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もちださんの鎌倉リポート No.336(2019年4月23日)



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詩板―歌びとを訪ねて・4



商店街は左方向
 JR新杉田と京急杉田駅の間にある商店街ぷらむろーどの裏路地にある東漸寺。これも名越北条宗長開基のれっきとした鎌倉寺院で、円覚寺や称名寺とおなじ鋳工がつくった梵鐘「永仁の鐘1298」を秘蔵、本堂も鎌倉時代(梁銘1301)から燃えてはおらず、古材や発掘成果をもとに減築前の規模・様式に復元された。そして無学・一山など鎌倉時代の名だたる高僧の詩を刻んだ「詩板」ものこされている。

 ただ、花祭りなど一部期間しか本堂を公開しないのが祟ってか、ガイドブックにのることもすくなく、駅前にあるのに地図上の扱いもいたって地味。たいへんお世話になっている朝日新聞のWeb辞典「コトバンク」では、(東京都)とも(埼玉県)とも記されている。旧梵鐘や伽藍神・薬師三尊・十二神将等の仏像はみな本堂後陣に並んでいるし、保存がいい鎌倉時代の凝灰岩製石塔も柵内エリアにあるから、平日にはあまりみどころがないのも残念な理由。寺の詳細はレポ184・213参照。


 詩板とは下のようなもので、黒漆塗りの板に金文字を彫りこんで絵馬のように飾られた。有名なところでは夢窓疎石が瑞泉寺一覧亭に飾ったもの1329や、太田道灌が江戸城の現・富士見櫓のあたりにあった楼に掲げたという「静勝軒詩」などが知られるが、現物はのこっていない。また金沢八景の瀬戸神社の四阿には清拙正澄(建長寺禅居庵)の「三島廟亭詩」1329がかかげられ、後年義堂周信らが拝見して詩を和すなどし(空華集)、万里集九のころまではたしかにのこっていた(梅花無尽蔵・レポ278に釈文)。

 現存するものでは円覚寺伝宗庵につたわった「慈恩寺詩板」1418、荏柄天神社「栽梅法楽詩板」などがあるにはあるが、東漸寺のものよりは新しく、禅僧のビッグネームが並んでいるわけでもない。東漸寺のものは建長寺住持・一山一寧(1247-1317)と円覚寺住持・東明慧日(1272-1340)という二大巨頭の合作であり、両山関連の高僧が数多く連なっている。しかも両人とも元からの渡来僧であるのだから、その監修のもとに択ばれ刻まれた詩が五山の漢詩として不十分であろうはずがない。



(横浜市文化財保護審議会資料より)
 この詩板はまず無学祖元(1226-1286)らが東漸寺初代住持・明窓宗鑑の招きで来訪したさい1283の、無学の詩にはじまる。つぎに一山らが訪れてこれに和し、桃渓徳悟(東漸寺二世)・約翁・明窓・林叟・無及・無絃ら、おもに建長寺蘭渓一派の詩がならび、末尾には東明慧日が千峰ら数名で東漸寺をおとずれ1311、ふただび冒頭の無学の詩に和して一枚目は終る。二枚目はその東明らの詩につづいて、これまた大川・南山・玉山ら錚々たる禅僧の詩がならび、一山一寧の詩で締めくくる。二枚目は大休の弟子など、円覚寺関連の僧がやや多いようだ。

 48首作者46人、彼らが一同に会して詩をよんだ、というわけでもないようだ。一山と東明はそれぞれ親しい友人と数人づつで杉田をたずね、風光のすばらしさや帰化僧の先輩・無学祖元の真蹟を発見した。その共通の話題でもりあがったついでに、ふたりは各方面に勧めて、追加の詩を募ったのだろう。詩歌をボリュームのある一巻にまとめるために勧進するのはよくあることで、なかには東漸寺に行ったことがなく、空想で詠んだという参加者もいたかもしれない。たとえば「慈恩寺詩板」には京都五山の住僧が多く、現地を夢想するだけの詩もめだっている。

 詩板は東漸寺開山・桃渓徳悟(1240?-1209?)のねむる開山堂につたわった。桃渓は開山ではあるが、鐘銘等にはでてこないので実際には二世か三世にあたるようだ。蘭渓の弟子で入元、無学とともに帰国し無学を輔佐したひとなので、帰化僧にとっては代々の恩人のようなもの。その没年は諸説あるため確かにはいえないのだが、「千載桃翁の旧典刑(*桃渓の教えは永遠に受け継がれ・・・)」という千峰の詩句があるため、おそらく1311年までには死んでいる。東明らはこの機会に、杉田の絶景を詠んだ一軸の詩巻を編纂し、板に刻んで亡き桃渓へプレゼントしたのではないだろうか。


 東明は北条貞時に招かれた元からの渡来僧1309で、明州(寧波)天寧寺で法を受けた曹洞宗宏智派の禅僧だったらしい。それでも臨済僧を尊重していたことは、円覚寺に骨を埋づめたこともさることながら、約翁ら【蘭渓道隆】の高弟、大川・銕菴ら【大休正念】の法系など、この詩板に収録された面々との交友からもあきらかだ。弟子たちは蘭渓以下、異国の師を迎え入れ、尊敬し、世話をしてきた。法系のちがいよりも、信頼感・親愛の情のほうがまさっていたのだろう。ことに東明の師僧と無学とは、唐土においても宗派を超えたなじみの間柄であったという。

