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もちださんの鎌倉リポート No.338(2019年5月7日)



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歌びとを訪ねて・6


 「・・・鎌倉には尚廃墟らしい所が多い。特に骨肉相疑ひ、同族相戮し、猫額の地に人間の罪悪の歴史が集められて居る如き感がする。・・・迷路の如き鎌倉の谷々はかかる人心を具象化して居る様に思はれる。併しそれだけ又深刻に人世の悲哀を感ずることも多く、我々の宗教心を動かし易い」。

 晩年七里ヶ浜にすんだ西田幾太郎(1870-1945)は、こうのべた。20年近く住んだ京都は美しすぎ、実感を動かすものが多いかわりに「空想の羽ばたく余地を与へない」。上の文章はそれに続くものだ(「思索と体験・続」1937)。どこへつながるのか、立ち入り禁止や入り組んだ袋小路の多い鎌倉の路地は、たしかに人間のニューロン(神経細胞)とかシナプスをおもわせる。

○ 亡ぼしし人も亡びて谷々に 残る歴史の物哀れなる



七里ガ浜の碑文
○ 七里浜入る日漂ふ波の上に 伊豆の山々果し知らずも
○ 朝に夕に移ろふ日々の海の面は 日々に見れども飽くこともなし
○ このあたり庵りしますと音無の 川辺の路をたどり入りにき

 京都の桜の名所・琵琶湖疎水の「哲学の道」でしられる西田は、長年京都大学の文科教授であった。退官後は苦心してたてた京都の自宅と鎌倉の家を行き来しながら、東京の慶應大学や学習院の講師などをつとめた。碑文の「寸心」は西田の号で、終の棲み家となった旧宅は碑よりもだいぶ山のうえにある。寸心荘としていまものこっていて、すでに遺族から寄贈され、学習院大学がセミナーなどにもちいているほか、ときどき見学会もある(図4・6、Google地図より)。

 夕方には、夕陽が大きくみえる原理で、伊豆・箱根の山々がいつになく間近にせまってみえる。音無川は稲村ヶ崎の駅にちかい音無橋の下を流れている。「庵りします」とは誰のことだろう。西田邸のある谷戸はその「川辺」よりひとつ先、いまはほとんど暗渠だが下流の溝は辻川とかいうらしい。


 西田は同郷で同級生でもあった鈴木大拙(北鎌倉・松ヶ岡文庫)と親しく、禅にも親しんだ。かれが発明した「絶対矛盾的自己同一」という難解な概念もおそらく禅、金剛般若経的な「不二の法門」の発想によりうまれたものだ。有と無は同じもの、主観と客観、仏と糞も同じ、生死即涅槃、煩悩即菩提、というあれだ。絶対的に矛盾し対立するふたつの概念の未分・合一に悟りがあるというもので、聖徳太子が愛読した維摩経にもくわしい。維摩は「世間と隔離した修行者の悟りの中に悟りはなく、むしろ困難な煩悩(世俗)のなかに悟らなければ何の意味もない」、などといっている。

 西田や仏説は形而上学的でむずかしいけれど、たとえばキリスト教や共産主義は一面では正義にもなるけれど一面では悪にもなる。この「絶対矛盾的」な自己認識がなければ偏向報道とか事実の捏造、はてはキリスト教による異教徒の焚殺とか毛沢東による大量虐殺のような「狂気の正義」にまで逢着してしまう。あとになって過去を欺瞞し反省するまでもなく、こんなことは正気の人間ならまずさいしょから、おかしいと直覚的に【気づくべき】はずのものだ・・・。

 では、西田幾太郎は自らの理論をどう実践し、自己同一をはかったか。



GoogleMapより
 西田は戦時中、「世界新秩序の原理」なる一文をしたため、東条首相におくった。日米開戦や全体主義路線はすでにヒトラーにあこがれ大政翼賛会をひらいた近衛内閣における規定路線であり、単なる職業軍人で多少のロマンチストにすぎない東条にどこまで現状の厳しさが理解できたかは定かでない。とはいえ報道や学者たちの主張にまったく影響されなかったかといえばそうではなかろう。

 西田は「国家の世界史的使命の自覚」ということを力説。「真の共栄圏」をつくるには米英帝国主義ではだめで、国家のエゴイズムをすてなくてはならない。そこで「日本精神の真髄」「我国の国体の精華」とはいかなるものかと思索し、【己を空うして他を包む我国特有の主体的原理】であり、それこそが【万民翼賛の原理】であると思うにいたる。そうすれば「今日の世界史的課題の解決」が果たされ、英米も「之に服従すべきである」と説く。

