トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第320号 


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もちださんの鎌倉リポート No.320(2018年11月29日)



No.319
No.321



彫像について・4



大町上行寺
 左甚五郎は江戸初期の伝説的人物で、播磨の人・伊丹利勝のことだとか、禁裏造営で法橋になったともいうが、よくわかっていない。桃山風の欄間彫刻にむすびつけられることが多いが、堂宮彫刻の起源はやや古く、また内裏の伝統建築にはほとんど用いられない。欄間彫刻には神仙的モチーフが多く、大工の余技というよりは専門の、それも唐人彫工との深いかかわりが指摘できる。内外の優秀な職人を集めた一門の、棟梁だったのかもしれない。

 有名な眠り猫が寛永時の製作とすれば、禁裏造営は慶長度1613・寛永度1642のいずれか。もともと豊臣家に仕え名を成した人で、徳川に帰参したのち、改名するなどして存在が消されていたのかもしれない。写真は大町上行寺の長押上にあるやつで、なにかの破片を再利用したようだが、もちろん実作というよりは民間伝承の一資料としてみておくべきだろう。


 レポ92に紹介した東京世田谷の九品仏浄真寺には、他にもアフロ仏こと「五劫思惟阿弥陀如来(1700ころ)」などの仏像がある。このアフロは、法蔵王が数十億年の思索のすえ、さとりを得て阿弥陀仏となる瞬間をのびた髪で表現したもの。延々思惟したわけは、「すべての人をもれなく極楽に往生させられなければ、俺は自分のさとりとは認めねェ」とがんばったから。

 鎌倉には新長谷寺のほか、新善光寺など多くのコピー寺院がつくられたが、それは中世の京都でも近世の江戸でも同じことで、かつては深川三十三間堂など、数おおくあった。五劫思惟阿弥陀のオリジナルは、大仏復興の重源上人が宋から東大寺につたえたものといわれ、同寺五劫院にある。ちなみに五劫院の両手はころもにつつんであるが、ここのは鎌倉大仏とおなじむき出しの定印を結ぶ。これは法界定印ともいって如来の三昧を示すから、仏として完成したことを表す。いっぱんに純粋な浄土寺院の阿弥陀像は来迎印の姿でつくられることが多いのだが、ここでは諸宗から浄土教が分離する以前の、密教寄りで古典的なスタンスをとっていたことがうかがえる。



横浜・山手
 西洋の彫刻はギリシャの神像をルーツとし、ローマ時代はその模刻を基盤に夥しくつくられた。中世には偶像破壊運動で甚だしく退化したものの、ルネサンス時代にふたたび開花。数は多くないが、教会や外人墓地で、一般的な彫刻文化をみることができる。

 一見したところわたしたちのお地蔵さんなどとは、水準が違うことにきづかされる。明治の文化人がショックをうけ、地蔵破壊に走ったのも、なんとなくわかるような気もする。当時のひとびとには、わが国にも偉大な彫刻群があることを知らなかった。フェノロサが近代的な美術史観によって古都の古社寺を調査、救世観音などを調査発見したのは1880年代の半ば。そのころはまだ手書きのさし絵しかなく、写真を印刷した書籍が庶民にひろまるのはもっとあとだ。

 江戸期の旅行記などをみても、すぐれた鑑識眼で仏像を評価した者は皆無といっていい。九条兼実をはじめ、王朝貴族が仏像にダメ出しをしたなどの記録はあるが、それも恐らくは工芸的な精疎をいったまでで、天平様式と鎌倉様式を正しく区分し、各時代に固有の美しさを味わい尽くすといったようなものではなかったろう。



インド・カジュラホ
 神話を刻んだ彫刻には動物と一体化したり、かなりエロチックなものもある。乱交土偶などは韓国などにもおびただしくあり、じっさいの祭事をあらわしたというよりは、単に多産をあらわす観念と具象とが渾然一体化したものにすぎない。ここでは神様の属性として象のような怪力だとか、馬を自在にのりこなす能力、とでもいうべきものが、古代人の空想力をへて獣人だとか獣婚などとして、ごく短絡的に神話化されているのだろう。

 日本で獣人をしめす神話はすくなく、九州の緒方氏にうろこがあるとか、海底にすむ阿曇磯良とか数える程度だが、縄文土器にはへびをはじめとする動物のモチーフがかなり露骨に示される。北条氏の三ッ鱗紋などは、ほとんど太古の記憶の断片のようなものにすぎない。

