トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第340号 


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もちださんの鎌倉リポート No.340(2019年5月20日)



No.339
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人形舞わし― 一条山荘・4



謎の物体と鳥の図柄(前号参照)
 人形舞わしの歴史については斎藤月岑の「声曲類纂」(岩波文庫)などにくわしい。人形、すなわち傀儡(くぐつ)は古代唐土の「喪家の楽」にゆらいするとされる。日本では、たとえばイタコのようなものが、形代をもって神や先祖のことばを伝えたのがはじまりなのかも。平安時代にはすでに娯楽としての一座をもち、人形芝居のほか各種奇術や曲芸、売春までおこなっていたことがしられる。

 やがて千秋万歳などの門付け芸ともむすびつき、人形をもった太夫らが祝言をのべて謡いながら家々を回る。そんな素朴な芸が、宮中にもはいりこんだ。西宮の人形遣い・引田淡路掾がはじめて宮中で演じたのは、三番叟だった1570。引田らは「夷舁き」といって、正月に西宮戎神社の唱導万歳をおこなっていた傀儡師だったが、やがてオフシーズンにはじめた人形芝居の小屋に、目貫屋長三郎という琵琶法師など、より複雑な物語を語る浄瑠璃節の専門家らがむすびついていったという。



経櫃型屋台(「声曲類纂」古文研HPより)
 はじめは首懸けの箱にはいったちいさな人形にすぎなかったものが、浄瑠璃人形の時代には大きな経櫃を改造してちょっとした仮設屋台をつくるようになったらしい。各地に移動して公演するには、経櫃はちょうどいいコンテナにもなったのだ。恵観亭にえがかれた舞台はその大きさといい、素朴な屋根といい、こうした初期の浄瑠璃人形をあらわしているように思われる。二枚の杉戸におさまるスケールと仮定すれば、経櫃ひとつ分の陰に隠れることができる遣い手はかぎられる。

 町方には、やがてもっと立派な常設劇場も出来ていっただろう(挿絵)。ただ貴族のばあい、自邸に呼び寄せて見物しただろうから、えがかれているのは簡素な仮設舞台であったと思われる。淡路掾は恵観の父・後陽成院にも寵愛されたというので、それが事実なら恵観もおさないころから見慣れていたかもしれない。記録では大阪夏の陣の年、院御所で「阿弥陀の胸割」など説経浄瑠璃の人形芝居が、能などとともに披露されている1614。

 やがて近松が活躍した元禄のころになると、人形も大きくなりその機構も複雑化、一体につきひとりがかかりきりになり、ついに遣い手は見物から丸見えとなる(下図中段)。もっとも、手持ちの門付け芸のころから遣い手は見えていたのだから、いまさら箱に隠れるまでもなかったのかもしれない。



くぐつ芝居・一人遣い・三人遣い(同)
 こんにち行われる「文楽」にいたって、人形は一体につき三人遣いとなり、目ばたきなどを可能にした複雑なからくりを搭載したり、足先を含むより繊細な動きを表現できるようになった(下段)。「文楽」以前の様式は、いまでも地方の伝統芸能として数多くのこっているが、素人芸となって久しく、往事の隆盛をうかがい知ることはむずかしい。

 古浄瑠璃や説経節の詞章は時代ごとに作りなおされており、廃曲も多く、段章ごとに複数人で執筆したものもある。説経節と浄瑠璃節はそのルーツを異にするが、ともに三味線や人形座とむすびつき大衆娯楽化したこともあり、やがてこんにちの「文楽」へと収斂(*似すぎたがゆえに一つに淘汰される)。能の「弱法師」は説経「しんとく丸」に、後年の浄瑠璃(義太夫節)や歌舞伎では「攝州合邦辻」へと変遷する。物語はより刺激的に、グロテスクに。人形だけでなく、俳優がド派手に演じる歌舞伎とむすびついたものもすくなくない。

 恵観亭の杉戸絵にえがかれたものは、時代観からしてこんにちの「文楽」よりもはるかに古いものと言わざるをえない。そのころの舞台を描いたものは、月岑が蒐集して「声曲類纂」に転載したこれらの古画のほか、けして多くはないのだ。



夷舁き(「大日本史料」総合DBから)
 祭りの山車に乗っているような古いからくり人形のほとんどは、箱のなかの人間が仕掛けの糸を引くなどして人形内部の機巧を動かしている。この動力をぜんまいなどに代えたのが「茶運び人形」などとして知られる自動人形の系譜。浄瑠璃とはべつに、からくり人形そのものを見せる「からくり芝居」も、音曲入りの見世物として定着していた。現代の産業ロボットなども、もともとはカラクリに端を発している。

 「看聞御記」などにみえる中世の「アヤツリ燈炉」とは、いまでいう走馬灯のようなものだろうか。「甲陽軍鑑」には、上杉謙信が一間四方もある「城攻めのあやつりからくり物」を楽しんだなどという。ただ簡略な記述からは、その詳細を知ることはできない。「徳永種久紀行」1617には「狂言踊り上瑠璃を 木にて作りし木偶(でこ)の坊 糸で操る面白や」などとみえる。

