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もちださんの鎌倉リポート No.317(2018年11月12日)



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彫像について・1


 鎌倉には大仏のほか、鎌倉時代の由緒ある彫刻はいがいに少なくて、ほとんどが南北朝以降の再興期のものとされてきた。しかし、さいきんの調査で、大船・常楽寺の本尊は創建当初のものという見方がつよまった。

 鎌倉の仏像は上方にくらべ宋風の影響が顕著で、かつ小柄で質素でもあるため、時代が下り粗製乱造がすすんだ室町期のものとして鑑定されることが多かったらしい。ふるいガイドブックではほとんどそうなっているが、なにも京都の仏像が宋風になってからでなければ東国には伝わらない、などという法はない。禅宗文化はむしろ、鎌倉のほうが早く流行っていたのだ。だから、たとえば東慶寺の水月観音なんかも鎌倉時代という説が徐々につよまってきている。

 また後世創建の時宗・日蓮寺院にも、伝来不明ながら平安・鎌倉とみられる客仏がいくつかある。ただし薄暗い本堂の奥にあるなどして、とくに注目をあびることはなかった。



学研MOOK「鎌倉仏像めぐり」2010
 最近は仏像マニアも多く、充実したムック本などもでているから、私たち素人にもいろんな「秘仏」を写真鑑賞できるようになってきた。本覚寺の日蓮像のうしろにあるこれなどは、中世の宋風宝冠釈迦の典型的な佳作で、おそらく由緒ある禅宗系の廃寺から引いてきたものと思われる。

 本覚寺は鎌倉公方府衰退期の創建だから、ちかくに永享の乱で焼けたばかりの半端な寺堂があったのかもしれない。そのような世相であれば新たに立派な寺や仏像などつくれるわけがないし、そもそも日蓮宗に禅宗様の仏像を造る習慣なんかないのだ。

 みずから寺を建てず、無縁の廃寺を拾う習慣のあった時宗寺院にも、院政期から鎌倉時代の小柄な阿弥陀三尊がつたわっていたりする。有名どころでは廃絶した頼朝法華堂や義堂周信の報恩寺の仏像が近くの西御門来迎寺に現存。また頬焼け阿弥陀堂の本尊や、大慈寺のものという仏像の首だけが光触寺に残る。



「鎌倉開府八百年記念・鎌倉の秘宝展」図録1990より
 鶴岡八幡の仏像は明治の廃仏で流出、たとえば薬師堂の旧三尊は東京秋川の寺にあるが、八幡時代には応神天皇の父母と祖父にあたる「仲哀天皇・神功皇后・ヤマトタケルの御本地」であり、「廟」などと説明されていた。八幡宮別院・松源寺(現・川喜多記念館)経由で流出したもののうち、いくつかは寿福寺にあり、旧仁王門の仁王などは正月に見ることができる。また鶴岡十二坊相承院伝来の銅造薬師座像は、北条政子奉納の実物と推定され、座不冷壇所から出たらしく、いまは主に国宝館に委託展示されているようだ。

 すくなくともこうした写真集や図録の助けがなければ、秘仏だなんのといったところで「本物か」どうかという鑑定や、美しいかどうかという基礎認識さえもつことができない。そして実際に拝めるのか、どうなのか。ちかごろは墓石の更新料の徴収でお寺さんもいそがしいのかもしれないが、できれば仏像は博物館でなく、ゆかりのある古寺で拝顔したい。秘仏などといって何も見せず、参拝まで謝絶し朱印めぐりの客にさえ悪態をつく。がっかり寺・いんちき寺・ペテン寺などと蔑まれるのは、お寺さんとしても本意ではないだろう。



「国宝・重要文化財大全4 彫刻」毎日新聞社1999より
 鎌倉時代には裸像に実物の衣を着せることがはやった。江の島の裸弁天・鎖大師・八幡宮の琵琶島弁天などが知られるが、平安時代にはすでに広隆寺の太子像がつくられ、代々の天皇の黄櫨染を着せるならわしがある。すなわち生き神としての信仰があったようだ。

