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もちださんの鎌倉リポート No.339(2019年5月15日)



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襖と杉戸絵― 一条山荘・3



菊菱紋(一条恵観山荘)
 京都東山慈照寺銀閣。使われていたのは銀箔ではなく、漆地の上に明礬(礬水)を白土にまぜてぬり、一部には亀甲・唐草紋などを描いていたという。明礬は絵の具のにじみ防止や硬化作用もあるのだが、ここでは装飾の役割もはたしていたといわれる。昼の光では白壁にしかみえないが、月夜の微妙な光ではむしろ野に煌めく霜露のように、妖しく輝いて見えたのだとか。

 こうした技法はいまも襖の唐紙にみられる。雲母(きら)摺りといって、光線の角度によって模様がうっすら輝いたり暗く沈んだりする。昼間は地紙の白さにかくされてしまうが、むしろ薄暗い夜間には燦然として輝きを増すのだ。雲母摺りは写楽の大首絵にもほどこされ、画集では背景の鼠色にしかみえないが、本物はいぶし銀のように照り輝く。こちらはあきらかに擬銀箔を意図している。擬銀箔や擬金箔は屏風絵にもままみられる技法。



週刊朝日百科「日本の国宝」より
 金銀の箔をふんだんにもちいた障壁画を金碧画というらしい。これは大航海時代につたわったキリスト教の聖画「イコン」の影響であるともいわれている。これは聖者をとりまく後光のような表現で、板に沈線を刻んで、光の角度によって模様がうかび上がるようにした。日本の屏風でも金雲のまわりに凸線や魚々子(つぶつぶ)などを立体的に打つことによって、輝きをあらわそうとした例がある。

 より古い技法では、扇面古写経や平家納経などにみられる箔散らしや蒔絵などで、空気中に金の綿毛がとびちっているようなシュールな表現も注目できる。箔や金のつぶの不規則な大小があたかも遠近感のような効果をもたらし、奥行きや空気感を錯覚させる。

 ただ、本格的な遠近法というようなものは近世まで存在せず、中世までは洋の東西をとわず逆遠近法すらふつうに使われた。絵巻物などで建物が奥拡がりに微妙にゆがんでいたりする。むしろそれを補正しようとする目や脳の錯覚を利用して遠近感を狂わせ、逆説的に立体的に見せようとしたのかもしれない。



(同)
 奥行きということでは、障壁画によくみられる「はみ出すように描かれた巨樹」。これは障子がガラスのように透き通って向こうがみえている、一種のだまし絵的な技法であり、現実の軒や長押によって画中の木の上方が隠されている、といった表現だ。とすると、余白の金箔のぶぶんは遠方の空気をあらわしているのかもしれない。

 能舞台の鏡板にも、松をはじめとする巨樹がえがかれる。こちらは金箔ではなくて杉板を生地のまま用いた、いわば杉戸絵なのだが、これを「鏡」といっていることに注目したい。鏡とはものを映す鏡はもちろん、虫眼鏡のように向こうを透かして映すレンズのようなもの、あるいは「吾妻鏡」「育メンの鏡」などというように世相や理想像・物語など、なんらかのヴィジョンを目の前に投影するスクリーンとしての意味をあわせもつ。

 杉板はもちろん鏡面のようなものではないし、金箔ほどキラキラしたものでもない。ただ雲母のような光沢をもち、夜になると真っ黒に沈んで、夜目には絵だけが浮き上がってみえる。これは光と闇のコントラストを変化させ、余白に深い空間を錯覚させる。


 西本願寺・飛雲閣歌仙の間(上図)では、数枚の杉戸の向うに御簾を巻き上げた架空の大広間があって、あたかも戸板を透過して向うの間にいる三十六歌仙などが見えている、といったてい。歌仙はわざと大小が不ぞろいで小さいもののほうがやや高く、浮き上がるようにえがかれ、より自然にみせるため各戸板の中央をわざと外したり一部が柱にかくれていたりと、たくみに遠近感を演出する「だまし絵」的な趣向だ。

 一方、一条恵観山荘にあるこの杉戸絵(右図)には人物はなく、「描かれた奥の間」の屏風の内はからっぽで、片方の御簾は巻き上げられている。「どうぞお入りください」という含意なのだろうか。この絵の奥は現在、水屋の間だ。

 杉戸の本来の配置がいまの場所でいいのかは不明。これらの杉戸絵は恵観の祖母・新上東門院(勧修寺晴子1553-1620)の御所から移したという伝えもあるらしい。新上東門院は信長が後見した誠仁親王の妃で、恵観の父・後陽成天皇や桂離宮の八条宮を生んだ。いっぽう霊元院の日記には新上東門院についての説明はなく、みな恵観本人の好みであると聞いている。この杉戸絵のある数奇屋自体は、1648年の茶会記録にみえるものという説、襖の押し縁に「慶安五年」の書き付けが発見されたという後世の記録から1652年ころ完成とみる説がある。


