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もちださんの鎌倉リポート No.337(2019年4月30日)



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リルケと日本漢詩―歌びとを訪ねて・5



「やぐらめぐり」(「素顔の鎌倉」実業之日本社1971)
 東京大学名誉教授でいらっしゃった富士川英郎さん(1909-2003)は「やぐら博士」を自認する生粋の鎌倉文士だった。先日亡くなったキーン・ドナルドさんも鎌倉の印象については「やぐら」を挙げている。

 本物の遺跡でありながら手がかりが少なく、それゆえに観光からも専門の学者などからも放置された感じがいいのだろう。手垢のついていない、生(うぶ)の歴史感覚の美しさ、いいかんじに荒廃した森のなかでの発見感。ながくドイツ文学を研究し、一般読者にはリルケ(1875-1926)の翻訳でおなじみの富士川さんが晩年江戸時代の日本漢詩にこだわったのも、朝敵・江戸幕府の旧弊な文芸として等閑視されていたものの再発見というよろこびがあったのかもしれない。


 英郎さんの父・富士川游は医学史の権威で、文豪・森鴎外の知人。したがってリルケも日本漢詩も鴎外ゆずりだったともいえる。

 森鴎外は晩年、「渋江抽斎」など江戸後期に実在した儒医の評伝に傾注していた。鴎外じしん文人医師であり、先祖も無名の藩医だったがゆえに、抽斎も伊沢蘭軒・北条霞亭も鴎外にとってはなじみの名だったのかもしれないが、「小説ではない」「そんな奴、だれも知らねえ」と、当時は悪評粉々だったとか。

 たしかに文芸としての面白さには欠け、歴史の主人公としての重要度もさしてないのだ。むしろ二流の人物、一市井の人物をめぐる考証を通じて時代の空気が淡々と描かれるにすぎない。当時は自然主義などといいながら、作りものめいた、安手のドラマチックな筋書きがこのまれていたようだ。江戸時代もまた、ただリアルに描かれるよりは「悪代官が跳梁跋扈する未開な社会」「切腹・磔・権威を恐れぬ偉大な正義」などというわかりやすい極端なイメージが求められていたのだろう。



仮名交じり漢文(足利基氏、国宝館看板より)
 漢詩は古代、遣唐使・渤海使などとの関係から盛んになり、凌雲集・経国集・扶桑集などの勅撰詩集も編まれた。漢文はもともと異国への追従というよりは東アジア世界の中心に日本をおこうとしたばあい、帰化人ら多文化社会を抱合する必然として奨励されたのだろう。万葉集にも純漢文を多用した部分があり、話題の「令和」もそこから採られた。古代の外務省「治部省(玄蕃寮)」は、外交というより僧尼・山陵・雅楽などをふくむ儀式典礼一般をつかさどった。漢詩は外国使節への接待を目的としたもので、紀長谷雄が唐風に紀発昭となのったり、渤海客を接待した都良香のように、正式に名をあらためる詩人もいた。

 唐の分裂などから漢文はしだいに形骸化し、書きやすさ読み易さを追求した国風漢文にかわってしまう。唐土でも俗語をまじえた難解(broken)な白話体が流行るなどした結果、日本漢文との乖離が決定的となる。互いに破格な漢文を用いていれば、なにが正解かはいいがたいが、留学僧や渡来僧にまなんだ漢語は少なくとも「あるていど通じた」、といわねばならない。そこで中世には宋・元・明などに渡海した五山の禅僧によって、漢詩・漢文が再構築されるようになる。禅宗がはやったのは、必ずしも宗教的な理由ばかりではないのだ。

 とはいえ渡来僧の語録はきわめて難解な禅語を含む。「不立文字」の理解は言語の領域ではない。反語・逆説・連想・・・言語はつねに元々の機能を離れた、奔放なイメージの領域に浮遊する。そこには危うい意味の飛躍がある。



毛利季光碑。藩の威信をかけ、名高い学者や書家の意見を聞きまくって作成したという(篆書・山縣墨僲)
 現代の学者は安易に「中国」ということばをつかい、恐竜や三葉虫、北京原人などがいた地質時代から中国が不変に存在したかのようにいっている。現代中国を唐の文化と混同してひたすら尊敬したり、あるいは始皇帝の業績を自分の手柄のようにいい、今もあるから唐の時代にもロケットや巨大戦艦があったかのようにいうのは、時系列の倒錯・自他の混濁でしかなく、「言語の病」にすぎない。秦はチベット系、唐は太原あたりから出たモンゴル系国家で、もう遥かの昔に滅んでいる。

 儒者の漢詩にも、極度に理想化された中華世界だけが投影されていた。サッカーで負けたからといってペットボトルを投げ、つぎつぎに日本商店を襲撃する「裸の未開人」をを知っている私たちとは、まったく言語にたいする感受性がちがっていたのだ。ただ一口に「歴史は阿呆の廻廊」などというよりは、鎖国時代の文化人にとって、外国社会がほとんど現実味を欠いていたからではないか。

