明王院即清寺はもともと広く、近くの吉川英治記念館の裏手にある愛宕神社の別当寺で、神社の奥のほうにも境外堂として、「奥の院」のひとつ久石山不動尊がある。神社を勧請した相馬師秀は平将門の一族で、三田氏の先祖ともいう。沿革は未詳ながら、武蔵御嶽神社の別当寺の代理をつとめたこともあり、同社の里坊のひとつだったのかもしれない。

 「風土記稿」にみえる江戸期の伽藍配置は現在復興されたものとはことなり、観音堂に薬師堂、印融も滞在した円光坊も残っていたようだがいまはない。古文書はつとに灰燼に帰し、頼朝・印融にまつわる縁起が刻まれた貴重な旧鐘(25世覚珍記1630)すらも、戦時の供出で失われたとか。見るべきものといえば明治の火災に救い出された山門の二天像や、入って左の祠にある十三仏交名板碑1473くらい。


 交名とは名前のリストのことで、阿弥陀三尊の種子と三具足(仏壇)を刻む板碑の下部に具体的な人名が列記される。風化してよみづらいが、親切な影印ボードがかかげてある。「十三仏」は主尊キリーク(阿弥陀)のまわりに残りの十仏の種子が小さくとりまいて月輪をなしている変則的なデザインだ。「文明五年 癸巳 十一月吉日」、願文は「現世安穏・後世清浄」。

 人名は右側の「頼承律師」以下、「秀宥律師・秀寿記×・祐海律(師)」というのが印融以前の住持らとみられ、後述する江戸期の「血脈」によれば(4世)秀宥らに相当するようにも思われるが、世代観からみて年号よりはるか以前の人物だ。祠にたつ古い木製の立て札には「当山二十四世宥海律師」などと、実際の板碑や影印ボードからは読み取れない人物の名も記され、かえって謎は深まるばかり。

 左側の「和泉公」以下、「妙秀大姉・道昌禅門・妙忻禅尼」は在家の号で、実質的な願主・檀家であろう。「和泉公」の名は武蔵御嶽神社の「棟札」1511などにもみられ、三田氏宗および子息らによる同社社殿修復事業について署名している。これについては古文書を博捜すれば、なにか手がかりがつかめるかもしれない。



左上に「和泉公」
 即清寺は根拠不明ながら、平安前期(元慶年)に「元喩和尚」なる人が開いたとされる。ただ600年後の印融が10世住持とされるなど、不自然な点も。江戸時代に31世融範の書いた「即清寺印信写し」に附属する「西院流血脈」を住持次第としてたどってゆくと、印融はたしかに10世にあたり、鎌倉で頼助・宏教らから伝法された「元瑜僧正」(1228-1319。鶴岡八幡宮寺供僧・笹目遺身院住)こそが初代、すなわち中興開山に擬されていたことがうかがえる。このばあい世代的にも合うし、もともと印融は元瑜方を別方面からも学んでいたから、この寺を択んだ理由もはっきりする。

 前述の「旧鐘銘」によれば、まず草創期に天台宗の円珍大師作の不動明王像があったといい、頼朝がそれに帰依し、建久年間に畠山重忠に命じて山上に愛宕社・麓に堂舎を再興させたといっている。武蔵御嶽神社には畠山重忠奉納とされる国宝の鎧もつたわり、里坊のひとつも再興に勤めたというのは、ありそうなことだ。元瑜はさらにその後の人物であるが、「旧鐘銘」には「・・・これ故に、西院の法水この処に澄湛として、宏教の緇流この地に潺湲たり」と、やや早く宏教(1184-1255。鎌倉無量寿院住)の時代には真言宗へ改宗したように記している。

 宏教は能禅方の祖でもあるが、この寺には元瑜方しか伝わらなかった点からみて、やはり元瑜一門の中興とみるのが自然だろう。ちなみに「両部血脈私抄」によれば元瑜方の法脈は、細かにみると鎌倉雪ノ下から何度か高野山に伝え返されるなどしており、伝法を確実にするため、他者から何度か受けなおすこともあったようだ。印融がここへ来たり、あるいは高野山に登ったのも、学んでは教え返す、このあたりの事情がからんでいたのではないかと推察される。



融範の墓。「血脈」は印融展図録に所載
 「風土記稿」には寺に頼朝と八王子城主北条氏輝(照)の位牌があったとする。氏照は三田氏にかわってこの一帯を支配した。古記録は火災だけでなく、支配者が変わるたびに失われることもある。歴代墓には「卅一世法印融範」「法印融慧・・・当山中興・・・文久二壬戌年」などと刻む五輪塔がならんでいるが、さらに古そうなものは風化と斑らに腐爛した苔の痕で、もうほとんど文字はみえなかった。

