トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第322号 


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もちださんの鎌倉リポート No.322(2018年12月7日)



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紅皿姫・2


 「抜け弁天」とは奇妙な名だが、要はほんのわずかな角地をショートカットするため、ささやかな境内を人々が絶えず通り抜けた、というだけの話らしい。西向天神の下から道なりに南下し、靖国通りをわたったあたりのビルの谷間に、かつての新宿「遊郭」の投げ込み寺・成覚寺がある。

 狭い境内には野朝顔のたぐいがしげり、多くの花をつけていた。これは南方原産の園芸種で冬が来るまで咲き続け、ふつうの朝顔よりはるかに花持ちがいい。江戸期には宿場女郎は「飯盛女」などの名目で呼ばれたが、ここは品川などと同様、事実上の遊郭として発展、この町では女郎たちを「子供」と呼んだ。不慮に死んだ女たちを葬ったのがこの寺で、本堂前の無縁塚のかたわらに、「子供合埋碑」がのこされている。



靖国通り沿いにある門
 このほか、かつて南口ウインズ(場外馬券売り場)ちかくにあった旭地蔵1814というのも、境内の隅っこに移設してある。その場所にかつて流れていた玉川上水にあがった水死人を供養したものなのだが、刻まれた戒名に男女連名がおおいことから、遊女とその客(・・・か間男)の心中関係とみられている。

 そのとなりには恋川春町(1744-1789)の墓がある。今風にいえば風刺漫画の人気作家で、幕政を批判したとして松平定信からお咎めを受け、46歳で病死。というのも春町の正体は「小石川春日町(=恋川春町)」に屋敷をもつ小藩に仕えたそこそこの武士であったため、累が藩に及ぶことを恐れ、おそらくは切腹・・・表向き病死として、こんな「投げ込み」寺に葬られたのかもしれないという。

 新宿の遊里をえがいた江戸の洒落本は、山手馬鹿人(太田南畝)や朱楽菅江をはじめ、月亭可笑・秩都紀南子(ちっと来なんし)のものなどがしられる。浮世草子の時代には、初心者むけに遊び方や遊女の手練手管などを解説するものが多かったが、やがて遊里文学が発展した結果、粋な会話、うわさ話、よほどの通にしかわからない洒落にいたるまで、こんな草子からことこまかに学ぶようになっていた。要はマスオさんがサザエに内緒で購入するハウツー本「バーでモテるコツ」のようなものだが、言文一致とか、のちの写実・自然主義とかに多大な影響をあたえたようだ。



惣墓はもともと墓地最奥にあったという
 当時は忠孝の名のもとに、親や旦那に売られる女も多かった。「ちまた/\の人々、借りたる財をも返さず、あるは妻娘を売り家をひさぎて衣食の料とし、美々しき飾りをすめれど、・・・など仮の世に人心は花にのみなり行きて、夜半の嵐に散るてふ事は知らざりけん。いと浅ましき事ぞかし」(小山田与清「うつつ物語」1807)。

 働き者の親がとつぜん重度の障害をおい、娘さんとうとうキャバクラで働き出したらしいよ、なんて話はいまでも稀に聞く。むろん男に遊ばれたシングル‐マザーとか、ほかにもいろんな事情があるのだろう。2歳の子供なら、スーパー‐ボランティアが無償で駆けつけてくれたかもしれない。だが大人は自分以外に、助けるものなどいない。手をさしのべてくるのは【ヤクザだけ】だ。こんにちでは、民族サウナの「あかすり女」の名目で、当局や教員、進歩系市民団体に容認されているのだという。

 マスコミ各社も風俗業界にはずぶずぶ、女性活躍社会などと謳いつつ、なにをトチ狂ったか「踊り子たちの伝言」「世界遺産〜東寺と雄琴温泉」など、ずいぶん無理な組み合わせでちょうちん記事を書いている。いつまでも「戦後日本を糾弾」などと銘打って、秘書給与ネコババの女王や、国籍を欺瞞して国民を愚弄しつづけた元Tバック議員にひたすら入れ込み、じぶんだけの快楽に酔いしれる。ご執心の○流スターは原爆を賛美する「愛国Tシャツ」なんか着用、「日本人を大量虐殺、民国こぞって大興奮」なんていう娯楽映画を作製し、もう何本もヒットさせているらしい。・・・他人に人権なんてありはしないのだ。


 隣接する正受院には正塚のばあさんこと「脱衣婆(綿かぶりのおばば)」をまつる堂がある。さらに南下して新宿通り(旧甲州街道)近くの大寺院・太宗寺にも名高い閻魔堂があって、そこにも巨大な脱衣婆をみることができる。ここは鎌倉の辻薬師堂と同様、ボタンを押すとしばらくのあいだ亀甲金網のむこうに明かりがつくシステムだ。

 三寺院はともに浄土宗で創建年代もおなじころとされる。古絵図をみると、はじめに大名内藤家の菩提寺太宗寺が栄え、境内裏手に池をはさんで成覚寺・正受院の寺地が整地割譲されたように思われる。旧甲州街道の宿場町は伊勢丹や紀伊国屋書店のならぶ新宿通りに細長くあったわけだから、現・歌舞伎町や靖国通りはまだ裏路地にあたっていたわけだ。

