トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第333号 


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もちださんの鎌倉リポート No.333(2019年4月3日)



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琴弾橋と八雲神社と・・・1


 琴弾橋の由来は「梅花無尽蔵」(レポ278参照)に書かれているように、中世まで裏山に琴弾き松という古木があったためという。裏山は【小御所山】といって一幡御前の御所があったといい、いま中腹に蛇苦止明神が祀られている。一幡御前は二代将軍頼家の若君で、比企合戦1203で殺された。母・讃岐局が死んだ蛇形の池がのこっている(レポ57)。

 橋は二の鳥居前のファミマの脇を入り、教会を経てつきあたりの蛭子(えびす)神社前をいったん左折。辻説法の手前の路地を滑川にむかってさらに進むとある。橋の向こうは川と山とにはさまれた、袋小路ばかりの住宅地で、比企幼稚園のほうに抜ける路地がたったひとつ、あるだけ。蛇苦止堂へむかうにも、その道を出て妙本寺参道にいちいち迂回する必要がある。鎌倉らしい路地だが、災害時はちょっと心配かも。



ファミマ・本覚寺
 その後、比企御所の地には一幡御前の妹・竹御所(1202-1234。四代将軍頼経室、比企合戦の生き残り)の新釈迦堂がたてられた。これが全面的に日蓮宗寺院「妙本寺」になった時期はさだかでない。ちかくの末寺・本覚寺本堂には禅宗様の釈迦像がつたわるが、これはまだ寺容が整わなかったころ(公方府時代末)、周辺の荒れ寺から引いてきたものと思われる。新編鎌倉志には「弾琴松」を葛西谷の項にのせており、現在通路はないが尾根向こうの葛西谷には、鎌倉幕府が亡び北条高時が自害した【東勝寺屋敷】があった。奥のトンネル脇に、卵塔場に通ずる登り口があるが、いまはそこも崩れてしまっている(レポ213)。

 いずれにせよ、琴を弾いていたのはお化け・怨霊のイメージだ。ただ、松風が琴の音を帯びるというのは古来、漢詩などにうたわれる常套句でもある。松は色を変えない誠実の象徴、松煙墨の原料でもあり、文人大夫の嗜みであった詩と琴とは縁語とされ尊ばれた。大夫とは五位のことなのだが、高位の貴族はぼんぼんにすぎず、高級官僚といえば五位のことなのだ。斎宮女御の「琴のねに峯の松風かよふらし・・・」をはじめとして多くの名歌がうまれ、「琴弾きの松」はやがて歌枕として全国各地に伝承地がうまれた。

 平安三十六歌仙・源重行(10C後半)の家集に、「白波のよりくる糸を緒にすげて 風に調ぶる琴弾きの松」というのがある。「寄り来る」と「縒り・繰る」を掛詞にしたもので、幾筋もの波がそのまま琴の絃になるという見立て。重行は相模権守として知られるが、他に日向守などにもなっており、この歌の詞書には「日向の国に琴弾きの松あり。岸に波寄す」と明記されている。宮崎県にはいまも松の由来・伝説がのこっているらしいが、残念ながら「鎌倉の」琴弾き松の謂れについては、すでにあとかたもなく気化・蒸発してしまったようだ。



蛭子神社・夷堂
 蛭子神社や辻説法のある通りを、かつて「町小路」と呼んだ。本覚寺の門前で夷堂橋を渡り、道は筋交いにクランク状になっている。ここより南は「大町」とよばれ、大町八雲神社の看板がたつ。米町・傘町・魚町などの専門街があった区域を総称して大町と呼んだらしい。北側の「小町」には武家向けの商店があったのだろう。中世都市遺構として名高い一乗谷遺跡などでも、武家屋敷エリアに一部の商店が浸潤している。

 日蓮が夷堂橋で辻説法をおこなった頃には、もともと「夷堂」ないし「夷三郎社」と呼ぶ路地の神、民間信仰のちいさな祠があったにすぎなかったと思われる。いまの蛭子神社は、神仏分離・神社整理のさいに金毘羅宮や西宮神社に倣い、「恵比寿信仰の本来の神だ」などととして大国主の神(大己貴命)を析出。これを現在地にあった七面明神社(日蓮宗の鎮守)・宝戒寺にあった山王権現社(天台宗の鎮守)と合祀合併し、小町地区の鎮守として鶴岡今宮の旧殿を移築、新造したもの。