 東明は語学・詩学教師としても期待され、その住房・円覚寺白雲庵は五山文学の拠点となり、中巌円月などの留学僧を輩出。中巌はやがて臨済系に転向してしまうのだが、のちに「白雲の堂上白頭の師、堂下の諸郎誰が白眉ならん。兄弟団欒相語らいし処、忘るる莫かれ四方に餬口する児」とうたっている。みんな白雲庵の老師のもとで立派にがんばっている、でも忘れないでほしい、こころならずも師をすてて、今や放浪するしかないぼくのことを。・・・裏切り者として完全に嫌われていたら、よもやこんな詩は詠めないと思う。



甘茶接待(花祭りにて)
○ 千簇の雲は山に踏んで暁青く、 巘嶇の行は路を尽くして方に平らかなり。
 朋を携えて喜ぶ是の三春の月、 騎馬何ぞ半日の程を嫌わん。
 庭樹花を著け兼て葉を吐き、 海天雨の如くして却つて晴に還る。
 主人苜蓿の盤は光美にして、 我が天涯遠客の情を慰む。 

○ 滄波渺々として天に接して青く、 霧歛まり煙消えて一望平らかなり。
 老眼春に逢い野の興を添え、 小輿暖に乗り山程に転ず。
 沙堤の古木虚碧に参じ、 海寺の奇花暁晴にRめく。
 珍重す主翁遠客を延べ、 綈袍真に故人の情有り。

○ 興に乗り朋を攜えて偶々踏むところ青く、 山海国を回り目に潮平らかなり。
 人家に煙起きて炊の近きを知り、 梵刹に鐘沈みて復た程を問う。
 夏木森陰将に雨を作さんとし、 嵐光気肅又た晴を舒ぶ。
 閙中の消息静中に看て、 輸して山翁と与に道の情を楽しむ。


 上三首はそれぞれ無学・一山・東明のもの。これは和韻といって、さいしょの詩の脚韻(青・平・程・晴・情)を忠実に踏襲している。実際には読み下さないほうがいいのだろうが、唐土の発音など私どもの理解の及ぶ所ではない。「苜蓿盤」は耳慣れない語であるが、たぶん詩語で蔬食、転じて精進料理の謂い。肉好きでトンポーローを愛したという、かの蘇東坡の詩などにもみえている。「綈袍」は綿入れをきせてやる、転じて友情の厚さのたとえ(史記)。

 日本僧の漢詩は常套句をもちいたためか、どれも似ていて個性・変化に欠ける。これは和歌にもいえるのだが、即座に作れるようにあらかじめ知識として「きまり文句」を厖大にストックしておくのだ。佳作は出来ても、新しいものはうまれにくい。入元僧の千峯本立が、「奇蹤恰も焦山の景に類す」云々と、杉田・屏風が浦附近を長江の風土に擬えているのが注目される程度。

 一般に渡来僧の詩にはずっと難解なものもすくなくない。一行ごとに注釈がひつようなものも。しかし文学的内容というものは、かならずしも特殊な技法や難解な文飾にとどまるものではない。「宗門千字文」などをあらわして文学をすすめた竺仙も、文章ばかりに凝って仏道がともなわなければただの百姓僧にすぎない、と誡めている。肝心なのはなにがえがかれているか。ざんねんながら仮名文献にくらべ日本漢文の研究はすすんでおらず、おおくの文献が返り点も振られず放置されているし、注釈や翻刻のあやまりも少なくない(*たとえば「苜」が「首」になっていたり、「三島廟亭」を静岡県の三島大社と説明したりする類い)。



慈恩寺・荏柄天神社詩板(資料画像)
 詩板の内容は「五山文学新集」別巻一という専門書に翻刻があるらしいが、本稿ではwebからすぐに検索・閲覧できる横浜市文化財保護審議会資料から引用した。また慈恩寺詩板・荏柄天神社詩板・一覧亭軒詩板・静勝軒詩板(江亭記)などは、「新編鎌倉志」による引用から読むことができる。ただ清拙の「三島廟亭詩」については上記専門書を図書館でさがすしかないようだ。清拙の詩はけっこうむずかしい。
 
 東明慧日和尚の頂像彫刻は、円覚寺塔頭・白雲庵の本堂右陣にある。ただし非公開寺院なので、鎌倉ガイド協会などのツアーを利用するか、イベント好きの和尚がやっている本堂内での各種チャリティ‐コンサートなんかに参加すれば拝見できると思う。どれも不定期だから、こまめに検索しないと難しい。一山の塔所・建長寺玉雲庵は近世に廃絶。いまは民家のような建物が名ばかりを復興しているだけだ。

 かれら禅僧ゆかりの地は、鎌倉界隈にきわめて多い。すでに廃寺になってしまったり、現住和尚のわがままで激変してしまった場所もおおいのだが、語録や詩集などをたんねんにひろってゆけば、失われた過去の世界がすこしは垣間見られると思う。文献そのものが疎遠であるいじょう、ゆかりの地もまた顧みられることなく、ありふれた住宅街として環境保全すら看過されてしまう。それは研究者・文化人の責任だ。


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