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もちださんの鎌倉リポート No.326(2019年1月13日)



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一条山荘・2



去年の名残りのもみじ
 西加茂山荘については後世、恵観の子孫・醍醐冬香(1751-1772)がのこした「温故録」に詳しく書かれているらしいが、残念ながらこれは同家所蔵の写本で非公開のようだ。

 山荘文化については、霊元法皇(1654-1732)による仮名書き御幸記集「元陵御記」が比較的くわしい。この時代の朝廷は京都所司代の保護下にあり、休憩所などの設営や人払い・警固等、多大な費用を幕府に無心する関係上、宿泊さえ禁じられ、修学院離宮への行き帰りにしか行動の自由はなかった。後水尾院のころと違うのは、やはり東福門院(将軍の娘)のような者がいないからだ、と法皇はあきらめがちに書いている。

 それでもいくつかの寺社を参詣し、亡父ゆかりの幡枝円通寺をはじめ、北白川門跡や石川丈山の詩仙堂、そのころ前内大臣・醍醐冬煕(1679-1756。恵観の孫)が相続していた西加茂山荘などにも立ち寄った。高齢ながら輿から降り、歩行や山登りもいとわない。長年不自由な生活をおくってきただけに、毎回道すがらの展望、日の出のようすとか、ごくあたりまえの景色をみるのがうれしいのだ。



露地の松は赤松、奥の垣根は楊梅(雄株)。苔の周りには霜除けの敷き松葉。まだ花は山茶花がちょっとだけ
 霊元法皇は後水尾院のほぼ末子で、兄たちの早世ののち幼くして即位。やがて老父の死をうけて今度は自分が院政をつづける番となり、孫の中御門天皇成人によりようやく政務から解放。林丘寺にいた姉宮の見舞いをきっかけに、亡父の夢に導かれるようにして、何十年かぶりに修学院をおとづれた(68歳)。

 以後十年にわたり、花紅葉・松茸狩りにと年になんどもおとづれ、詩歌を詠んだり舟遊びをしたり、門跡にはいった大勢の子息らと再会するなどして余生をたのしんだ。また京焼の職人をよびよせたり、下鴨神社では供奉の公家たちと、庶民の娯楽「楊弓」にもチャレンジした。

 そのあいだ、お気に入りの女房に死別するなどして、ごくふつうの70過ぎの、たわけた恋愛ジジイのように、ショックをうけたりしている。近代の天皇とはちがい、霊元法皇は亡父・後水尾院にまけず劣らずの艶福家だったようだ。歴代天皇の位についた人の、日々の心情をすなおにつづった随筆文学はごくすくなく、しかもこれは内々に所司代らの目にも触れていたものか、写本が流出し、幕末には安中藩から出版までされてしまった。



風炉先の下地窓から囲いの間を見る・金箔が残る襖の引き手
 この「元陵御記」から、恵観西加茂山荘にまつわる部分を引用しよう。享保十四年1729三月二十八日の条、法皇(76)は修学院に着くとまもなく躑躅見学に松ヶ崎壇林へむかう。ほんとうの目的は亡父・後水尾院の足跡をたどるためだ。

○ 西賀茂の山に幸茶壇といふ処は旧院(*御水尾院)御幸の事有りし所にて、それゆへ所の者、いま幸茶壇といふ由なり。さらばこの処にも行くべしとて出で立つ。

・・・休幕にて各々盃取りて後、輿に乗りて西賀茂に行く。・・・程なくこ(*幸茶壇の跡地)を下り、歩みて霊源寺(*1636御水尾勅願)に至る。瓦舗ける廊下より昇り、仏壇の前に跪き、旧院の御影を三拝して普門品を暗誦し、念仏廻向の後、開山一糸和尚(*文智尼の師)の像に対す。
 この寺にありし聖の姿をも 我がたらちねに添へて見しがな
さて奥なる間を見れば、床に旧院宸翰の山号寺号二幅、同じ宸翰・堺内の山の事、ある女房の奉書一幅を二幅対の側に懸けたり。



網代天井の竿縁などには各種銘木をふんだんに使用・障子の腰・剥落した杉戸絵
ここかしこ見て後、この寺を出でて、それより奥の方に行く。醍醐前内府(*醍醐冬煕)の山荘を見んとてなり。冬煕公道まで迎へに出でて案内なり。「先づ楊梅の木を見るべし」と申さる。これは智徳院関白(*一条恵観)の時よりの木なり。

旧院の御時、故冬基卿(*冬煕の父1648-1697。権大納言)、毎度その実を献ず。旧院好み給ひて御賞味有りしなり。類ひなく大きにて、風味も勝れたり。愚身も好物にて、冬基卿の時より今の前内府に至りても断絶なく送らるる、その木なり。これを見る事珍しき事なりと、木のもとに至りて見れば、殊の外古木にて、大きなる木なり。各々興じて見る。

さてそれより奥にいささかしつらひし所ありとなれば行く。今日の設けに構へたる所なり。北に山ども間近くあり。即ち前内府領山、その外は西加茂の山どもなり。東には田面を遥かに見渡す。この所にて折うつもの出ださる。その様、重ね硯にして上なるは我等が前に据へ、廿人ばかりの小さき硯箱にも菓子を入れて一つづつ各々の前に置く。いと珍らかなる趣向、各々興に入り喰ふ。盃など二三度巡りて後、その所を立ちて歩み帰れば、やがて山荘に至りぬ。



