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もちださんの鎌倉リポート No.335(2019年4月17日)



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歌びとを訪ねて・3


○ 故ありて住むなりまこと鎌倉は わが青春のおくつきどころ(「星月夜」1943)

 この歌を詠んだ近江満子(1896-1951)というひとは、与謝野晶子(1878-1942)・鉄幹夫妻の晩年のアシスタントとして書簡集などでしられるばかりで、一般には無名のひとだ。エリート医師であった夫を通じて知己となり、文壇のスターとの邂逅に文学少女時代の情熱に火がついて、晶子の文芸誌運営を熱心に手伝うようになったようだ。読書好きの長女・薫子をうしなった喪失感もあったらしい。

 だが、あらたな生きがいも、晶子夫妻のあいつぐ死によって突如終わりをつげる。残されたのは「冬柏」という雑誌ばかり。



晶子と満子(国会図書館DCより)
○ 重き刑それにも似たり残されて 一人在る秋かまくらの秋

 避暑客が去って、自分と蟋蟀ばかりが住むようになった孤独感を詠んだものだが、もちろん子や師匠としたう人をうしなった人生の寂寥をも背景としているのだろう。はたして戦時中、夫や近江医院はどうしていたのか。いかんせん無名のひとなので、くわしい伝記を知ることはできない。「紫に咲く」「野生ひの藤」「星月夜」というみっつの歌集なども、晶子のあとおしで出してもらったようなものなので、他に資料は多くない。

 このひとの和歌は感傷的、いわゆる「おセンチ」なものばかり、あるいみ子供っぽい。昔の学習誌の読者投稿欄にのってた詩みたいなものだ。それでも戦中の一般庶民の生活感情を知るてがかりにはなるし、だいいち鎌倉にまつわる語句がなんども繰り返されているのが興味深い。じっさいプロはおなじ詩句をくりかえさないから、あんまり鎌倉感がないのだ。



長谷坂ノ下あたり
○ 鎌倉の山の裾にしわが住めば 来よとも呼ばふこの海の風

 潮の音が「天よりか地の底よりか聞こえ来て」という前の歌からすると、「来よ」というのはあの世からの誘いの声にほかならない。「由井が浜ここよりわれの船出して ゆく路もがな天の河まで」「鎌倉の我れへも遠きみ空より くる心地する正月の便」というのも同趣だろう。このばあいのあの世とは、亡き娘や与謝野夫妻がいた昔、戦争前の、彼女が「青春」と呼ぶ過去の記憶、そのもの。多くの歌にただよう強烈な喪失感と破滅願望のようなものは、「太平洋戦争」を背景とする現実の世相とは全く無関係な、あくまでパーソナルな領域の問題であるかのように、無自覚なままに綴られる。

○ 青春を引き去りてなほ残るもの ありやなしやとみづからに問ふ


○ 鎌倉を病めば直ちに思ふなり この事すでに病のごとく(「野生ひの藤」1939)
○ 去年のごと訪ひ参らせん師のあらず 海のホテルの戸は開けども
○ しら沙に在りつる痕を求めつつ 春も子を泣くあはれなる母
○ 忘れめや昔我がゐて恋人の 文を朝夕得たる鎌倉

 「胸を病む」身の彼女が「武蔵野の家」から鎌倉権五郎神社ちかくの「長谷の家」に長期滞在を重ねるようになったのも、さまざまな記憶がつもった土地だったからであろう。師とはそのころ死んだ鉄幹(1873-1935)のこと。先年まで夫妻とたずねた寺々の句が続く。早世した娘は幼いころ庭の砂場で、近所の寺々の境内から集めた落ち葉でおままごとをしていた。恋人云々というのは初期の歌をあつめた処女作「紫に咲く」1935におさめられた、若い頃のベタベタにロマンチックな歌に該当するものと思われる。そこには「自由に舞台装置を変へ脚色をほどこ」した、文学少女らしい妄想もまじっていたようだ。

○ 止どまらん道の尽きたり死なしめよ 斯く云ふ如く流れたる星(「紫に咲く」)


 抗生物質が未発達だった時代、結核の完治はむずかしく、鎌倉は転地療養先の定番のひとつになっていた。鎌倉でも老舗の病院といえば、額田記念病院じゃないだろうか。小説家の堀辰雄がはこびこまれた病院はここ。HPにはこうある。「本院は大正9年に創立された病院ですが、歴史の長い病院であるが故に地域の皆様にわかりにくい「敷居」の高い病院と感じられるようです。」

 そのころ「サナトリウム(療養所)文学」などといわれたように、病人が暇をもてあまして詩を書き本を読む、なんてこともすくなくなかったようだ。入院なんかした日にはたしかに退屈。とはいえ元気なうちは病院を物色なんてしないから、「なんだここ」なんてことも、すくなくない。見晴らしのいいひろい屋上とか、近所の公園とか、逃げ場が必要。テレビはつまらず、デイルームにはろくな本がなくて、加山雄三さんの自伝とか、養老猛の溺愛する高価な飼い猫さんの写真集なんてものまでよんでしまったことも。なんという時間の浪費(笑)。病気そのものより、同情するのはそっちのほうだ。


 「孤独を愛して私は鎌倉に住んだのではなかつたでせうか。それなのにもうその趣きにも飽きてしまつて、唯だ無暗に人が恋しいといふのはどうした事でせう。」「ところが不思議な事に・・・此の堪へがたい寂しさの漂ふ秋の鎌倉に忘られない魅力を覚えるのであります。」「何故ならば私は寂しかるべきものに、いさぎよく触れて心が寂しむ音を、ゆつくりと聴きたいからです」。(「子に与ふる歌の話」1940)

 新居格という人が昭和16年に書いた「街の哲学」という本には、戦時中の海水浴場がしだいに寂しくなってゆくさまが描かれている。「事変」で人が行楽を自粛し、喫茶店には自分以外に客もない。「少々活気がなさ過ぎるやうな感じもして」(「鎌倉海浜」)とその印象をつづっているのだが、日米開戦前夜というような切迫感はない。戦局が悪化してもそれは他人事、現実として受け入れないひともきっと、いたであろう。

 「昔の人が喜び且つ驚いたやうに、私も鎌倉の星が意外に美くしいのに此頃驚かされてゐる。それに昨今は、昔のやうに外の暗いといふ事にも因るのかもしれない」(「星月夜」)



たそがれてる人
 歌集「星月夜」の最後の章は「七つの海」と題し、唐突にシンガポール陥落をいわう歌がならぶ。戦時には情報局の監視の目がひかり、出版にはまず用紙の調達がむずかしくなっていた。時局へのごますり歌も、少しは必要だったのだろう。「星月夜」とはいうまでもなく鎌倉山の歌枕なのだが、「亡きみ魂の在す世界・・・私達の帰りゆく世界」だとも書いている(あとがき)。

 「暁が来れば、星はそれぞれ美くしい夢を抱いたまま、何処かの世界へ消えて行つてしまふであらう」。彼女はいぜんとしてあの世ばかりを見ていた。流れ星にあこがれた若き日とおなじように。文化人は「亜細亜のために死なう」などと、冥途を急ぐばかげた念仏ばかりを唱えていた時代、あんがい満子のような夢見がちな人物は、破滅的なスローガンにもどこかで共鳴し、本のなかの物語として無意識のうちに陶然としていたのかもしれない。

○ 由井が浜潮満ち来たりしら波が なげく女を埋づめんとする(「野生ひの藤」)


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