トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第342号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.342(2019年6月5日)



No.341
No.343



数奇屋と庭園― 一条山荘・6



(※宮元健次「鎌倉の庭園 鎌倉・横浜の名園をめぐる」2007所収の実測図をもとに加工)
 「市中の閑居」ということばは日甫辞書にもでている。長明の方丈はけして都から遠くはなれた場所ではなかった。都会のなかの狭い庭であっても、二畳の茶室に籠れば、そこは山奥の仙人郷にかんじられる。この閉ざされた世界を「囲い」といった。

 ただ恵観山荘はにじり口のあるような純粋な茶室ではなく、広間などをもつ多目的な数奇屋だ。玄関続きの4畳と水屋の部分は元来板張りで通路をかねており、東北角で書院(住居棟)とつながっていたようだ。杉戸は通路に置くのが通例だから、おおむね妥当な位置。現在は4.5畳のところに鎖の吊り金具があるが、おそらく後世の改変によるもので、下地窓を煙出しの風炉先窓とすれば、直下に茶をたてるための風炉(*七輪のような道具)を置き、または造り付けの炉が切られていたと思われる。囲いの間では恵観みずからが茶をたのしみ、宗和好みの二階棚の間では、師匠の宗和が「亭主」となって恵観や客をもてなした、と想像しておく。ふたりの没後には茶を好むものがないので、先の四畳半を点茶所として広間(6畳)まで運ばせたのかも。 



四畳半からみた長炉と袋棚
 囲いの間には特に「上段の間」というような段差はなく、格式によらないプライベート空間といった感じがする。狭く天井が低いのは茶道のしきたりのみならず、暖房効果を強く意識したものなのだろう。ここでは他に、料理を温めるための長炉がおかれた配膳室も存在する。この炉の上には一時的に食器などをあたためておく袋棚が両側の部屋にあるのだが、その透き間を煙出しがとおって、暖気が薄い網代天井に抜ける。炉では常に湯を焚いて建物全体をあたためたらしい。

 桃山時代の茶会の献立をみると、鶴の塩肉や雁、椎茸・たけのこなどの汁物、鮒の焼物、あわびなどの柔らか煮(脹煎=ふくらいり)、柚子みそや香の物、菓子はきんとんや生姜糖、かき餅の類だった。「滅多不思議・奇妙の料理」がだされることもあったという。

 屋根は杮葺き(板葺き)の上にもう一層透き間を空け、角度を変えて茅葺き屋根を乗せる。これも飾りというよりは断熱をはかったもので、夏涼しく冬暖かくするくふう。京都の冬は厳しく、また扇状地のため北上がりの地形で、一条あたりはかなりの坂。駅で雪がちらつくころには金閣・銀閣あたりはすでに白くなっているとか。西加茂はさらに奥にあたる。また、やみくもに瓦葺きを高級視するひともいるが、そうではない。清少納言がいうように、瓦葺きでは夏、耐え難く暑いのだという。家造りで寒いのはなんとかなるが、暑いのだけはどうにもならない、と兼好法師も訴えている。八条宮が桂を愛したのは納涼のためで、夏の風物詩・鵜飼や名物の瓜を堪能するためだった。



下地窓(囲いの間・二階棚の間)
 下地窓は茶道で重んじられた窓のかたちで、竹などを故意に素朴に編んで、縁を壁土に塗り籠めたもの。「二階棚の間」では内側に明かり障子が重ねられているので、写真(下段)は玄関続きの縁の間から窓の外側をみたところ。「囲いの間」では、外に簾をかけて減光した明かり障子の反対側、裏の縁座敷に向けて高い位置に開けられている(写真上段)。奥の畳一枚分、天井をさらに低くしてあるのが手前座で、その前の畳の中央よりの位置に、炉が復元してあるという(畳の下)。鎖の間の異称もあるから、かつては天井に釣り金具があったのかも。

 数寄屋はあくまで多目的な建物で、おそらく酒宴や連歌などといった「その他の遊び」にも用いたものなので、独立した茶室ではない。二つの小間ににじり口はなく、隣の六畳または三畳に襖を開け放せば広間となる構造。外に飛び石や蹲踞(つくばい)・腰掛などがあっても、露地はふつう茶室と寄合・待合とを隔離するための通路だから、ここでは充分に用をなさない。つまりこうした間取りは、茶事以外の多人数での集まりをつよく意識したものなのだ。むしろ近世に「侘び茶」が確立される以前の「大寄せ」「書院台子の茶」に連なる、古風な茶屋に近いのだろう。

 いくつかの古図によれば、このほか雪隠・厠も附属し、書院に連結する廊下の部分には湯殿(敷瓦の間)なども、かつては設けられていたらしい。台所などの附属建物や、玄関・水屋まわりなどの一部しつらえは、時代ごとに変遷があったようだ。水屋は茶事の支度をするところで、茶器を洗ったりするための竹簀子の流し台などが、すこし張り出して設けてある。昔は竹の縁で、筧樋などで山水を通わせていたという。


 金森宗和は茶室や飾り棚、露地まわりのしきたりや理想的な造り様などを詳しく伝えのこしていて、それは「金森茶道故実」ないし「枝折抄」(国会図書館DC)の名で検索すれば、Web上でも閲覧できる。記録によると、恵観本人も建物の監修にはこだわりをもった人物だったらしいので、この数奇屋についても、ふたりが綿密に相談しながらつくったと推測されている。

