トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第321号 


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もちださんの鎌倉リポート No.321(2018年12月3日)



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紅皿姫・1



右上にわずかに梵字がのこる
 「紅皿の墓」といわれるものは、東新宿の「抜弁天」交差点から文化センター通りという路地に入ったところにある。西向天神社の片隅に附属するささやかな旧別当寺院・大聖院の裏の駐車場。寺の文書の伝えでは、この紅皿という名の娘こそが、太田道灌に山吹の花を示し、やがてその愛妾になった「山吹の少女」、その人であるとされてきた。

 実際には碑面をえぐられた十三仏(?)板碑で、状態のいいものはレポ314に、青梅柚木の木下八幡神社のものを紹介した。その板碑には文明二年の年号があるから、道灌の時代のものであることには間違いない。奇妙な梵字の配置から、天台系の二十一仏板碑だったとすればやや時代も下るが、現状でははっきりしない。

 なんにせよ大久保から高田馬場にかけて、「山吹の里」とする伝承がねづよくあり、境内の石段も山吹坂という。もっとも山吹伝説自体、江戸中期に「常山紀談」などがいいだしたにすぎず、場所も埼玉の越生とか金沢八景の六浦など、諸説がある。常山と同時代の「老士語録」には少女でなく老婆と記されている。



馬琴「皿皿郷談」より「欠皿(姉)」北斎挿絵
 少女が山吹を差し出したのは、もともと「後拾遺和歌集」雑の部にある頓智歌、「七重八重花は咲けども山吹の 実のひとつだになきぞあやしき」にまつわる兼明親王の故事をまねただけ。同書は和泉式部などもでてくる勅撰八代集のひとつだから、歌道を志す者なら当然知っていなければならなかったのだ。みずからの不明をいたく恥じた道灌は、以後より一層学問に励んだ。・・・これは史実や伝説というより、名君に仮託した教訓話としてつくり加えられていったものと思われる。ただ、ここには一切紅皿の名前はない。

 紅皿というのは、実は全く別個の説話であって、いわゆる継子いじめ物語「紅皿欠皿」として上方から全国にひろまった。賢くうつくしい継子の姉「紅皿」を、父の死後、継母と妹「欠皿」がいたぶる話で、諸説によっては、愚かで醜い妹の方をそのまま「欠け皿」と呼んだり、または継母が孝行な紅皿のうつくしい名を邪慳に奪って実子の妹に与え、代りに「欠皿お捨」と名付けて責め苛んだとするなど、姉妹の名にも混乱がある。物語自体も、理不尽な仕打ちをひたすら知恵や神祐でやりすごし、ついに殿様にみそめられるとか、せいぜい盗まれた主家の宝をとりもどすなどといったとりとめのないものが多い。一説には「番町皿屋敷」も紅皿いじめ伝説のひとつがルーツなのではとされるなど、定形以前の中世民話の、集合体のようなものだった。

 それでも人気物語ではあったらしく、江戸期には小説家や講釈師らが思い思いの設定や脚色をこらして、複雑にストーリーを展開させていった。山吹説話とちがい、こちらははじめから史実ではなく、たんなる勧善懲悪のお伽話と考えられていたようだ。


 碑はかつて裏手の日蓮宗法善寺よりの斜面に築かれた塚にあったという。かつて日蓮宗は真言宗をとりわけ敵視していたから、板碑をえぐったのもかれらの仕業だったのかもしれない。かれらは仏塔破壊を正当化するため、「醜い紅皿(妹)」へのこらしめだと、唱導。民話でおなじみの「紅皿」の名はたぶん、そうしてこの板碑にむすびついたのだ。

 やがて塚は崩れ、板碑は本山派山伏が創立した大聖院側に移された。山伏は西向天神を再興し、別当寺院として不動堂を建てて明恵上人ゆかりの神社と主張、聖護院門跡の子院を称した。かれらの書いた「紅皿縁起」では、紅皿は一転して「賢い紅皿(姉)」として解説されるようになり、さらには道灌ゆかりの「山吹の少女」にまで付会され、伝説のヒロインの墓へと生まれ変わった。もちろん、そんな新説が、すぐさま多くの人々を惹き付けたわけではない。

 江戸末期、河竹黙阿弥が馬琴の小説をもとに脚色した歌舞伎「月缺皿恋路宵闇(つきのかけざらこいじのよいやみ)」1865をヒットさせたとき、主人公の賢い姉の名は「欠皿(楓姫)」であり、原作にはなかった継母らによる「宙吊り」「蛇責め」等、グロテスクで壮絶なリンチ場面が人々の涙をさそった。なんにせよ、この時点ではまだ、世間一般に「紅皿欠皿」は、「山吹の少女」とはまったく無関係な物語だったのだ。



花立には浄瑠璃奏者の名が多い
 ところが欠皿役を演じた名優・三代目澤村田之助が、この舞台での怪我がもとで悪性の壊疽をわずらってしまった。田之助は・・・物まねタレント福田彩乃の鉄板芸でもおなじみ、綾瀬はるか出演の医療ものSF時代劇「JIN」にも、患者役の強烈キャラクターとして登場したので、覚えている方もあるかもしれない。看板役者の手足が突然壊死してゆく惨状は、たたりとしか考えられなかったに、違いない。