 西本願寺の飛雲閣は豊臣秀吉の聚楽第から移築したといわれる。恵観の母・近衛前子は秀吉の猶子として入内したことから、秀頼は叔父で秀吉は祖父。恵観の時代にも豊臣家ゆかりの文化人や絵師などの人脈がそのままのこっていただろう。凝った杉戸絵なども、あるいは派手好きな秀吉の趣味趣向がつたわっているのかもしれない。

 こちらは「立花の図」。「扉のむこうが透けて見えている」ていであるとすれば実物大よりもやや小さい、といったスケール感なのだろう。近世の立花といえば、京都六角堂の傍らにある池坊会館「いけばな資料館」の展示(およびHP)が参考になると思う。中世の板碑にも刻まれたように、仏前への供花が活け花のはじまりで、鎌倉でも一対の花瓶などが実際に出土している。なかでも立花(りっか)は室町期に座敷飾りとして完成していったもので、舶来(唐物)の大振りな花器に松とか竹とかの本木(真)をたて、下草として草花をまとわせた豪壮な生け方。現状では竹に菊(左)・松に牡丹(右)以外ほとんどなんの花かわからないくらいくすんでしまっている。とはいえ光の加減では松の葉の一本一本までみえなくもない。赤いのはたぶん「温古録」にいうところの鶏頭だろう。

 こんにち、一般の床の間や茶室の小間に活けるようなささやかな生花は、まだ「抛げ入れ花」といって茶人や素人に任されていて、池坊のお家元が格式高い様式美へと高めるのは江戸も中期になってからだという。また、椿に花壇・松を描いた戸もあったらしいが、いまはほとんど剥落して、影のようなものしかみえない。


 飛雲閣は近年修復を経て歌仙の絵も摸写に付け替えられ、創建時のあざやかな姿を甦らせた。恵観邸のものは煤で色もくすみ、剥落も目立ち、保存修復は急務であると思われる。ただ修復したとしても今のように間近で見られるかどうかはわからない。桂離宮なども内部の参観はほぼないから、こうして見学できるのは、それだけで貴重なのだ。

 次は「臥せ籠」の図。「御簾に屏風図」の裏にあるもので、香炉の上に、「黒地の紅絹裏に、紅白の碇を刺繍した小袖」を拡げて薫蒸し、香りをうつそうとしているところ。衣類を浮かせるため、香炉の上に被せておくカバーが臥せ籠で、これで一部屋占領しているさまを、杉戸を透かしてみている体(てい)。堅苦しい儀礼を終えて、いまでいえば脱いだ服にファブリーズをシュッとしている、といった場面か。

 香は焼くのではなく、埋み火の上の雲母のプレパラートにおいて遠火で炙る。こんにちの香水香にくらべればかなり仄かで、やわらかい。焦げ臭くなってはまずいので、ゆっくり時間をかけて薫きこめたのだろう。絵にはたぶん、「こっちの部屋は薫蒸中だから、入っちゃだめよ」的なメッセージが込められていたのかも。さらに「葦手」といって、隠し文字や判じ物があるのかもしれないが、それは専門家によらなければ、ちょっとわからない。あるいは本来、絵のむこうが(新上東門院の)お風呂場だったとすれば、脱いだ服、碇=水のイメージや「入っちゃだめよ」の意味がよりはっきりすると思う。


 「人形舞わし」の図は、玄関先の縁側で待つ客の慰めのために描かれたものだろうか。恵観邸には武士であったころの近松が仕えたことから、人形浄瑠璃の図ともいわれる。小屋掛けの仮屋根のようなもの、また櫃(箱)の上には遣い手をかくす板か幕が斜めに張られ、丸紋や鳥などがえがかれているが、かなり薄れていて演目などを知るてがかりはない。投げ頭巾をかぶり末広扇をもつ五体の舞女ふうの人形の先頭には、なんともいいがたい謎の物体も描かれているが、これはいったい何だろう(写真は次号)。

 もともと傀儡子(くぐつ)舞わしと浄瑠璃語りは別々のものだった。人形劇である傀儡子は、手持ちの小さなものから近世に大形化し、こまやかな芝居も可能になるが、このころはまだ動きも単純なものだったと思われる。下半身はまだないようだし、人形はみな同じ姿勢なので、この「大きさ」なら一人が箱のなかに寝そべって、五体ぜんぶをあやつっていたのかも。いぜんテレビで、当時AKBの川栄さんが人形と繋がれて「おばかダンス」を披露したのをみたことがあるけれど、そういう連動式のからくりが、江戸初期のひとびとを驚かせていたのかもしれない。

 近世初期の傀儡子の実物は地方にいくつも残っているが、関節などをふくめ稚拙なものが多い。複雑なストーリー性のある浄瑠璃語りではなく、むしろ音楽や群舞がメインの、からくり人形的な出し物を思わせる。


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