トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第327号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.327(2019年2月11日)



No.326
No.328



駿河大納言忠長供養塔


 薬王寺(日蓮宗)にある駿河大納言徳川忠長の供養塔には、織田家特有の織田木瓜紋がほどこされている。正室・松孝院久姫(昌子1614-1690)が晩年に建てたもので、上段中央左寄り「峯岩院殿前亜相晴徹暁雲大居士」の戒名の隣には、彼女の戒名及び没年も刻まれている。また上段右には松孝院の父織田信良、その下は兄信昌の戒名等、厳密にいえば自身をふくめた織田一族の供養塔のていを装ったものだ。

 側面には「功徳主・織田氏女日久」こと松孝院が当寺三世・権少僧都日bに造立させた旨がみえるから、石塔自体は寛文ころには出来ていたと思われ、彼女が没した元禄三年、当寺六世・日超によってその命日が刻まれ、完結したもののようだ。信良・信昌の命日は枠外にはみ出して刻まれているから、レイアウトからみて他の忌日も追刻されたものなのだろう。結果としてゴチャゴチャと過去帳のようなものが彫られているわけだが、ようするに「忠長の供養塔」であることを、判りにくくしてあるのだ。徳川の葵紋をきざんだ宝珠は後補とみられる。 


 忠長(1606-1633)横死の顛末などについては、すでにレポ286・294にのべた。徳川家康の長男は信長の偏諱を受けて「信康」、その次は秀吉の名から「秀康(結城)」「秀忠」「忠吉(松平)」などとなのった。ただ、信長らの血はひいていない。じっさいに織田家の血筋を引いたのは三代将軍徳川家光からであるが、父秀忠や母於江は、その同母弟・忠長のほうが利発であり、そのうえ信長生き写しのハンサムであるとして愛したという。「忠」は自分と先祖広忠から、「長」はおそらく故信長公から頂戴したものと思われる。

 信長は宣教師による記述でもそこそこの美男子とされる。土佐派ふうの有名な肖像や狩野永徳による遺影等、当時の公方ら高貴な都人と遜色ない体で描かれているから、日本人の目からも、スマートで整った顔立ちであったのだろう。眉をよせ、神経質そうに愁いをただよわせ、ニヒルで苦みばしった表情。・・・能面の「中将」のような。

 いっぽうの家光はといえば、ずんぐりとした肥満顔。祖父家康はもともとごつい百姓顔であったらしい【図4】が、最晩年は狸のようになった。もっともこれは「家光の夢にあらわれたおじいちゃん」の図を加味したもので、後世の理想像がまじっており、生涯狸顔であったのかはさだかでない。生前の数少ない肖像画に、狸顔はないのだ。ずんぐり顔の「おじいちゃん」は、自分に似ていてほしい、そんな願望がつくりあげた虚像であった可能性すらある。



信長(3種)・秀忠・秀長・家光
 貴族として朝廷で幅を利かすには、精悍な百姓顔では都合がわるかった。「容姿端麗」というのは一見死語のようにおもわれるが、儀式が重んじられる世界では、みための美しさが必要とされるということも、当時のひとびとは身に染みていたのだろう。「はげネズミ」「猿関白」とからかわれた秀吉には、前歯が飛び出した、嫌がらせとも思えるような見苦しい肖像がのこされている。

 人の容貌について、もっとも辛口なのは「吾妻鏡」だ。頼朝の許可なく任官した人々について「顔はふは/\として、任官不思議」などと逐一毒づいているし、義経に対しても「出っ歯で猿のような眼をしたチビ」などといっている。もちろん事実として読むべきかは疑問だとしても、頼朝じしん「デカ頭」が落語にさえなって語り継がれてきた。

 家光の乳母・春日局(1579-1643)は、晩年の家康に働きかけ、家光の家督を確定させた。しかし家康の没後、駿河大納言として駿府城に入った忠長もまた、父母のゴリ押しで御三家にも優る地位についた(水戸は中納言)。家光派は母・於江の死、隠居し病床にあった父・秀忠の容態悪化に乗じ、「忠長ご乱行」の噂をひろめ、失脚をはかる。忠長は甲府へ籠居のすえ、秀忠逝去1632の機をのがさず高崎に幽閉、ついに自刃をよぎなくされる。28歳。



家康(生前白描・三方原・霊夢・神像)
 まったくの馬鹿なら殺す必要はない。人望があり、担ぐ人もいた。家光はその勢力を恐れ、一網打尽に粛清したかった。ブサ顔の家光には、おそらく生理的なひがみもあったのだろう。春日局もまた、明智光秀の家来の娘であるため、織田家にはなんとしてでも清算したい、謀反人特有の債務感があった。息子の稲葉正勝は稲葉氏末端の支流ながら、家光の小姓から小田原城主へと大出世した。

 「ご乱行」というものは酒池肉林の説話(史記)にあきらかなように、政敵を退治するためのいいわけとして捏造されるのが常。神社の神獣を射殺したり、家臣を手打ちにしたのだって、忠長ではなく家光自身が日常茶飯事にしていたのかもしれない。「希代のサイコパス、信長の遺伝なら、きっとやったにちがいない」・・・こんなうわさは揚げ足取りでしかないのだ。ただ殺した側は責められず、殺された側はいつまでもその理由をでっちあげられる。「広島長崎の人間は死んで詫びるだけの残虐行為を犯した」「慰安婦二千万人」「鯨を獲っている」、それとおなじ。未開人の思考回路はけしてかわらない。