 内藤新宿は内藤家下屋敷(現・新宿御苑)の一部敷地を提供したための称で、風紀粛清でたびたび廃駅とされたが、ここは青梅街道との追分でもあったため、けっきょく宿場が無いと不便、ということで定着。ここでいう内藤家は安房勝山藩から信州高遠藩に移った血筋。鎌倉光明寺に墓がある内藤家は陸奥平藩、のち日向延岡藩に移封した本家筋にあたり、太宗寺にも当麻曼荼羅の摸写がおさめられるなど、共通の信仰があったようだ。



東口は青梅・甲州街道の追分があったところ
 太宗寺にはまた、江戸六地蔵のひとつ1712がある。各街道口におかれた銅像の露仏なのだが、品川のもの以外は笠をかぶっている。右の尻あたりにすでに穴が開いていて、光がみえるから、腹の方にもちいさな穴があるらしい。中身(胎内納入品)はもうないようだ。

 民衆仏教においては、もはや釈迦などは人気がなかった。奈良時代以来の学究的仏教は貴族・武士たちに嫌われ、名号や題目・梵字などの呪文・表徴に単純化された。やがて宗派同士が血で血を洗う抗争をくりひろげた挙句、それもまた庶民に疎まれ、行き着く先が名もなき辻の地蔵や閻魔、正塚の婆さんだ。「閻魔様に叱られる」、もはやそれは元々民衆の心の奥に潜んでいるあいまいな先祖神、ナマハゲのようなものでしかなかった。信じるも信じないも自分次第、・・・「しつかりと頼むでもなし南無閻魔」、そんな句もあるらしい。

 このへんはその筋に知られた二丁目。こどものころ、NHKで「安寿子の靴」とか「匂いガラス」なんていう唐十郎のアングラ系ドラマをいくつもやっていて、いつぞや怖いもの見たさに百人町(職安通り)から風林会館、このあたりにもたぶん来たはずなのだが、記憶がまったくない。内外の風俗マフィアをメディア各社がこぞって溺愛し、映画化までして鼓舞しつづけた結果、かれらの羽振りもよくなり、新宿の場末も見た目はだいぶ健全で小奇麗になったように思われる。ごくふつうにみえる雑居ビルの、その扉の中身はしらないけれど。



薬師如来(右)の金箔は未修復
 新宿を後にして、横須賀線で西大井にむかう。馬込との境界斜面にある養玉院如来寺は、芝高輪(先日「糞ゲー」みたいなこっけいな新駅名がきまった、話題の再開発地区)にあった木食但唱(坦称1579?−1641)の寺が明治末に移転したもので、但唱作の巨大な木彫「五智如来(計5体・大井の大仏)」がのこっているとされる。木食仏といえば後年の円空や五行(いわゆる木食上人)なんかがしられるが、木食弾誓(1552-1613)の弟子・但唱も、信州を中心として各地に石仏・木彫のおびただしい数をのこした。

 漆箔が貼りなおされた直後とあって、ライトアップにより五体の仏は金色の妖しい光をはなっている。詳しい解説によれば但唱作のオリジナル1636は百年ばかりして火災で失われ、いまは右端の薬師如来一体だけとも、それもお首だけともいう。みたところそれもアクのつよい但唱一門の作というよりは、他とおなじく典雅な江戸院派の造像のように見える。墓地手前の地蔵石仏には但唱の銘があり、こちらは土俗的だ。

 民間行者の但唱が生涯の総仕上げに、江戸近在(泉岳寺山門の南隣)に巨大な堂宇を建てることができたのは、天海僧正に帰参して幕閣の許しを請うたからとされる。結局如来寺は東叡山寛永寺の末寺となり、大正時代には上野駅の拡張で天海ゆかりの寛永寺塔頭・養玉院もあとを追うように移ってきて合併、名実ともに如来寺を併呑してしまった。



厨子のガラスに5体の丈六仏が映る
 こうした経緯をふまえてみれば、仏像群の優雅さは木食但唱その人の属性というよりは、豪華絢爛な寛永寺のそれといっていいのかも知れない。他にも龍燈鬼などいくつかの破損仏がならび、堂の左端に但唱のちいさな像を納めた硝子張りの厨子がかかげてある。晩年の福福しい姿は木食行者のイメージとはだいぶ異なるが、信州には胡桃とか林檎とか蜂蜜とか、戒に触れない美味いものが数多く(笑)、信者からいっぱい届けられていたのかも。いんちきだと思うものがいたとしても、民衆にとってはすでに生き仏だったのだ。享年、63。

 高輪時代の伽藍も天海の口利きで大和高取藩が江戸の菩提寺として費用を負担。創建時の仏像ははるばる信濃からはこんだというが、もともと大名好みに彫られたのだとも思われる。師の弾誓が箱根塔峰(浄土宗)や日向浄発願寺(天台宗)などをひらいたのは、やはり家康に親しい幡随意上人らの招請にこたえたためといい、葵の御紋がいまでも目につく。但唱ひとりが権力に媚びたとか堕落だとかいうのは、いいすぎだろう。

 堂の左奥、丘陵上の墓地には、旧地から移されたとおぼしき大名家の印塔が、数多くならんでいる。戦後まで馬込あたりは最後の浮世絵師・川瀬巴水が住んだ風光の地だったらしいのだが、ここから見えるのはもはや、ありふれた住宅密集地ばかり。振り向けば歴代墓の中央に、「仏性院満嶺但唱上人 寛永十八辛巳年」云々ときざまれた巨大な卵塔がひとつ、夕陽をあびて聳えている。変らないのは夕陽だけらしい。


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