 夷三郎社の旧地には、本覚寺が建てられたのちも護法神として、恵比寿・大黒がそのまま祀られてきたらしい。いま寺内に再興された夷堂には江戸期以前の神像が安置されているが、ここでは鯛を釣るおなじみの七福神「恵比寿さま」ではなく、仏法の守護神「夷三郎」であったころの怪奇な姿をつたえている。ただし黒く小さいので、オベラ‐グラスかなんかがないと、よくみえない。夷三郎は一般にイザナギ・イザナミが捨てた不具の皇子「ひるこ神」に由来する海の神とされるが、他にも事代主・少彦名など諸説あって輻輳し、大国主説にしても明治に式内社の研究から付会された「学説」にすぎず、その実体はよくわかっていない。たぶん「本来の神」など、もともとありはしなかったのだろう。・・・



湯座(大町八雲神社・湯立神事)
 さて、大町八雲神社はもともと鎌倉祇園社と呼ばれたところで、さいしょは松童というたたり神をまつったという。祇園社はもともと御霊系の神社であるため、公方持氏の時代、妙本寺で殺された佐竹氏の怨霊を合祀して「佐竹天王」ともよばれた。明治の神仏分離で京都祇園感神院が「八坂神社」と改称し、祭神も「素戔嗚・櫛稲田姫・八王子命」に改められたのに習ってはいるが、佐竹氏の霊はいまなお併せ祀られている。

 「天王」とは悪しき疫病神である牛頭天王のことで、一説にこれが改心して善神に変り、天竺マガダ国の大王をへて祇園精舎の鎮守になったといい、その正体は占星学で大凶とされる天刑星であるとも。国宝の「辟邪絵」では天刑星が「悪しき牛頭天王」を食いちぎっている図様がある。あるいは武塔天神として唐土で鎮疫神となり、蘇民将来という人に厄除けの法をおしえたりした。その他いろいろの説があって、素戔嗚尊の化身というのはその中の一説にすぎなかった。佐竹の霊というのも、かの怨霊が「御霊」というたたり神となって「疫病神(=悪しき荒御魂)」と現われ、これを祀ることで「鎮疫神(=良き和御魂)」に変わるという和光同塵(すべては仏の化身)の考え方があったのだろう。

 なお、この疫病神をめぐって一部マスコミが力説しているのは、上記「武塔(むとう)天神」の名前が朝鮮イタコ「ムーダン」に似ているから韓流、ありもしない「古代朝鮮語*」で牛頭天王は牛(そ*)の頭(もり*)だからソウルだなどと、まるで空耳アワーのような語呂あわせを羅列した「新説」。こうした珍無類の講釈は、じつは日韓同祖論などとして併合時代にさかんに説かれていたものにすぎない。異質の民族をていよく従属させるための「ごますり」の延長なのだ。妄信はとめどなく生まれつづける。



相馬やぐら内部・石門外部
 天王社といえば、寿福寺の傍らにも八坂神社がある。かつては近くに住んでいた千葉氏の庶流・相馬氏とのゆかりから【相馬天王】とよばれた。こちらも明治以降、神仏分離で「素戔嗚」に改められたほか、坂東平氏共通の祖先である「桓武天皇・葛原親王・高望王」を合祀するものと修正された。平良文が坂東平氏の先祖を葛原ヶ岡にまつったとかいう、近在の御霊神社に伝わる言い伝えにしたがったらしい。

 ただ「桓武天皇」らは御霊(たたり神)とは無縁だし、ちかくに「墓」の伝承がある相馬師常も円満に往生しており、疫病神とは無縁だ。相馬師常は一説に平将門の子孫(相馬師国)の養子にはいってその家を継いだとされるから、師常が屋敷内に祀っていたというたたり神「相馬天王」の正体は、有名な神田明神同様、平将門とみるのが最も自然というべきだ。