霊元院がだまされた「作り文字」。右の戸は御簾が下りたさまを描いている
かなたこなた聞きしより見るは勝される家居ざまなり。天井は板の網代組、障子の腰は竹の籠、杉戸は「簾内の襖(*腰屏風)に短尺色紙を押したるさま」なり。「手跡誰にてかあらん」と寄りて見れば、書ける歌ども真の文字は一つもなし。皆作れる字、作りたる物なれども、遠くみれば皆まことの文字のやうなり。目を驚ろかしぬ。襖の引き手その外、物数寄なる事どもなり。智徳院関白の時の好みとなん。

次の間の杉戸、牛を書きたると見ゆるに、頭はいづくに有ると尋ね見れば、牛にはなく「黒き衣服を臥せ籠(*香炉にかぶせる薫物用カバー)に掛けたる体」を書きたる絵なり。同じくいづれも目を驚ろかしぬ。奥に囲ひの間(*茶室部屋)あり。床に旧院の宸翰掛けて、炉に釜掛けなどしあり。智徳院関白茶湯せられし所となん。菓子など出でて、しばらくの後、座を立ちぬ。

 宮居より西なる加茂の山に来て 馴れし昔の人をしぞ思ふ
故大納言、とりわき心安かりし人なれば、懐旧の情浮かびしままに、かくなん。
 たらちねの及ばず高き位山 登りし人の宿を訪ひ来て
など盃取りて、とかくする内に思ひ続けたれど、口よりは出ださず立ちにし。それより山を歩みくだり、河原表に出づ。打ち晴れたる景色なり。加茂川に至りぬれば、今日のために橋を渡したれば、それを歩みて上賀茂に至る。・・・(後略)



西は舟山、東は賀茂川(1946・2008地理院空中写真より作成)
 まず最初にでてくる「幸茶壇」の位置は不明ながら、霊源禅寺は大文字送り火「船形」東の山麓に現存しているので、山荘の旧位置を確認するのにべんりだ。その東にゆるく下った一帯がすべて山荘の領地で、池にかこまれた旧山荘があった位置はその北寄りと思われる。南側にも醍醐家の本邸があったようで、10年ほど前にはなお崖線や醍醐の森とよばれた屋敷林の名残りがわずかにみえる。だが現在ではほぼ分譲宅地化が進んでいるようだ。

 隠居後の恵観にはかなりの浪費癖があったらしい。金森宗和にまなんだほか、旧妻も茶人・織田有楽斎(信長弟)の孫だったし、きっと各方面からくそ高い茶道具なんかを買いあさったのだろう。晩年には一条家から引き離すため、愛息・冬基(次男。当時12)を連れ、みずから建てた西加茂山荘に移り住むよう、幕府に命じられた。これが事実上の分家である醍醐家の発祥なのだとか。享年68。恵観の木像は一条家の菩提寺・京都東福寺芬陀院(通称・雪舟寺)にのこる。

 楊梅の木は、現在の「恵観亭」にも垣根として植えられ、附属の「かふぇ楊梅亭」の名称、および名物やまももサイダー(650円)の由来になっている(ちなみに季節の和菓子は正月の定番・花びら餅だった)。「折うつもの」云々というのはおそらく弁当などの折詰めのことで、折敷はともかく硯箱の蓋くらいなら「枕草子」の時代から紙などを敷いてお盆の代りに使われていたが、ぎっしり詰めた「松花堂弁当三段重」のようなものは、おそらく茶道から広まったようだ。天皇家にとってはまだ、あまり見たことのないものだったのかも。



炉は手前人物の膝元。ただし普段は畳の下にかくしてある
 京都御所は平安朝をそのまま模した建物のほか、住居棟(書院)には多少近世趣味がみえるとはいえ、なお伝統をおもんじ、粥とか団子などといった古臭い料理も多かったようだ。したがって花やかな茶会席のもてなしは、感動的だったにちがいない。当時の茶の湯は「数寄(物数寄)」といって流行をとりいれ、新趣向をこらした発明をきそった。これらが宮中ばかりでなく、料亭などを通じて一般庶民にもひろまり、和食をはじめさまざまな形で現在にもつたわる。

 幕府の「干渉」は宮家にもおよんでいて、京極宮家仁親王(1704-1768)は日帰りを余儀なくされていた桂離宮に、せめて一泊できるよう交渉した記録がのこっている。ただ、山荘文化がもっともはなやかだった後水尾院の時代の御幸については、数こそ多いがまとまった記録に乏しく、どれも詩歌などの断片的、ないし事柄のみの散文的な記述ばかりだ。それでも金閣寺和尚による「隔蓂記」などをみると、やはり霊元院同様、徒歩で山に登り遠望を楽しんだり、東福門院とともに花紅葉を見、松茸狩に興じた旨が見える。皇室も伝統にばかり固執していたわけではなかった。制約された暮らしの中で、庶民文化をはじめ、新しいものとの出会いが、きっとあったはずなのだ。

 茶室用の「囲いの間」は四畳と、非常にせまい。大勢の茶会では、他の部屋も「鎖の間」として開放し、アシスタントの宗匠を呼んで追加の茶釜を吊るすなどして用いたようだ(後世の「温古録」でこの四畳をも「鎖の間」と呼んでいるのは、その時期すでに増築がすすみ、別に専用の離れ茶室が連結されていたからとみられる)。さて、恵観亭の見所はまだまだあるが、そこはみなさんのご訪問時の、お楽しみ。


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