 一方、関西には祇園囃子やだんじり囃子など独自の音楽文化があり、「浄瑠璃語り」は独立した音曲としての人気もあった。能や幸若では鼓が主体であり、「天鼓」「自然居士」のように鼓のリズムを前面に押し出した演目もある。説経や浄瑠璃も、はじめには鉦やささらを用いていたらしいが、やがて一台で旋律の魅力を十分に発揮できる、三味線という最新の万能楽器に出会う。



かふぇ楊梅亭のあたり(滑川畔)
 浄瑠璃は義経外伝「浄瑠璃姫物語」の語り物が由来とされ、琵琶法師の平家語りの亜流だったらしい。明治時代にも「女(むすめ)義太夫」といって、東京にも歌舞伎の伴奏以外に人気の浄瑠璃語りはのこっていた。大正時代の名人・大隅太夫のレコードなんかを聞くと、浪曲をもしのぐコテコテな情感に、自由奔放な節回しがみごとに両立していた。あんな天衣無縫な音楽は、いまの文楽太夫にはなかなか聞かれない。

 説経はもともと教訓話であったようだが、客寄せに面白い話もまじえた。鎌倉時代、信西の子孫の唱導師がつたえた安居院流「神道集」では、甲賀三郎の地底めぐりなど独創的で奇想きわまる長編物語となり、「沙石集」の無住にいたっては、まじめな法語にくわえて諸国のよもやま話、はては「浮気を封じるため、ちんこに粉を塗られた男」などといった、どぎついエロ話にいたるまで、変幻自在にまじえた。

 鎌倉時代の鎌倉にうまれた無住は、やがて名古屋の長母寺などに定住。唱導のかたわら、ネタ集を編んで弟子たちを育成、また貧乏人が門付け芸で食っていけるよう、庶民に三河万歳のやりかたまで指南したという。説経節の定番「阿弥陀の胸割」は長者の息子を助けるため自分の「生き肝」を捧げようとした女にかわり、仏が血を流したという話。記録の上ではさきにのべた院御所での上演が初出とされるが、成立はもっと古いようだ。頬焼阿弥陀の身代わり縁起が、より大衆が好む刺激的な物語へと遷移したもののようにおもわれる。無住のつたえた段階では、邪険な女主人が信心深い童女の頬に、銭の焼印を押したことになっていた。・・・


 貴族や皇室が庶民文化にふかい関心をいだいていたことは、中世にさかんに描かれた「職人歌合」絵巻などからも知られる。レポ326にも触れたように、霊元院は修学院御幸の余興にかこつけて、楊弓や京焼の絵付けなどにも嬉々としてチャレンジした。

 現在の天皇が若いころ、自動販売機のハンバーガーをはじめて食べて気に入られ、「礼の宮や紀の宮にも買って帰ろう」とかいった面白話はときどき聞くが、江戸時代の皇族だっておなじだった。かつての天皇は、清涼殿の昼の御座にしつらえた、御帳台というテントのようなものにこもって公務をするだけの日常だった。

 霊元院は年に数度の修学院御幸を楽しみにして、楼にのぼり修学院あたりの天気や花紅葉の度合いなどをながめては気をもんだ。御幸には準備や警固などに莫大な費用がかかるから、所司代ひとりでは決められず、江戸まで伺いを立てることもあった。修学院の庭の池浚えをして数十年ぶりに浮かべた舟は、富豪の角倉が高瀬川にもちいた平底舟がいいだろうと、わざわざ山里まで大人数で担いではこばせた。とりとめのない遊びにもそれなりの用意がひつようだったのだ。


 後水尾院がたてた仙洞御所は幕末に焼失してしまったが、狭くとも心休まる数寄屋造りの間のほうが、「窮屈な」御所住まいにくらべ、はるかに広く「のびのび」と感じられたことだろう。江戸の将軍様が多摩川の鮎を愛でるため、ときどきたずねたという世田谷瀬田の長崎家も、一見ありふれた田舎屋だった。

 庶民の家に床の間や畳、凝った「違い棚」などがごくあたりまえに普及するのは幕末以降のことで、山荘の茶亭を単に「質素」「庶民的」「田舎屋風」とみるのは、もちろん時代錯誤の錯覚なのかもしれない。江戸前期の古朴な農家は、たとえば植木の玉縄資料館に復元されているが(重文・レポ130)、けして幕末明治の豪華な古民家と混同することはできない。それにしても、後世の市民や農家までが貴族皇室の茶亭の造りを規範として模倣し、その洗練された趣味をごくあたりまえに受け入れていったことは、もっと注目していいのではないか。

 修学院にはただひとつ、ゴテゴテした悪趣味な石橋があって、離宮を絶賛した建築家のB.タウトも強く非難しているが、これは当初のものでなく、幕府の役人が好意のつもりで贈ったものだという。さすがにこんな趣味は、広く受け継がれることはなかった。


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