 当時はまだ、感染症にたいする充分な治療法がなかった。衝撃をうけた座元・守田座(新富座)のあるじ守田勘彌(12世)が、この紅皿の墓に石の燈籠台や花立・水鉢等を寄進したものが、いまものこっている。四谷怪談のお岩を演じるには、四谷左門町の於岩稲荷を必ず参拝するならわしがあるくらいだから、この墓の存在を無視するわけにはいかなかったのだろう。いっぽう、SM画家・伊藤晴雨のように、別の意味からこの芝居を偏愛する者もいたとか。

 さて、西向天神境内にはほかにも児童公園がつくられ、片隅に冨士塚1842が残っている。冨士修験は本山派だから、大聖院とも多少のゆかりはあったのだ。今は民家はもちろん、新宿文化センターや新宿イーストサイドスクエアなどで視界が完全にふさがれているものの、かつてここは目黒とならぶ「夕日の名所」であったと、永井荷風らが書いている。明治には崖下の田園からとおく淀橋浄水所(いまの西新宿ビル群)の煙突までみえたとか(大町桂月「東京遊行記」)。



石尊大権現・廿六夜塔・胎内
 金網がめぐっていて、子供が入らないようになっているが、崖下には不心得者がいくつも網を破って侵入した痕がある。わざわざそんなことしなくても、裏手の玉垣を跨げば入れない事はない。塚の頂上付近は冨士溶岩の焼塊(黒ボク)を使った石組みになっていて、箱庭ふうに、か細い登山路まで刻まれている。大人が登れる幅はないが、黒ボクは擦り剥きやすいし、幼児が登るとあぶない、ということなのだろう。

 冨士講は江戸後期に一大ブームを迎えた。立役者は民間行者の角行らで、祈祷を中心としたオカルト要素の高い、いわゆる新興教団のようなものだったのだが、当時の国学者・小山田与清の草稿などをよんでいると、いったん角行を讃える文などを書いていて、あとから墨でおおきくバツをつけ、抹消している。こういうインテリでも、わずかながら民間宗教に心を揺り動かされたことがあったのだろう。行者の素朴な教えには共感したものの、「御身抜」などという奇怪な文字の書かれた呪符の販売など、後継教団のうさんくささに辟易したのだろうか。

 崖下の麓ふきんにも黒ボク組みの穴があって、これはたぶん実際の富士山麓にある「胎内巡り」を模したものらしい。むかしはそのあたりが登り口だったようで、たぶん鳥居とか燈籠なんかもあったと思われる。おびただしい数の石碑には、幕末のものだけでなく、大正震災後の修復時のものもまじっている。



七合目・九合目
 まったくの余談ながら、すぐ近くの文化センターは、指揮者の小澤征爾さんとピアニストの内田光子さんを、はじめて生で聴いた思い出の場所。その夜、東京には珍しく大雪が降って、ゴールデン街のわきの遊歩道にはほんの数時間で膝までつもった。空は新宿のネオンが雪のとばりを赤く染めていた。

 こども心には生意気にもメシアンの曲がお目当てだったのだが、ブラームスの2番では絃があちこちで胴鳴りし、なるほど若き日の小澤さんの気迫というか、グラマラスな音作りというのか、天性の才能をもった人の熱演とはこういうもんなのかと感心したのを思いだす。

 内田さんは、同じ小澤氏の指揮によるベルリンフィルへのデビューをひかえ、同じプログラムのブランデンブルグ協奏曲を弾いた。後日ベルリンの分はFMラジオできいたのだが、その日はオーケストラのアンサンブルがわるく、拍手にまじってけっこうブーイングもめだっていたのを覚えている。



モダンなビル・いまむかし
 そのころ小澤さんが師匠のカラヤンと対談したのを、なんかでみたことがある。「本番ではオーケストラのじゃまをしてはいけない。セイジはキュー(指示)を出しすぎる。昔、ある巨匠(=ウィレム‐メンゲルベルク)は、ひどく独特な指揮をしながら、アンサンブルは常に完璧にそろっていた。つまり彼は、本番で何も指示しなくて済むよう、あらかじめ団員ひとりひとりが自発的に揃えるまで、フレージングを何度も念入りに鍛えていたんだよ」。

 さすがに伝説のマエストロの指摘はするどい。自分のオーケストラ(ベルリンフィル)では小澤さんがやりにくそうにしているのを、気付いていたのだろう。帝王といわれたカラヤンだけれど、指揮法(メソッド)も人脈もことなる小澤さんを、偏見なく高く評価していた。

 ・・・その後、小澤さんはヨーロッパでも頂点をきわめ、内田さんもヴィルトォーサとよぱれるような大ピアニストに数えられるようになった。むろんその日、新宿に稀な大雪が降ったことなんてすっかり忘れていらっしゃるにちがいない。


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