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もちださんの鎌倉リポート No.318(2018年11月17日)



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彫像について・2



読売新聞・日曜版「京都発見」紙面より
 京都六波羅蜜寺の宝蔵館のまんなかにたつ鬘掛地蔵は、一説に定朝作ともいう。ちょっと怖い感じの天平・貞観仏とちがって、なんとも優しく、童話的。院派の特質として、指は少女のように華奢。丸いのに質感は薄く、無重力世界にいるかのよう。まいどマンガや絵本の地蔵の源流をみる思いがする。王朝時代は「国風文化」といわれるように、ひとつの完成があったのだ。

 日本人にとって、もともと彫刻というものは観念的で、あいまいな、影のようなものだったのかもしれない。欧米で評価のたかい革新的ファッション‐ブランド「コム‐デ‐ギャルソン」は、二次元的な面で蔽ったりわざとヘンテコな「こぶ」をつくるなどしてフォルムを改変、男子みたいに着こなそう、というコンセプトが示すように、女性の体の線を完全に否定するものだ。こういう日本的な感性は十二単とか大鎧、あるいは現代のアニメなどにみられる二次元嗜好とほぼ一致している。



保木薬師堂(横浜市青葉区)
 この仏像は玉眼がうしなわれ、そこから内視鏡を差し込むことによって承久三年1221の胎内銘を確認した、と県立博物館の学芸員さん。鎌倉の大仏と、似ているといえば似ている。鎌倉仏は宋の影響から、輪郭にたいし顔はやや大きく間延びし、表情も厳しさを減じて目つきもかなりおだやか。生え際はややM字型になっている。唐はモンゴル系だから、唐風の天平仏はもっと丸顔で目つきが鋭かった。

 名仏師運慶・快慶を祖とするいわゆる慶派は、平家の「焼き討ち」で失われた大量の仏像を再興するなかで台頭。原型となった奈良平安の旧仏や新流行の宋風彫刻の特徴を模索する中で、独自の写実性に到達した。しかし、「天皇貴族の見守るなか、南都復興の桧舞台で、天平の仏像に対抗できる名作を生み出そう」というモチベーションが去ってしまうと、慶派の製作はあっというまに弛緩してしまう。この仏像も佳作ではあるが神秘性はうすく、どこかふつうの、人当たりのいい好青年っぽい。衣などの細部の彫りも浅いようだ。

 宋風といってもデフォルメの強いグロテスクなものもあり、快慶の系譜をひく「安阿弥様」のなかには、かなり崩れたものもある。長谷寺の観音には、奈良の本家に快慶再建時1219の詳細な指図(等身画幅・計測)がつたわっており、いまはいずれも後世のものながら、いくらかは快慶時代のおもかげを残すものとおもわれる。



「名宝日本の美術7 唐招提寺」1980小学館・「芸術新潮」1970.10月号
 原木を内刳りなしに刻むと「干割れ」といって裂けてしまうことがある。奈良の唐招提寺にそんな仏像がいくつかあるが、左の例では割れているのは唐でつくられたものといわれる。多武峰の鎌足像は「破裂」といって凶事を告げる有難い託宣と理解された例もあり、亀卜同様に扱われていたのかもしれない。江戸期の修験者・円空には立ち木仏と称し、生木にそのまま刻む姿を描いた絵が伝わっている。徳一の創建とされる茨城県石岡市西光院には6m近い平安期の巨大な立木観音がのこされ、もとは近くにあった長谷寺の本尊であったとされる。奈良の長谷観音も、草創期にはそうした素朴な立木仏であったかもしれない。

 右、京都西住寺につたわる宝誌和尚像(京博委託)は、もともと伊豆の修験寺院にあったものという。細部を雑にしあげた、いわゆる鉈彫り像はもともと神像彫刻としてつくられ、神木を素材とし、樹木が神仏の姿をあらわすその直前のようすを示している。この仏像がひょろっとして肩幅が狭いのは、もともとの木の太さを残すから。修験道の山岳信仰では、雑部密教を通じてはやくから神仏が混交し、この宝誌和尚というのも「邪馬台詩」の作者に擬えられ、あるいは修験の祖・法起菩薩(役行者の師)などと同一視されていたようだ。


 山岳修行は中国大陸でも、神仙道と習合し、雑部密教をはらんでさまざまな呪術伝承をのこしてきた。伝承ではかつて王子だった釈迦本人も山岳修行にはげんだことがあり、修行明けに村娘スジャータから牛乳粥をもらったことはよくしられている。シャカ族はアーリア系とされ、チベット‐ビルマ系と推定する学者は少数だ。