 韓国には鶏や馬、亀などをトーテムとする王がいたらしく、モンゴルは青い山犬。唐からつたわった雅楽には禽獣の面をかぶるものがかなりあり、動物を主人公にした民話や鳥獣戯画、三猿彫刻のたぐいを生んだ。しかしインド由来のエロチックな像は拒否されつづけ、日本の聖天像は象頭神がハグするだけのかなりおとなしい姿に変えられ、しかも秘仏として隠されることがおおかった。


 世界各地の仏像写真からは、鎌倉仏の思想背景をあきらかにするものもある。たとえば明月院やぐら。風化が進み、アベック仏の正体もさだかでないが、中国周辺にはきわめて多くのアベック仏がつたわり、それがほぼ例外なく「法華経」にでる釈迦・多宝仏の対面シーンであることをあきらかにする。法華経によれば、すでに塔に葬られたかに見える過去の仏(多宝)も、現在仏(釈迦)とまったくおなじであり、如来の本質は不滅であることをしめす場面なのだ。

 この雲崗仏には全身に千仏をきざむ。大仏が億万の小仏の集合体であるがゆえに巨大でなければならぬ理由をあきらかにする。奈良の大仏も創建当初の蓮弁に線刻で千仏がきざまれているし、東京国立博物館の東洋館にある大型石仏も、裏にたくさんの供養者像が彫ってある。中国あたりの大仏は石胎塑像がおおく、上塗りの粘土なら貼り付ければ済み、石灰岩なら彫刻刀でも簡単に刻める。

 華厳思想とはさながら花模様のように、全世界が無数の小仏から織り成されているということで、生きとしいけるものひとりひとりが仏になる資格を持つことをあきらかにする。つまり大仏はみんなのための大仏なのであり、奈良の大仏が「一握りの土」を求め、鎌倉の大仏が全国民から銭一文づつ集めて結縁させようとしたのも、費用の節約ではなく全国民のための供養であることを鮮明にし、かつは人心の結束を図ろうとした「公共事業」であったことがわかる。わたしたちの先祖も、きっと何文かは出しているだろう、たぶん。


 彫像は立体であるだけに角度によっても印象がことなる。典型的なのがアルカイック‐スマイルというやつで、ギリシャ前期に由来するが、エジプトなど他の地域でも初期の彫刻には普遍的にみられ、ガンダーラ様式が退化してつたわった北魏・雲崗石窟や飛鳥仏にも顕著だ。またその特徴は能面にもひきつがれ、「テラス」「クモラス」といって演者がうつむくと笑った顔に、仰向くと悲しげにみえるという工夫がみられる。

 片足に重心をかける「コントラポスト」というポーズもギリシャ由来で観音像などにみられるが、角度を変えて撮影したものは意外と少ない。プロの写真家は安定した角度からしか撮りたがらないが、ある位置からみると重心のバランスが崩れ、いまにも動き出すかのような、不安定な構図というのも存在する。彫像に生き生きとした感じを生み出すのは、まさにこうしたいくつかのモーメントなのだ。お寺はもちろん、日本の美術館の多くは撮影禁止になっていて、フリー素材も少なく、紹介するのはむずかしい。


 海外では、このメトロポリタン(MET)をはじめスナップ撮影くらいなら自由というところがわりと多く、ソーシャル‐メディア上の画像数などでも大きな差をつけられているように思う。行ってみたものの撮影禁止どころか一般拝観まで謝絶というのでは、海外はもちろん、遠方からきたひとはかなりがっかりするはずだ。

 撮影許可は「所有権」に由来し、撮影後は「著作権」に保護される。簡単に言えば宝物はおれのもの、見せてほしければ金よこせ。江戸時代の見世物文化がふかく浸透し、学術ないし文化財は人類社会全体の共有物、といった理念が、日本にはまだ希薄なのだろう。「文化財オンライン」といった、各種文化財の公開写真台帳のようなものにも、なかなか画像が集まらないときく。鎌倉をはじめ国内の史蹟が世界遺産をめざすとしても、画像の少なさは知名度のうえで、大きなハンデになっている。

 はたして仏像のたましいを吸う力を、カメラは持っているのだろうか。和尚の「許可」しだいで、いちいちシャカや阿弥陀が納得し、その「たましい」なるものを、ON/OFF自在に出し入れしてGOサインを出すとでも、いいたいのだろうか。あるいは頼朝をはじめとする先人たちが、ひとり「和尚のどら息子だけの遺産」にするため何かを残したなどと、本気で思っておられるのだろうか。


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