 とりわけ地蔵には鎌倉教恩寺の身代わり裸地蔵・奈良香伝寺などに「女体地蔵」があり、あるいは小児のおちんちんを刻み、さらには特製の金玉まで収めた作例もある。これは文字通り実在の子供や女性のための「身代わり」祈願・子授け祈願などとしてつくられたものらしい。ギリシャ彫刻などと違い、江の島以外は服を着せているため、まっぱの姿はほとんど拝めないのだが、文化財の台帳のたぐいには、資料写真が載っていたりする。身体表現は貧相なものが多く、いまさらこれをわいせつとみなす者はいないだろう。



ハ見寺(滋賀県近江八幡市)・東大寺
 仁王像は半裸であるが、あまり写実的ではない。法隆寺の塑像から、たいして進化していないようにもみえる。東大寺の仁王像は頼朝の死後完成したもので、頼朝は見ていないが、ハ見寺のは信長が近所にあった佐々木六角氏建立の中世の社寺から建物ごと奪ってきたものとされ、多分目にしただろう。ふたりの共通点は、というと平氏・松永の兵火によって延焼した東大寺の再建に協力した。

 また頼朝も信長も相撲のファンで、「曽我物語」「信長公記」にもみえるが、たぶん荒くれ者の裸はよくみていただろう。三島由紀夫さんのように、自身がボディビルで鍛えたという話はないようだが、頼朝は富士の巻き狩り、信長は多忙のなか死ぬまで鷹狩をやっていたから、スポーツは好きだったはず。さて、ルネサンス時代のバテレンたちは、こうした彫像をどうみたのだろうか。


 仏師としてまず名が挙がるのは運慶・快慶。もちろん近世の仏師にも佳作というべきものはあるが、運慶直系の「鎌倉仏師」作、をなのるもののなかには、とるにたりないゴリゴリのものも含まれる。杉本寺の仁王は、腕の血管・足の指まできちんときざまれた、相当に丁寧な造りではあるが、いまいち五月人形の雰囲気も感じさせる。

 鎌倉仏師は「扇谷住」をなのり、仏所は寿福寺の南、通称「運慶屋敷」にあったようだ。「風土記稿」には「正宗が宅蹟の西にあり」としている。運慶当人が鎌倉に下った記録はないが、伝記には空白があり、永福寺などで腕を振るった可能性はあるらしい。三浦半島はともかく足利の寺などに伝わった実作もあるから、奈良に直接注文したというよりは東国にきていたと考えたほうが自然かもしれない。

 また、仏所は工房製作を基本としており、仏像の納入にあわせて弟子の何人かが定着、代々工房を営んできたとしてもふしぎはない。かれらは仏像以外に仏壇仏具などもつくっていたため、明治以降はその道を経て鎌倉彫りの老舗になってたという家がいくつかあるという。


 彫刻と神仏とはもともと別のもので、偶像じたいは仮のもの、形代にすぎない。このようなものに依存する未熟な修行者を批判して、禅宗ではあえて「毒蛇」といったり「乾いた糞(乾屎厥)」といったりもした。悟りや功徳といった仏性は、もともとその者の身に宿り発明してゆくべきもので、物言わぬ偶像から湧き出すものではない。

 とはいえ、寺離れが進んだ現在、仏教美術以外にわたしたちを「悟りや功徳」にむすびつけるものは、ほかに何があるだろうか。古仏のもつ「本物感」とはすなわち歴史である。それを守り続けてきたという信頼感なのだ。ざんねんながら和尚の思いつきでつくられた新作のつやつやした墓石とか金ピカ・ギラギラの仏像、コンクリの仏堂なんかに、安心してわたしたちの思念を預けることはできない。そんなものは仏壇屋に値札が付いて売っている「モノ」でしかなく、あえていえば金儲けの具、なまくら和尚を肥え太らせる真の「毒蛇」かもしれないからだ。

 鎖されたお堂の鉄扉やすりガラスなんかに、好んでお賽銭をやる者がいるだろうか。わたしたちが求めているのは、和尚が考える「仏」とは違うのかもしれない。


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