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もちださんの鎌倉リポート No.323(2018年12月12日)



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行人坂の釈迦像


 JR山手線の目黒駅は品川区、品川駅は港区というのはあのへんの住民がよく言うトリビアだが、目黒駅から雅叙園に下る急な坂を「行人坂」という。目黒川の段丘に位置し、雅叙園の百段階段に平行した坂で、あまりに急なのでちかくに権之助坂がべつにひらかれたほど。かつては「夕日の岡」といって、夕陽と紅葉・冨士見の名所として大名の別邸も数多くつくられた。

 「行人」の名の由来は天台系の修験寺院・大円寺があるからで、もとは大日如来をまつる「湯殿山行人派(または行人羽黒派)の寺」であったといい、江戸三大大火のひとつ「明和の大火(行人坂火事)」1772の火元となったことでも知られる。火は西風に煽られ、白金の大名屋敷(現・自然教育園)を伝い、江戸城の南を隅田川まで一直線に焼き尽くし、さらに燃えひろがった。



当時の類焼図。白金あたりに「大ゑんじ」とあるが、寺は「念仏堂」の位置(ndl)
 ここにはまた、「八百屋お七」の伝説もある。90年前に駒込でおきたまったく別の大火・天和火事1682で出会った男に、ふたたび逢うためみずからまた火を放ち、火炙りに処された一途な少女の哀話は、西鶴の「好色一代女」でも知られる。放火の原因をつくった色男の吉三は、自殺未遂ののち西運と名乗って改心、この坂の下の明王院にすみ、行人坂を改修するかたわら、生涯お七の怨念を弔いつづけたのだとか。その明王院はのち廃寺となって大円寺に合併したが、雅叙園の入り口ふきんにゆかりの井戸をのこしている。

 色男の吉三は物語の上の架空の人物にすぎず、異説も多い。お七の恋自体、「恋煩いで死んだ娘の形見の着物がもえあがった」振袖火事1657の説話などから連想したフィクションかといわれる。西運伝説はたぶん、いつくかの大火事が「火事つながり」で綯い混ぜにされただけなのだろう。目黒には「権八・小紫の比翼塚」など、他にも恋人たちの伝説がすくなくないうえ、かの駒込の火事も、曹洞宗大円寺という紛らわしい名の寺が火元だった。行人坂の火事は物盗りによる放火だったが、犯人は乞食坊主で、無宿人を出入りさせた寺の管理責任が問われた。行人坂の寺はしばらく再建を禁じられ、本尊すら明王院へお預けとなって、被災者のための石仏を、ひたすら建てるよりほかなかった。事実をあいまいのまま忘れさせたい寺としては、真偽はどうあれ「お七伝説」がひろまってゆくほうが、都合がよかったのかもしれない。

 さて、その天台宗大円寺には、いつのころからか【鎌倉釈迦堂の釈迦像】が移されていると伝えられてきた。


 像は秘仏として本堂左の収蔵庫にあるが、縁日などでは開扉して硝子ごしに拝観できる。先月の「東京文化財ウィーク」の小冊子をみても、とくに撮影禁止にはなっていないようなので、他の参拝者の迷惑にならないていどのスナップ撮影ならお許しいただけそうだ。

 この釈迦像は清凉寺式といって、渡宋した東大寺の三論僧・「然が、「宋都開封の啓聖禅院から京都嵯峨・清凉寺につたえた」という霊験仏985の「模像」だ。オリジナルは釈迦37歳のみぎりに優塡王が刻んだなどの伝説もあり、「生身の釈迦」として尊崇され、「宝物集」の冒頭にも、鬼界ヶ島から戻ったばかりの平判官康頼が訪ねたところ、「嵯峨の釈迦こそ天竺へ帰り給ふ」などの流言に参籠者が殺到していたさまが描かれている。とりわけ平家による南都焼き討ち後、復興ブームのなかで登場した南都律宗が深く帰依、貞慶・叡尊・忍性ら律僧によってさかんに模像が造られたことがわかっている。

 主なものには奈良西大寺像1249・唐招提寺礼堂像1258・鎌倉極楽寺像1268・金沢称名寺像1308など、律僧によるものがたしかに多く、「鎌倉の釈迦堂」もおそらく、叡尊が滞在した新清凉寺釈迦堂か釈迦堂ヶ谷の義時名越釈迦堂、もしくは比企谷の新釈迦堂の遺仏か、といわれてきた。


 しかし、解体修理後の知見によれば、この像は建久四年1193の造立、江戸中期1707の時点では杉本寺(天台宗)にあったことが、胎内文書や墨書から判明した。製作年代からみても、おそらく律寺あったものではない。清凉寺式の初期の模像はきわめてすくないが、造立年は延暦寺像1188にちかく、寺門派の三室戸寺像1098はさらに古い。寺門派本山・三井寺は以仁王の挙兵以来、源氏に親しかった。

 本堂にも藤原時代の古い十一面観音(右)がおさめられており、大円寺の復興期にこうした古像が、天台系の古刹からあつめられてきたらしいことがうかがえる(・・・ただし境内右の阿弥陀堂は廃寺となった明王院由来。十一面観音も同じだとすれば、「風土記稿」に松平土佐守寄附、壇の浦に出現した霊像云々とある)。