 印融はこの地に来た頃、すでに80をこえていた。「杣保隠遁抄」(全20冊)の奥書には、弟子のためだけでなく、後世の読者のために震える筆をとって書くのだといっている。また別の写本には、幼い龍王丸・松寿丸のために再び一から清書したなどとのべている。この稚児がいったい誰のことかは、詳らかでない。

○ 永正十一年(甲戌)六月中旬の候、武州杣保氷河郷由木村の明王堂に於いて、紙衣の袖を以て老眼を拭い、筆軸の端を以て老手に握り、且つは今時の弟子の為、且つは後世の末学の為にこれを記し了んぬ。
十三年(丙子)二月中旬の候、松寿丸(満十歳)の所学の為に書写するなり。 印―、八十二歳。


 即清寺へは先の木下神社からもさして遠くないが、青梅からのバスや、無人駅「石神前」で降り多摩川に下って行く方法もある。さいきんはどこも自動改札だから無人駅といっても驚かないが、この駅などは鄙びた花壇にかこまれていて、ちょっと懐かしい雰囲気。

 墓地の裏山には幕末の和尚がつくった新四国88ヶ所の石碑があちこちにいけてある。吉野山園地と称し、梅見の山として流行らせようとしたらしい。寺の南、すなわち柚木地区に隣接していまは梅郷といっているが、かつては吉野村といって杉田とならぶ梅の名所だった。ただ、青梅の梅はウィルス感染により近年、だいぶ伐採されてしまったのだという。

 「青梅」の由来として、三田氏の先祖・平将門が馬の鞭に使っていた枝を地にさし、願をかけた。野望半ばに果てたものの子孫は繁栄、梅もまた青梅一帯にひろまったが、元々の梅に限ってはけして熟することなく、青い実のまま秋を迎えるのだという。青梅駅の西、金剛寺というところにその老木が伝えられてきた。



石神前駅・釜の渕公園
 青梅市郷土博物館は青梅駅前から住宅地の狭い坂道をほぼ道なりに、表示にしたがってどこまでも下って行くと川べりにでる。橋をわたってすぐ左下のところだ。例の青実の梅は接ぎ木などしてエントランスの前にも植えられているが、残念ながら今は柿の季節。

 博物館のまわりは多摩川の渓流と里山を活用した公園となっていて、カタクリの群生地とかいった看板もある。橋のたもとには中国から贈られたという何本ものサンザシ(山査子)が実をつけていた。サンザシといえば中国の名物駄菓子「山査餅」がしられる。果肉を固めた、ほんのり甘酸っぱい極薄のチップスで、ゲームコインというか、サラミソーセージといった見た目のものが重ねて薄紙につつまれている。

 実物ははじめて見たが、姫りんご、というよりざらざらした梨の小さいのを梅酢で赤く染めたよう。食用の品種だが、生食では味がないらしい。いっぱい落ちてはいたけれど、鴉なんかは甘い柿の実のほうを択ぶのかも。


 博物館では「青梅市の板碑」展が開かれていた。郊外開発はこのあたりでも進んでおり、新たにみつかるものも多いらしい。金泥や光明朱(生前墓にさしておくもの)が鮮やかにのこるもの、板碑を立てるための台石なんていうのもある。ふたつの挿し込み穴があるのは双碑(父母・夫婦用)のためのものなのだろう。

 なかでも目をひくのは「私年号板碑」。いぜん印融が埼玉県川口市の錫杖寺で編纂した「諸尊表白抄」にも、福徳二年という年号がしるされていた。晩年にも青梅のほかにさいたま市浦和の玉蔵院(延命寺)などに通ったことが、自筆の奥書にみえている。その周辺にも私年号板碑は多いのだが、そういえば印融がいた観護寺ちかくの西八朔にも、「福徳」年号の板碑が確認され、鎌倉でも同年号が八幡宮座不冷壇所の「著到の軸」や、光明寺の後土御門勅額裏など、いくつかにみられたという(古事類苑。いずれも現在、所在不明)。

 私年号の先には、いったい何があったのだろうか。実年号を知らない武士や庶民の迷信というには、印融のごとき碩学の僧の存在はエリートすぎる。「甲斐妙法寺記」(日蓮宗)をはじめ時宗・天台宗などでも用いているため、特定宗派による「世直しプロパガンダ」でもなさそう。私年号については、まだほとんど解明されていないのだ。


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