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もちださんの鎌倉リポート No.341(2019年5月27日)



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貴族と和歌― 一条山荘・5



毎日グラフ別冊「桂離宮」1982より
 全体がほぼ現存する桂離宮には、立派な書院(居住棟)のほかに池庭をめぐって月波楼・松琴亭・笑意軒など4つの茶亭・数奇屋がのこる。この別荘を愛した桂宮家仁親王(1704-1768)は、日帰りで5つの茶亭をめぐった。川沿いの一棟はその後流失したらしい。

 「月」の字型の引き手や立花の杉戸などは、桂では書院にある。恵観亭では広大な池庭も書院も残っていないので比較できないが、茶亭・数奇屋は桂でも一見かなり質素な田舎屋風。ことに有名なのは茶事用の囲いの間を備えた松琴亭にある、この青白市松の壁紙。この色彩が前庭にこぼれて、青白の飛石が庭に敷かれているといった趣向。こうした「数寄」とよばれる斬新な工夫は、主と趣味を同じうする同朋衆とか御伽衆とかよばれる芸術家集団がいたことを示す。修学院離宮の茶屋建物は、ざんねんながら当初のものではない。




 この桂離宮を創建した八条宮智仁親王は、恵観にとってはおじである。秀吉が入れ込んで自分の猶子として皇位につけようとした時期があり、徳川時代には風雅の道に逃れるよりほかなかった。離宮はいったん荒廃したが、息子の代、加賀前田家との婚姻による豊富な財力で今の姿に完成したといわれる。平安時代には、受領(国司)の成功(じょうごう*売官)でぜいたくな邸宅や広大な山荘がたてられたが、武家の時代には国司制度も有名無実化、戦国時代には貴族皇室の所領(荘園)も崩壊する。宮家といえども、財政的な後ろ盾がひろようになっていた。

 ただ和歌の道においては、八条宮は細川幽斎から古今伝授を受け、甥の後水尾院につたえて権威ある「御所伝授」の祖となった。学問嫌いの恵観も、兄・後水尾院から和歌の添削をうけている。「古今伝授」じたいは象徴的な儀式でしかないのだが、要するに藤原定家の子孫である御子左流二条家につたわった歌道の免許皆伝、お免状のようなもの。

 二条家は、かの冷泉為相の兄でありライバルであった二条為氏・為世親子の系譜。たしかに「新勅撰和歌集」以下、13代集とよばれる公式歌集の大半を撰進した正統派の最大派閥であったのだが、子孫は断絶。悪いことに応仁の乱がおこり勅撰の和歌集が作られることはもう二度となかったから、権威だけが他に替ることなく空しくのこり、「古今伝授」などというものに集約していったらしい。



「歌仙(嘉世舞)」写本。国会図書館DC
 古今伝授は、二条家の断絶後、家宰であった頓阿をはじめとする地下(じげ)の歌人・連歌師らのあいだを伝々し、地方をめぐるなどしてあらたな彩りを添え、神秘化していった。定家の唯一本物の子孫である冷泉家をはじめ、宮中にあまたいた和歌の名家をさしおいて、ついには「御所伝授」というあらたな権威まで獲得してしまう。後水尾院が東福門院のためにえらんだという「集外三十六歌仙」には、公家の歌人はまったく取られていない。

【地下歌人】 正徹・正広・蜷川智蘊(いわゆる新ヱ門さん)・津守国豊・浄通尼・桜井基佐・尚証・佐川田昌俊
【連歌師】 心敬・宗祇・宗長・宗牧・宗養・宗碩・猪苗代兼載・兼与・肖柏・小幡永閑・里村紹巴・昌叱・玄陳・心前・松永貞徳
【武将】 東常縁・大田道灌・三好長慶・安宅冬康・毛利元就・北条氏康・武田信玄・今川氏政・氏真・伊達政宗・細川幽斎・木下長嘯子・小堀遠州

 もちろん宮中でも公家の歌会はたえず、霊元院は冷泉家の秘蔵の歌書を悉く書写させるなど、けして名家の歌風をないがしろにしたわけではなかった。ただ公家の和歌は常に見慣れたもので、地下の和歌はワイルドでぎらぎらした未知のロマンを秘めていた、そのあたりに関心の偏りがあったのかもしれない。つまり武士や庶民の人情を学ぶことは、変りゆく時代の切迫した要求だったといっていい。



週刊朝日百科「日本の国宝」より
 江戸期の天皇は慶長勅板を刊行するなど、庶民の教育に熱心だった。大量出版には向かない活字を用いるなど、経費を節約しながらのささやかな試みであったようだが、これがきっかけとなって書肆が乱立、武士や庶民階級に宮廷の文化・学術がひろまり、世界に例をみない出版文化が花開いた。和歌は人間性をあらわすものとされた。繊細な四季への観察は世相への洞察力をも養い、文学への関心は他の学問にもひろがり、やがて宮中でも武家や庶民の著作が学ばれるようになる。身分を越えた文化の交流が実現するのだ。

 冷泉家をはじめとする公家たちも、生活費をかせぐために江戸の武士や各地の大名、豪商・豪農などから月謝をとって、おもに通信教育の形で和歌の添削をし短冊を頒布するなど、諸芸の教授や口利きなどを行った。いぜんに触れた藤沢の金井氏や川崎の池上氏、武家では(為相墓を整備した)宮部義正や(玉縄城を再発見した)森山孝盛など、みな冷泉為綱・為村らに和歌をならっていた。