 仏像彫刻としてはじめてつくられたガンダーラ仏は、ヘレニズム、すなわちギリシャ(ヘレナ)神像の影響を顕著にうけてきた。ついで北インドに栄えたマトゥラ(クプタ)仏は、ヒンドゥ彫刻に特徴的なグラマーな造形をうけついでおり、東アジアの初期の仏教美術は両者の流れを受け継いでいる。

 骨と皮だけになった、いわゆる修行釈迦像としては、ガンダーラのあるパキスタンから近年寄贈された、ヘレニズム時代の写実的な彫刻のレプリカが円覚寺に納められている。しかし中国大陸の画幅では、修行釈迦像から崇高さが失せ、あまりにもみすぼらしいすがたにかわってしまう。



原色日本の美術29「請来美術(絵画・書)」小学館 より
 羅漢とは在家仏教の行者であるが、あくまで宋国民が想像したインド人だから、美化された中華の仙人とはことなり、まるで浮浪者のように賤しく、あくまで醜く、毛深く描かれた。宋は遼・西夏・金・元などの異民族に挑んで敗れ、民族主義が沸騰。製作技術のおとろえもさることながら、あきらかに民族精神の醜さも露呈しはじめていた。

 たしかにこれも、ある種のリアリズムと解釈することはできる。仏陀はけして美しいものではない、美しい見た目に騙されてはならないのだと。唐土の禅宗にはミイラ信仰があり、たとえば六祖の漆塗りの遺体などがつたわる。師僧の頂像彫刻などはその延長上にあったから、極端な写実が生れたのかもしれない。一休の頂像はひげや頭髪が植えられているが、分業がさかんな京都には、むかし人形の毛を植える専門店「毛植屋」すらあった。

 原始絵画や彫刻においては、すくなくとも人体は極端にデフォルメされたり、動物と合体するなど、むしろ観念的なものだった。むかしお笑い番組で、「耳にタコができる」といっては、じっさいにタコをくっつけていって次第に馬鹿げた姿になってゆくコントがあったけれど、理屈はおなじ。極端な写実は醜いが、逆に言えば千手観音とか馬頭観音・阿修羅像などのほうが、よほどバケモノめいているともいえるのだ。



真覚寺蔵(八王子郷土資料館)
 蛙合戦でしられた西八王子の真覚寺は鎌倉の創建1234と伝えるが、奈良時代の小金銅仏をつたえている。小型のブロンズ像は粘土で型を取り、仕上げもヤスリや木炭などで簡単に削れるので、比較的技術力の低い古代には珍重されたらしい。中世にはお守りとして持ち歩くため、小指ほどのサイズが喜ばれたようだ。

 「唐金」といわれるように、唐土の銅銭は青銅の原料でもあり、希少さゆえに盗まれる危険もあった。そこで大きな仏像の胎内にいれるなどして、古仏の霊験をひきつごうとした。

 銅細工には、古銅といってリサイクル原料を重視したため、梵鐘などの勧進には銅鏡や金碗など、既製品の寄附もおおかった。火縄銃の弾にも用いられたため、戦国時代の「供出」をうけた文化財も少なくなかっただろう。銅は焼くとわれやすいため、すでに弥生時代の銅鐸片などにも、焼いた跡のあるものがある。「百錬抄」永暦元年1160の条には対馬の銀鉱・銅山役人が高麗国金海府に拉致された記録がある。



「日曜関東古寺めぐり」とんぼの本1993ほか
 鎌倉時代には鉄仏もいくつかつくられた。おもに東国に分布、鎌倉近郊では、府中の善明寺に、畠山重忠の恋が窪伝説にまつわる鉄仏がのこっているし、鉄の井から出た巨大観音の頭部はいま、東京・人形町の大観音寺というところにある。これは大正震災で一時映画館のビルに同居していた「日鮮会館」に仮安置されていたため、「朝鮮名工の作」などという説もあるようだが、全く根も葉もないことで、半島にのこる鉄仏は埴輪のような不細工なものでしかない。

 覚園寺境内にも、旧大楽寺の「試みの不動」がつたわっている。黒地蔵の日、愛染堂の戸が開いた時に後陣の右奥をみるとわずかにみえる。これは伊勢原の大山不動のためにつくったもので、ざんねんながら細部は窺えない。伝説では不動様本人(?)がダメ出しし、和尚を挑発して激しく鞴(たたら)を踏ませたあげく、みずから灼熱に溶けた銑鉄を頭からかぶって型取り、ついに完成させたとされる。鉄仏は鋳上がりも粗く、仕上げの修正も困難。伝説はたぶん豪快な荒々しさのエクスキューズとしてつくられたのだろう。

 木彫仏のばあいには金箔をぬすまれる危険もあったらしく、盗賊が蒸し風呂を貸切って膠を丹念に剥がしていたなんて話も、「沙石集」かなにかにのっていたと思う。


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