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もちださんの鎌倉リポート No.330(2019年3月7日)



No.329
No.331



朱子学と廃仏毀釈・2



切断地蔵(杉本寺)
○ 曩時(むかし)、山闇斎先生なる者有り。嘗て愛宕の詩を作る。中に「天狗を劓(はなそぎ)し、地蔵を黥(いれずみ)せん」の語有り。則ちこの像を劓するは、それまた山氏の徒にや。・・・(*鼻欠け地蔵にて)
○ 庭にまた地蔵菩薩の石像有り。長け数尺、脇下・腰上を斜断す。・・・これまた山氏の徒の所為に与(あずか)る。嚮(さき)に予、劓を以て已に甚だしと為す。腰斬り、また甚だし。噫(ああ)、当今の世、地蔵の為にまた難なるかな。・・・(*杉本寺にて)

 太宰春台は「湘中紀行」1717に、朱子学者・山崎闇斎(*1619-1682)の門弟が仏像破壊を実行しているとの説をのべている。朱子学は浮屠の説(仏教)の排斥を強くうったえ、「天竺国の人は心素直ならずして国治まらず」などと主張(藤原惺窩「千代もと草」)。闇斎はまた、教義の定着をはかるため、朱子学の過激な中華思想を日本化、儒学の宗廟(先祖)崇拝を神道に置き換え【垂加神道】を創設。廃仏はのちの尊王家に強い影響をもたらした。


○ 高座一場の上、 人を誣(だま)し仏経を説く。
憎しみ生ず胡鬼の像、 南溟に棄擲せんと欲す。(戸田幹「鎌倉紀行」1691)

 17世紀、鎌倉を見物したこの詩人は仏寺を誹謗する詩を数多くのこしている。仏像破壊はきりしたんや日蓮宗なども実行したし、中国大陸でも三武一宗の法難とよばれるような大規模な廃仏運動がしばしばおこなわれた。たとえば円仁の「入唐求法順礼行記」には、国家分裂におびえた唐王武宗による宗教弾圧「会昌の廃仏845」がつぶさに記録されている。タリバーンの大仏破壊は世界中の非難をあびたが、キリスト教徒も中世にはさかんに偶像破壊(iconoclasm)をおこなった。

 「正義の執行」は一見快楽のようにみえる。しかし朱子学の正義はいまも近隣国家の未開人を狂喜させ、劣情むき出しに自慰行動を促し続ける、いわば脳梅毒のようなものでしかない。狂った指導者の号令で暴れ出す韓国などのニュース映像を見てのとおり、「おれは最先端サヨク」「愛国無罪」などと奇声をあげ奔走する活動家が、【昼間から】うじ虫のように湧いて出る。「誉められよう」「手柄を立ててテレビに出よう」。もともと自我が未発達な未開人に、自立した意思や思考などないのだ。ぜんまいを巻くとシンバルを打つブリキのチンパンジー同様、動きだしたらとまらず、仮にとまったとしても、ねじを巻けば何度でも何度でも、【おなじこと】を繰り返す。廃仏運動もまた、典型的な大衆行動だったのだろう。



百八やぐら
 幕末・明治を生きた人々にとって、仏教とはなんだったのだろう。廃仏が盛んだった水戸藩にうまれた女流歌人・間宮八十子(1823-1891)の五つの随筆から辿ってみる。

 @「もとかしは」1848-9は、水戸藩下屋敷(駒込御殿)に女中として仕えたころの日記。A「筥荷の日記」1858B「後の筥根の日記」1862は、尊敬する藩主・水戸斉昭の命で、当初和歌をならっていた藩お抱えの国学者・間宮永好の後妻にはいり、ともに箱根を旅した記録。C「都のつと」1870は維新後、神祇官になった夫の京都出張についていった記録。D「古ろもて日記」1873(?)は夫の死後、日光・水戸などを旅した日記。

 徳川斉昭は水戸学とよばれる藩独自の朱子学派に傾倒し、藩祖・光圀らがおこなった「水戸の八幡崩れ」と同様、廃仏政策をすすめた。八十子は斉昭に「当家の紫式部」とよばれていたようで、一橋慶喜を始め多くの子弟も登場する、王朝絵巻のような世界にすんでいた。斉昭は当時、天保の改革の挫折で一時謹慎していたため、退屈しのぎに下屋敷の女中たちとも親しく言葉をかわしたらしい。八十子の文章はどこまでも宮中女房を気取っているが、里にかえれば三味線がなりひびく江戸庶民のくらしなのだ。


 @の水戸藩邸にはほぼ仏事の記録がなく、盆なども「霊(たま)祭り」とよんでいた。Aの紀行には、夫やその師匠・小山田与清の影響が顕著で、女性には珍しく、神社の祭神や地名、寺院の由来などをしつこく考証している。村々の八幡は後世に仏教化したものにすぎず、ほんとうは別の名の神社であったはず、江の島弁天も同様で、頼朝による勧請以前の江尻大明神が正しく、弁財天女などは「文盲法師どもの思ひ誤」りだと否定。

 箱根では「頼朝の馬の足跡」という石をみて、「仏足石でさえばかばかしいのに」と否定。弘法大師作の地蔵などは「例のうつけ事」「いとをかしきうつけ言なり」。曽我兄弟の墓なども「偽物なり」。伝説の架空性をあげつらうだけでなく、いい加減な縁起をでっち上げる僧侶への侮蔑もはなはだしく、塔の峰を中興した修験者・木食弾誓などにいたっては、「えせ法師」「痴れ者」と完全否定し、親切にもてなしてくれた住職をも愚者同然とあざ笑っている。