 肖像画をみるかぎり為村(1712-1774)は歌丸師匠ににたやせこけたじいさんだ。特段、「麻呂」という感じではない。その教授は熱心で多数の弟子があつまり、冷泉家を中興したといわれる。16歳のころ、「為相墓」の苔を贈られた(レポ299)ように、和歌にははやくから専心していたらしい。いっぽう息子・為泰はものぐさな性格で添削をさぼり、たまりかねた「庶民」から続々脱退や月謝を値切られるなどの屈辱をなめたあげく、「江戸冷泉門」とまでいわれた先代の隆盛を崩壊にみちびいてしまう。公家がいきのびるにも、努力と才覚がひつようになっていたのだ。



庭から山荘をみる・その逆(奥はかふぇ楊梅亭)
 あるとき為村(50)は、いつものように鉄漿をつけていると、鏡のなかの自分が顔面神経痛になっているのに気付いた。治療にもちいた烏犀円・豨薟丸・烏薬順気散・清心抑痰湯などは現在も漢方や地方の民間薬にのこる処方で、適切な治療の甲斐もあってか曲がった唇はすぐに回復したが、そのあいだの不如意を「いすかの吟」という小冊子にまとめた。いすか(鶍)とは上下の嘴が反りすぎて左右にくいちがった、ざんねんな鳥のこと。

 病中においても毎月宮中に献上の和歌はかかさなかった。さらに当座の歌会に題を賜り、居ながらにして参加をゆるされたことに感激している。中世いらい、宮廷和歌は題詠や百首歌などで、即座に・大量に詠むことが要求された。天皇は歌にあらわれる無防備な人間性をよみとろうとしたからだ。先祖の為相が鎌倉で武士たちに教授した和歌や連歌も、そうしたしきたりに対応するためのプラクティスだった。毎日数を詠んで学習し、あらかじめ常套句や決め台詞を蓄積しておけば、いざというとき困らない。もちろん実際の感興にもとづく和歌ではないから、佳作はできてもどこか作り物めいた平均点的な歌になってしまうが、それでも努力次第でそこそこの歌は詠める、という教授法だ。

 ただ、こうした基礎・下地があってこそ、各地に和歌や連歌が根付き、宗祇や肖柏が活躍、芭蕉や一茶のような独創性もうまれてきたのだろう。正徹はみずから学んだ冷泉家の歌風を悪しざまに評しているが、それは自流を確立した上でこそ言えるのであって、貴族文化が庶民文化に寄与しなかった、などということはけしてないのだ。



エントランス附近・敷地外観
 さて、恵観の西加茂山荘は贅沢が幕府にとがめられ、一条家からの分離を余儀なくされたこともあり、はやくに荒廃していった。創建こそ桂のほうが先ではあるものの、桂が現存の建物に発展した時期と恵観山荘との前後関係は微妙といわざるをえず、ともに後年の修理や改装などもあるため、様式的には恵観山荘のほうが古い、とみられるぶぶんもあるという。

 広大な西加茂山荘は荒廃ののち、住居棟である書院も別に移されて、いまの数寄屋は前の小庭とともに「止観亭」となづけられ、過去の記念物として単独でつたわったらしい。桂でいえば前述の松琴亭が前庭とひとつのユニットになっていたように、茶道で「露地囲い」といわれる前庭だけは、建物と一体化した作品として、辛うじて保存されてきたようだ。

 とはいえ、幕末には便宜上よけいな建物が増築されるなどしたし、遷都後は放置がちにもなり、戦後に当主が戦犯として殺害されてからは全く管理されず草に埋もれた。移築を監修した建築家の堀口捨己(1895-1984)氏によれば、建物さえ根太が朽ち床が抜けるありさまだったという。鎌倉では当初、土地の関係で南向きの建物が「西向きとなった」が、それは宗和好みと伝わる前庭の飛石や蹲踞(つくばい)を可能なかぎり元の配置のまま移すための配慮だったとか。ひとまわり広い現在地には昭和の末に再度うつされ、今はほぼ南向きに直されている。


 そのさい「再現」された御幸門は、桂離宮にある家仁親王時代の御幸門をほぼ忠実に模倣したものだ。柱には皮つきのアベマキがつかわれているし、添え柱にも鎌倉彫を思わせるような、故意にちょうなの跡をのこす「なぐり加工」が丁寧にほどこされている。西加茂にあったころ、霊元院の御幸はじっさいにあったのだから、御幸専用の、特設感を演出したこうした門が実在していた可能性はなきにしもあらず。

 一条山荘は数奇屋一棟が現存するにすぎず、庭石の一部をのぞく周辺の造作はみな現代のものでしかない。移設時、「最初の土地」に収まらなかった部分がどうなったかは、いまや確かめるすべもない。西加茂の広大な敷地に田や池をめぐらした往時を完全に復元することはもはやできないし、鎌倉のせまい敷地や、あらたな外部環境との調和も課題だったろう。
 
 山荘エントランス附近の、変に料亭的な平成の造作が御幸門にはじまる古建築に調和しないのはもちろんのことだ。ただその違和感は外部に直面する金沢街道の雑踏を緩衝し、御幸門にたどり着くまでの環境を「非日常」の世界へと異化するものでもある。ここには古寺に存在するような長い参道を設けるスペースはないのだから、外部の喧噪をいったん遮断するなんらかの結界はあってしかるべきなのだ。これも新手の「二重露地」といっていいのだろう。


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