 とおい世界といえば明治人からみたリルケなんかも同じことだったろう。リルケ自身も浮世絵には興味をもったというが、ゴッホ同様、大正時代に死んだオーストリアの大詩人が日本とつながりをもつことはついになかった。人気作家の堀辰雄らがさわぎはじめたころには、とうに死んでいたのだ。ぎゃくに自由に行き来できるようになると、かえって海外への関心はうしなわれてしまうものらしい。リルケの女友達の息子で有名画家のバルテュスの奥さんは日本人だし、たぶんまだご存命のはず。もっと海外に興味をもってもよさそうなものだ。



国文研HPより
 いぜん江戸期の「にせ外国人」に興味があって、名大皇学館文庫にある孫公群という人の「京摂芳野遊記」1832というのを読んでみた。結論からいえば孫公群は伊勢の御師、孫福群平(当時21)のことであるらしい。祖父の孫福白堂は遠山文圭とも名乗り、孫福(まごふく)の姓は伯父一家が継いだらしく、父・山口凹巷(1772-1830)も若くして山口迂叟という漢学者の養子となった。

 凹巷は鴎外の「北条霞亭」にも頻繁にでてくる詩人で、別名を韓聯玉という。伊勢には周防山口・大内氏の末裔を名乗る者が多く、その大内氏は多々良浜に流れ着いた「百済聖明王の直系」を名乗って朝鮮貿易を独占した過去がある。知人で書家の韓天寿ももとは細野氏といったが、伊勢中川氏を継いでやはり先祖は朝鮮と主張した。末裔説自体あやしげだが、そもそもかれらは養子だから、血縁はない。大内多々良浜神話そのものも、中世にいいだされたもので、根拠はない。

 以前韓国在住の宮原某という老写真家の本を読んだことがあるが、「先祖は百済王」と名乗ることによって戦後も優遇されたという。もともと朝鮮の土人は「族譜」というにせの系図に執着しており、載っていなければすべて敵。名目だけをかたくなに狂信する「正名論」を堅持してきた。戦国大名の大内氏がそんな未開の心性をたくみにくすぐって巨利をえたのと、今もまったく同じなのだ。韓聯玉も韓天寿も、すでに廃絶した朝鮮通信使がふたたび通ることがあれば、きっと幕府に召しだされ名を挙げるとでも思ったのかも。



「驥虻日記」。茶山(晋帥)・霞亭(譲)は自筆の版下をよせた
 孫公群は凹巷の死後、父の門人・東夢亭(青山文亮。東恒軒の養子)らに詩をまなんでいたようだ。早世したのか改名したのか、その後のことはわからない。孫福は伊勢の地名にもとづく下級祀官・御師の家柄であり、参宮者むけの旅館をいとなんだり各地の講に「大麻」というお札を頒布するなどし信仰を勧めた。むしろ国風の家柄といっていいのだが、伊勢度会のせまい文学サークルのなかにおいては、だれしもが漢風の「雅号」をなのり、あるいは師匠の意向などにより養子を頻繁に交換する親類の間柄であったりした。真の親を見失った子供たちは、自分をいったい何者と考えていたのだろうか。

 とはいえ、伊勢神宮のおひざもとということもあってか、とくに嫌らしい外国かぶれにおちいっていたわけではないようだ。凹巷は月ヶ瀬梅林や天橋立など日本の田舎を紹介した旅行記でしられているし、公群も伊勢から宇治をへて須磨・高砂、京都・奈良・吉野をめぐっているが、これらの名所に通底するのは、伝統的な歌枕であったり、江戸庶民にもなじみの深い「源氏」「平家物語」「太平記」の世界だ。まったくの無知ゆえにこそ、得体のしれない民族の名を不用意に真似てしまったのだろう。

 凹巷の友人・河崎敬軒は御師という職業がらか、鎌倉を何度もおとづれ「略々風土を諳んず」と、「驥虻日記」1815に書いている。題名の驥(駿馬)とは私淑する菅茶山のことで、敬軒は虻、つまり江戸から帰る茶山にくっついていって、道中に詠み捨てた師の詩に多くの自作を加えた。没後凹巷の校正、茶山・北条霞亭(旧友)らの序跋を付して公刊され、茶山の著としてもひろまった。こちらは富士川さんの「紀行日本漢詩」にも入っているらしいが、ここでは試みに読み下して、いくつか挙げてみたい。



(浄明寺あたり)
  鎌倉  茶山
荒墟は道壊れ艸萋々たり、 将第・侯家も処々に迷う。
行きて旧聞を憶い遺址を尋ぬれば、 山茶花落ちて古僧の栖まう。

  鎌倉の雑詠二十首
華表鶴帰*して年幾ばくか徂(ゆ)く、 山鳩穀々と人の呼ぶに向う。
古廟翬飛して在るに因らずは、 誰かは信ず鎌倉是れ覇都と。

葛西村裏の北条荘、 何処か当年の闘犬場。
凶悪にして亦た応に雨露を蒙り、 行人唾過するも草猶芳ばし。

凶賊の墓碑は苔文を作し、 親王の土窖は草薫ずること纔かなり。
寺僧解せず当年の恨み、 只だ春花を説いて已に十分。
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(*鶴帰・・・「駕鶴帰西」で、鎌倉幕府滅亡以来の意。*翬飛・・・キジが翼をひろげるさま。立派な社殿のたとえ)


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