 原像がある嵯峨・清凉寺は中世には融通念仏がさかんになり、その流れで現在は浄土宗にぞくしているが、ある時期には三井寺の長吏が別当を兼務し、縁起によれば鎌倉時代、武州慈光寺(埼玉・天台宗)の上求法師や栂尾の明恵上人(京都・華厳宗)らが勧進し、復興支援に努めるなどしたようだ。清凉寺式釈迦が長く杉本寺にあったとすれば、すでに頼朝時代、東国で清凉寺式釈迦像はいくつもまつられていたのかもしれない。



火事謝罪の石仏群
 原像をもたらした「然(938-1016)は、分裂した唐(五代)を再統一した大宋に、僧としてはじめて渡った。大宋は契丹(遼)や西夏といった強大な異民族と対立していたため、日本との修好を求め「然を大師と呼んで歓迎。宋版一切経や十六羅漢図など、多くの贈り物をした。ただし「十六羅漢図」はまだ日本では認知されていない中華禅宗の画幅。すでに唐土にもインドにも「然がもとめる伝統的な仏教はなく、不気味な羅漢像もまったく流行らなかったようだ。

 生身の釈迦像のことは「増一阿含経二十八」にみられるといい、玄奘の「大唐西域記」にも、優塡王(コーシャンビー国王ウダヤナ)や波斯匿王(コーサラ国王プラセーナジト)がつくったという釈迦像の伝説が、各地にあったという。また、六朝時代には梁の武帝がそのひとつを都・建康(南京)にもたらしたともいう511。「今昔物語」や清凉寺の「縁起」では、本格的な仏教経典をはじめて唐土に伝えた亀茲国(キジル。現・クチャ)出身の漢訳僧・鳩摩羅什(344-413)の父に鳩摩羅炎というものがあり、インドの悪王を避けてこれを背負い、亀茲国まで逃げてきた。これが揚州開元寺をへて、開封の帝廟に移されたのだという。

 これだけでも充分に怪しいのだが、「然がこれを摸刻中、なぜか本物がすりかわって日本に来た、というのが伝説の肝(きも)。ただし史実は開封でなく台州の開元寺でつくられ、像の胎内には「大宋国台州張延皎ならびに弟延襲作」という墨書ものこっている。つまり、すくなくとも開封にあった(本物とされる)像ではなく、せいぜい台州にあった模像の模像ということになる。



「NHK国宝への旅18」1989・金沢文庫特別展ポスターより
 清凉寺像(右図・左)は魏氏桜桃という中国南部の材がもちいられ、布製の内臓一式のほか、仏牙、宋代の版画、唐銭(開元通宝)、「然の願文類、へその緒など、多彩な納入物が収められていた。

 とはいえ、清凉寺式釈迦像は体に張り付くような衣紋の様態など、天竺のマトゥラ(クプタ)仏の面影を伝えるといわれる。マトゥラ様式は、ギリシャ丸出しのガンダーラ様式にくらべヒンドゥー彫刻にちかく、ほんものはもっと透け透けのヴェールのように、体の線があけすけに浮き上がっているが、いまのトルキスタン(西域)や中国大陸を経て何度も伝写を重ねてゆくうち、しだいに衣も厚くなって肉感的でエロチックな要素がそぎ落とされ、プロポーションもやや貧弱になっていったようだ。それでも雲崗大仏のようなアルカイックな雰囲気は、そこかしこに窺われる。

 もともとの原像の衣には蓮華唐草の丸紋が截金で置かれ、衣紋の稜線にも切箔による繊細な金線をあしらっていたらしい。これは表に薄い羅(ヴェール)をまとっているという表現なのだろう。「御身拭い」や全身に残る投げ銭なとの影響で原像には消え失せているが、大円寺像など、ふるい模像にはそれが残っているものもある。



荏田真福寺(横浜市青葉区)。誕生会などに開扉
 「然が手に入れたのはけっきょく、懐古的な仏像一軀にすぎなかった。日本禅宗の始祖になる器量もなかったし、時代も許さなかった。「本朝文粋」に載る願文には、自分は無学なので求法にではなく末端の修行者として海をわたり、生身の文殊や釈迦に会うことをひたすら望むだけだ、といっている。謙遜もあるのだろうが、その文章も自分で書いたものではなく、慶滋保胤という文人に代筆してもらったもの。日本人が海外へ出るときのお決まりの嫉妬と反発、「絶対に通用しない」「お国の恥」「吠え面をかく」といった非難の声は、かなりあったようなのだ。

 その懐古的な仏像は中世、禅宗や念仏宗が盛んになるにつれ、アンチ新仏教のシンボルとしてさらに愛されるようになった。大円寺像はすでに和様の顔立ちをしており、称名寺像(上図・右)にいたっては髭も消え顔も長く、パンチパーマもなんだか203高地に結った飲み屋のオバちゃん風。仏師院保の作とはいうものの、流行の安阿弥様を加味したものか、余計なデフォルメさえ加わって、もとの印象とはだいぶ異なってみえる。顔認証では完全アウトだ。なかにはひどく目が吊りあがり、剃り込みのはいったヤンキー風のものさえあるらしい。

 横浜市にある真福寺は現在、藤原時代の千手観音を残す「観音堂」の地に移転しているが、もとは称名寺系王禅寺の末寺として栄え、その釈迦堂にも清凉寺式釈迦がつたえられてきた(左)。この像も鎌倉にあったという説があり、比較的古様だから、叡尊ゆかりの新清涼寺谷にあったのはこれかもしれない。光背は後補のものという。


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