 忠長墓は後世、「鎖の霊屋」と称するものが死没した高崎市の大信寺(浄土宗)にたてられたほか、京都黒谷(浄土宗)にも、春日局による「忠長供養塔」が建っている。家光の子、家綱・綱吉には子がなく、やがて血筋は断絶するが、これを忠長殺害のたたりだとして、忠長への供養は、ひそかに解禁されていったらしい。



(*古画はフリー素材を引用しています)
 忠長の妻も、織田家の血をひいていた。松孝院久姫(1614-1690)の父は、信長の三男信雄の子で、上野国小幡藩主・織田信良(1584-1626)。信長の長子は本能寺の変で死んでいるから、ここが事実上の嫡系となっていた(江戸後期から天童藩に移封)。松孝院という名前になんとなく美人を連想するのは、於市の方美人伝説もさることながら、往年の人気モデル・松本孝美さんを無意識に重ねてしまうからかも。

 慶長・寛永時代の美人画は、のちの類型化した浮世絵なんかよりもずっと個性的かつ細密で、よくみると目も二重だったりして現代的。時計まわりに湯女図・花下遊楽図・彦根屏風・本多平八郎姿絵・千姫姿絵。上三つは遊女、下ふたつは天樹院千姫を描いたとされるが、左のは顔痩せした髷髪姿で、中年時代をイメージしたものか。

 切手の図柄でしられる「見返り美人(師宣)」にも実は寛永〜寛文時代の元ネタ(下)があって、師宣のふにゃふにゃした絵よりも、原作のほうがずっと精緻で美しい。戦国時代の混乱に乗じて絵師が宮中などに秘められた歴代の一級品を見る機会が多かったこともあるだろうし、鎖国前の南蛮絵画に対抗意識を燃やしたのかもしれない。画家の岸田劉生は「デロリとした卑近の美」と評しているが、それだけではないと思う。



吉田羊的な目ヂカラ
 建長寺の仏殿は、もともと芝増上寺にあった徳川家代々の墓地が地震により建て直されたさい、崇源院於江の旧霊屋霊拝所を移築1647したものらしい。於江の墓はもともと愛息の忠長が建てたもので、家光はこれも撤去。台徳院(夫・秀忠)の霊廟に宝塔型のあらたな墓塔を建造した。さすがに実母の墓であったものを粉砕するわけにもいかず、当初の石造印塔はまるごとその地中深くに埋められた。

 その後、台徳院霊廟は米軍の焼き討ちでほぼ失われ、発掘された忠長による旧墓石も、跡地再開発を担当した西武グループの杜撰な管理により散逸。たしかに墓じたいは復元され、焼け残った門なども「大切に保存」されているが、下品な骨董マニアの金持ちにとって、高値のつかない地味な出土遺物などごみと同じなのだ。

 創建時、於江の印塔には金箔が貼られ、英勝寺にあるような華麗な霊屋に覆われていたらしい。塔身には銘文が細かに刻まれ、内部は空洞で火葬骨をおさめてあった。この部分がおそらく石の水鉢として転売されたのだろう、山梨の名刹・恵林寺開山堂の前に置かれていたのが、近年ようやく明らかになった。


 薬王寺墓地のてっぺんには、断絶した伊予松山藩主・蒲生忠知(1634没。享年31)の未亡人(松寿院殿青山日縁、1700没)と一人娘(梅嶺院殿奉山日陽、1645没)の墓がある。この忠知にも、いわれなき「ご乱行」の噂があるという。おおかた家を取り潰すためには大げさな「理由」が必要だったのだろう。泥をかぶった未亡人には、逆に立派なお墓が与えられたのだ。

 松寿院は内藤家出身のためほんらい浄土宗のはず。夫忠知は家康の孫で、母は秀吉の命で会津藩主蒲生氏郷の息男に嫁いだ。忠知の同母姉・崇法院依姫(1602-1656)は将軍秀忠の猶子として肥後熊本城主・加藤忠広に嫁いでいるが、この加藤氏は熱狂的な法華信徒。加藤忠広もまた改易(1632)されてしまうのだが、妻・依姫は京都本圀寺(日蓮宗)に葬られている。家康の孫・ご乱行・御家断絶・日蓮宗・・・これらのキーワードから松寿院を保護したのは夫の姉・崇法院依姫だったと考えるのが自然だ。ただこの寺を紹介・斡旋した事情は不明。

 忠広改易・忠長自殺・忠知急死は将軍秀忠の薨去から立て続けにおきた。境涯の似た女たちはたぶん、共感することがあったにちがいない。松孝院のばあいは江戸における織田氏菩提寺(大乗寺)と鎌倉薬王寺の中興開山(日達上人)がおなじだったという縁があり、大乗寺には当初、この供養塔にも刻まれた松孝院の妹・天量院(稲葉氏室)なども葬られていたようだ。しかし元禄十一年(1698)、大乗寺は天台宗への改宗がせまられ、墓所は四散。松孝院自身の墓もいまは文京区の禅寺・高林寺にある織田家墓に合祀されているが、これも当初からのものかはさだかでない。


No.326
No.328