 彼女は夫・永好(1805-1872)を「翁」と呼んだ。たしかにやや年ははなれているが、当時の語彙では「芭蕉翁」というのとおなじで、先生というニュアンスもあった。永好自身は穏健な歌人・考証家で、べつだんファナティックな思想家というわけではない。先祖が討ち死にした箱根でも、とくにその事蹟に執着することもなかった。八十子が庶民信仰をひたすら否定するのは、おそらく知的エリートの仲間入りを果たした驕りというものも、多分にあったにちがいない。



中華の四神(大町)
 Dでは「住子の君」なる人と、奥日光に詣でている。「(野本)住子」は未詳だが、間宮氏は幸手ふきんの出身なので、そのちかくに実家があった彼女も、親戚のひとりなのかもしれない。往路にはその家の母刀自の意向で、馬車や人力車の通わない両毛の山岳寺院をいくつか経由した。「何事も開け行く御代に、似げなくも有るかな。かかる山見むとて出でし旅にもあらぬを」、と八十子は聞こえよがしに不満を口にしはじめる。

 「あなかま/\。老人の聞きもこそつくべけれ(おばあさんが気を悪くしますよ)」といいはするものの、住子もいっしょに笑っていたというから、若い人にとっては、すでに仏教は迷信とされていたのだろう。「例の口さがなさ」と、八十子の毒舌キャラはだれもがよく知っていた。とはいえ八十子自身、すでに五十路。いくら親しき仲でも他人の母親の信仰をばかにするのはどうかと思うし、自分自身、水戸家に仕えた過去のプライドからか、目的地の東照宮などはべたぼめにしている。

 奥日光では、神仏分離の影響ですでに中善寺諸堂の本尊などは片付けられていた。だが神仏などはどうでもよく、女人堂の跡を越え、三名瀑をはじめ多くの瀧を見物した。ざんねんながら、華厳の瀧は水不足でおちていなかったが、当時は「いろは坂」のドライブ‐ウェイなんかなかったわけだから、その観光への執念と健脚ぶりには驚かされる。



地蔵ばか薩霊場? (御影石)
 この「古ろもて日記」には年記がないが、夫の死後まもなくであることは梨の花を詠んで「夫(つま)なしの花」といっていることから知られるし、奥日光の女人禁制が解除されたのもその年から。また光圀創建の久昌寺が合併廃寺1870となり「去年の春」取り壊されたとある。仏教ぎらいの光圀は西山荘の傍らに儒式墓地・瑞龍山をいとなんだが、法華を信仰した生母にだけは、とくべつに菩提寺を設けていたのだ。

 瑞龍山には、八十子が敬愛する斉昭(1860没)も葬られていた。「永らへて君し居坐さば世の中の かからましやと歎かるるかな」。故殿がもっと長生きしていたら、維新の混乱はなかったと悔やんでいる。以後、晩年の八十子を後見したのは、@にもでてくる斉昭の子女(「五郎の君」こと池田慶徳・「一の姫君」こと南部明子)らだった。すべて火事で焼けた間宮家文書の写しは、この明子姫のとつぎ先の、旧盛岡藩南部家につたわり現存している。

 八十子自身に子はなかったが、前妻の子「さと子」とはうまくいっていたらしく、Cでは旅先の京都で、八坂の塔をばかにする歌を詠んで、ともに笑っている。その婿養子・間宮資朗(本名・鈴木好輔。1887没)の早世後は義娘と孫三人、間宮家の家長としてすごしたようだ。ABで滞在した箱根の旅館主・福住政吉は二宮尊徳の弟子で、近代箱根観光開発の実業家としてもしられ、この筋との交友も生涯絶えなかった。・・・



「墓じまい」と「墓石の墓場」
 神仏分離については明治政府が設置した教部省大教院1872-75がしられているが、お上の押し付けというよりは知識人・教育者の自発的なキャンペーンの色彩が強かったように思われる。廃仏理論はすでに江戸時代から先行していたし、大教院そのものも廃仏傾向を深めようとした挙句、参加した仏教側の抗議に配慮してごく短命に終っている。政府はむしろ際限なくエスカレートする運動の沈静化を求めていたのかもしれない。

 「鎌倉市史」紀行編に載っている明治九年付の平野栄「鎌倉紀行」には、円覚寺の鐘に「極めて多量の金」が含まれているとかいった、一見科学めいた記述もみられる。また小泉八雲(1850-1904)の「神々の終焉」には、鎌倉大仏が鋳溶かされようとした話や、海外向けの骨董品として多くの仏像が売り飛ばされた状況が描かれている。

 廃仏毀釈もまた、迷信打破に関しては、まったくの無意味ではなかった。ただ「文明開化」とか「自由民権」「富国強兵」などという強迫観念がエスカレートしたその果てに、抱き合わせになった【朱子学】の「絶対正義」、すなわち忠孝思想や中華主義といったあらたな悪弊を、人々の精神の奥深くに植え付けていったことも事実。それは東アジアの近代思想にいつまでも混在し、ヘドロの底の重金属のように、堆積しつづけた。


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