 ようするに「真の共栄圏」とは「亜細亜のために死なう」ということだ。


 かりに日本が「善」であり「正義」でありさえすれば自動的に「悪(英米)」が服従する、というのは飛躍でしかない。そもそも亜細亜をまもる命がけの「使命」だの「名誉」など、誰ももとめていない。自己犠牲をいとわず他人をたすける「一心太助」的な【原理】が神皇正統記などにみられる我が国固有の思想であったかのようにいうのも違和感がある。神皇正統記の原理はむしろ壮士ならではの原理、宋学(朱子学)の原理だ。

 結論から言えば「亜細亜」はよろこんでなどいないし、日本の「善意」を「国境を越えた万民翼賛の原理」ともおもっていない。日本人からすれば、中韓は恩を恩とも思わず、米英にごまをすり逆恨みをつづける愚かで欲深い、破廉恥なエゴイズム集団にしかみえないだろう。それはアジアにたいし「日本はみずからを否定し、自己犠牲をいとわず援助をしつづけてきた」などと勝手に思いこんできたからだ。そもそも中韓に「善をはたらく」義理も使命も必然も、なにひとつありはしなかった。そんなものは余計なお世話にすぎず、むしろ【逆効果】であったことをそろそろ冷静に自覚すべきなのだ。

 それは戦後、「善意にみせかけた日本の侵略」であると定義された。そして70年代の日本左翼も、援助の正体は「戦後日本帝国主義資本による再侵略」であるなどと、チンドン屋のごとくふれまわった。いまさら、どの口が韓流だの東アジア共同体構想などとはしゃぐのだろうか。


 西田は終戦直前になくなった。思想家でただひとり戦犯に問われた大川周明は、ケマル‐パジャをはじめとする西アジアの独立運動の研究者で、たしかに英米を敵視していた。かれもまた「亜細亜のために死なう」という、マスコミがさけぶ最大公約数のるつぼに落ち込んだ。彼我の思想に差異があったのは、言うに及ばない。しかし民主政治とは玉虫色の、最大公約数しか掬い取らない。大川の専門だった西アジアなんて、戦時中のだれが興味をもったろうか。かれらの「真意」なんてものは、かりにあったとしても【民意】によって容易に希釈され、衆愚政治の一部品として同化してしまう。

 【民意】を真っ向から否定し、独断で何かを変えることなど誰もできはしなかったろう。たぶん、昭和天皇ですらも。庶民は「正義」と興奮をあおる大手メディアの、無責任な万能論にしか耳をかさない。途上国のことはいうに及ばず、現代の日本においてもなお過去の洗脳が解けず、善悪二分論にトチ狂い、いまだ死んだテロリストを英雄のようにほめそやす教職員すらいる。では生きのこった社会主義者はなにをしたか。

 かつて日共幹部は中ソの手足として働き、抑留者を奴隷化。社会大衆党(統一社会党)はヒトラーの革命を慕い、近衛内閣の与党となった。反米や米の配給など、かれらの悲願は戦争によって実現された。「プロレタリアの独裁」とは、それ以上の何ものでもなかった。昭和天皇に形式的な戦争責任があるとすれば、国家元首としてなにもできず、かれらのような「煽動家」「教育者」「進歩的文化人」を国民として有してしまった、ただそのことにおいてだ。



和辻・西田の自筆稿本(国会図書館DC・京大OpenCourseWare参照)
 戦後、昭和天皇は文化人の責任転嫁にまぎれもなく政治利用されてきた。しかし「亜細亜主義」「昭和維新」は朱子学や社会主義インターナショナルの一変態にすぎない。西田や大川らの戦時主張に尊王思想は希薄であり、いっているのは「亜細亜のために死なう」という、それだけだ。大川は「尊皇は明治維新ですでに達成されたので、今やもう意味はない」といってのけたという(遠藤某「皇国軍人に愬ふ」1932)。

 和辻哲郎は「日本の臣道・アメリカの国民性」1944のなかで「生きるか死ぬかといふことは、そんな大事件ではない」などと戦死を勧める一方、物量に頼るアメリカは「道義的精神力」に劣るので「案外に脆く倒れる」と大戦の帰趨まで「予言」した。一時の過失をもって思想家の全人格をあげつらうつもりはないにせよ、もっとも肝心な時に、・・・いったい哲学思想とはなんなのだろう。当時のチンピラ記者が得意満面にしたためていた金儲け記事と、どこが違うのか。干されて貧乏になれば、人生が終るとでもおもったか。他人には「死ね」といいながら。

 「発狂したアナーキストを追い出す力が、今の教会にあるだらうか」といい、「自ら亡びて人をば生かす、十字架の、血の、神の子だ!」「我等の血を以つて新しき歴史を書き給へ」などと、聖戦への思いをつづった賀川豊彦や、戦時に「日本的霊性」などを書いていた親友の鈴木大拙は晩年、ノーベル平和賞の候補となった。賀川は貧民街の聖者として、大拙はコロンビア大学など全米各地で仏教思想を教え、高く評価された。西田がもしいきていたら・・・人物の評価などあてにならないものだとしても、ちょっと考えさせられる。


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