 以降、千葉一統は宝治合戦1247で敗れるなどの紆余曲折もあり、斯波家長が北畠顕家の急襲により杉本城で玉砕した「鎌倉陥落」のさいには、相馬氏六代重胤が法華堂で自刃する1337という悲劇もなくはなかった。しかし師常が自分の子孫をまつるはずもなく、怨霊としての知名度では、将門を凌ぐほどのものではなかったはず。厳密にいうと将門の本拠は相馬御厨ではなかったようなのだが、民間伝承で「相馬の古御所」といえば、まず歌舞伎にも艸草紙にも錦絵にもうたわれた、将門の亡霊であると相場がきまっていたのだ。



石仏やぐら・麓のやぐら・石門ちかくのやぐら
 この相馬やぐらにも久しぶりに寄ってきたのだが、以前(レポ35)よりも整備されて周辺のやぐらにも入れるようになっていた。ここは建武の「浄光明寺敷地絵図(上杉重能判)」に地蔵堂道とかかれており、近代に境内からの通路がひらかれるまで、網引地蔵へ登る正式な参道とされてきた。いまは相馬やぐらのすぐ上にある、石仏を祀ったやぐら【左】までは安全な階段【下】ができている。そのひだりの斜面にも切り崖階段の痕跡があり、さらにのぼれば網引地蔵近くの石門【上】に直通しているのだが、いまは未整備でずるずる、ちょっと危険だ。石門には柵があるため、ここから「境内」に入る事はできない。

 麓のやぐら群には横からトンネルがつらぬいていて、こちらは「民家のうらのがらくた置き場みたいになったやぐら」をいくつか見ることができる。やぐら群はその先、藤が谷の谷戸をへだてて飯盛山(すなわち扇の井をへて薬王寺門前向かい)のやぐら群に続く。扇の井の前は大友屋敷とつたえ、「中巌円月自歴譜」建武四年の条には、大友氏先祖の墓が藤ヶ谷あったと伝える。

1337○ 春、建長に帰る。源将軍(*尊氏)、筑紫より京師に鎮す。大友吏部(*氏泰)、乃祖の墳たるを以って藤谷へ請じ、住す。
1339○ 夏、藤谷に有り、衆を安んず。
1340○ 是の歳、「琑細集」を作り、藤谷の門を拒杜す。
1341○ 門を杜(とざ)し、藤谷に於いて「日本書」を修む。
1351○ 大風、藤谷の庵を破ると聞き、鎌倉に帰り修補す。冬、左武衛(*直義)、鎌倉に入る。予、典文を送る。古先(*古先印元禅師)を訪れ武衛に参謁。



地蔵堂道・扇の井と「舞舞台」
 大友氏の先祖は頼朝の寵臣・大友能直。その先は無名の武士だったようで、同じく九州に土着・異例の出世を果たした島津氏などとともに、「頼朝ご落胤」説もある。扇の井周辺やぐらは個人宅にあるが、外からも窺えるように、二階建てになっているものもあり、お住まいの方のお話では、「二階部分が静御前の舞舞台で、扇の井はその舞扇を収めた穴の跡、という言い伝えもあるみたいですよ」とのこと。・・・ここが大友氏乃祖の墓、というわけではないらしい。

 「乃祖」は祖父の謂いであるが、大友氏泰は当時、足利尊氏の猶子として「大友吏部源公」となのっていたから、祖父は「尊氏室・登子の父」でたぶん網引地蔵に葬られていたであろう赤橋久時(1272-1307)であっていいわけだ(レポ17)。そうであれば、大友氏の墓が別に存在しなくても「乃祖の墓」で筋が通る。

 また網引地蔵が「藤ヶ谷」の領域であるのなら、網引地蔵が藤谷中納言冷泉為相墓と混同されたのも説明がつく。相馬やぐらは奥の龕が数枚の切り石で塞がれているが、同様のものは浄光明寺境内にも散見される。だとすると、時代の合わない相馬師常(鎌倉前期)の墓やぐら(後期)というのも、浄光明寺創建以降、すなわち同寺関係のやぐらであった可能性が高い。ひょっとすると為相墓(!)というのは網引地蔵の上ではなく、こちらなのかも・・・。


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