 恵観の前妻は、信長の末弟でこれまた大茶人・織田有楽斎(1547-1621)の娘であった。有楽は甥の信雄とともに伊勢で本能寺の難を遁れ、利休の弟子となって名を揚げ、東京有楽町や数寄屋橋の地名の由来にもなった。有楽も多くの茶室を設計し、その経験をもとに「・・・数寄屋は六畳、または四畳半よき比(ころ)なり。囲ひは三畳半をよき比とするなり。二畳半・一畳半などは客を苦しめるに似たり」(織有録)として利休好みに固執する風潮に疑問を呈し、狭すぎる茶室の流行を批判した。この遺訓は恵観の設計にも、たぶん影響を与えたものと思われる。

 なお、金森宗和好みの古い茶室は金閣寺などにも残るが、近辺では上野の国立博物館が明治に奈良興福寺の廃院から購入した「六窓庵」がある。こちらはにじり口のある純粋な茶室で、露地をはじめ待合・寄付等の附属施設も「復元」しており、近世を通じて完成された、模範的な茶室まわりのしつらえを知るうえで、参考になると思う。ただし露地の石と茶室本体以外は明治のものだ。また有楽の茶室「如庵」は京都建仁寺の廃院から三井家をへて、現在は愛知県のホテルが所有している。首都圏では三渓園の九窓亭が古く、これも有楽好みであるとされてきた。・・・



毎日グラフ別冊「桂離宮」1982より
 さて、もともと恵観山荘の数奇屋が建てられていたのは、西加茂に展開した広大な園地の一角だった。山荘は大文字送り火の「船形」が灯る舟山山麓一帯を占めていて、庭として整備された区画だけをとっても、現在の小庭とは比較にならない規模であったろう。桂離宮といえばこんにち書院建築ばかりが注目を集めがちだが、往時のひとびとにとっては、庭の池亭のほうが重要だった。池のめぐりには多くの小亭があり、これを徒歩や舟で回遊し、四季折々の庭のビュー‐ポイントをあれこれ探訪することが第一の楽しみになっていた。ときには近隣の野山にくり出したり、川遊びを楽しんだりもした。

 桃山時代には山里とよばれる庭園様式が好まれ、借景や実際の田圃をとりいれるなど、より素朴で現実的な、作意を感じさせない自然の風景に親和感をつよめた。秀吉も伏見や大坂の山里丸には利休製作の二畳・三畳の茶亭をおいて「わび・さび」の風致をこらしていたという。黄金の茶室やド派手な金碧画、豪壮な天守閣だけがこの時代の趣味であったわけではないらしい。

 後水尾院や霊元院は毎年のように郊外の離宮に御幸をかさね、輿から降りて野を歩き、山にのぼってキノコ採りを楽しみとした。上皇や大名といった地位のある者は、御忍びとはといっても人家のある場所をあからさまに徒歩でめぐるわけにはいかなかったから、せいぜい実際の山里か、回遊式庭園などが、かれらの寛ろげる唯一自由な空間だった。広い庭が好まれたのはとうぜんだろうし、広ければ設計も大味になりがち。諸事情を踏まえたうえで、それが仙境というよりは現実の鄙びた山村の風景に似てきた、というのもあるいみ興味深い。


 堀口捨己「一条恵観の山荘と茶室」(「茶室研究」1969)に、醍醐家に伝わった古図がいくつか転載されている。堀口氏の史料紹介は五月雨式なのでいまいちはっきりしないが、右にあげたのは子孫の醍醐冬香(1751-1772)が後年、すでに廃墟となった旧西加茂山荘の全貌を考証をしたさいの略図とおもわれる図版(同書p546)を、見やすく加工したもの。これに相応する地形はレポ326図6の空中写真を参照されたい。

 初代冬基のひ孫・冬香の時代にはほとんど山道をのこすのみとなり、本来数奇屋のあった位置さえあいまいになっていたようだ。それでも冬香は、数奇屋建物の変遷をはじめ48の名所を考察し、各種門や舟付き場・多くの滝・加茂の競馬を遠望する桟敷、「仮御座所」跡、蹴鞠場・春日社跡・桜の馬場・茶園・花園・番小屋・・・等の記述を「温古録」にまとめた。

 霊元院が立ち寄った霊源寺は修学院離宮でいう林丘寺にあたる。弁当をたべた場所とみられる「仮御座所」は桂でいうところの笑意軒にあたり、「桟敷」は鵜飼をみるため桂川に望んで建っていた竹林亭(現存せず)に相当するようだ。また桂の賞花堂にあたる「御山の茶屋」というのもあったらしい。現存の「数寄屋」は桂でいえば、さしずめ書院に附属する月波楼と、茶事を行う松琴亭とを兼ねた建物なのだろう。ただ堀口氏の時代には、もうほとんどの場所を特定できなかったという。いまはさらに宅地化が進み、苑池の遺構はうかがうすべもなくなった。たぶん発掘調査もなされていないのではないか。



上は80年代の様子(地理院空中写真から)
 鎌倉に移されて残ったのは、ごく一部であるとはいえ、奇跡のようなものだった。現在地においても、火事さわぎなんかがあり、家元の自宅が半焼。さいわい数奇屋は無事だったけれども、仮に家元が「秘蔵」し「私物化」したまま灰にでもなったら、山荘の歴史は誰知ることもなく、完全に消え去っていただろう。

 過去の名園のいくつかは、すでに江戸時代から観光名所としてひろく庶民に公開されていた。多くの人に知られ、写真に撮られ、記憶に残るものでなければ、文化財に何ほどの価値があるだろうか。いまどき「保存上の理由」などと称して文化財を囲い込み、秘仏化していばっている司書や学芸員は少なくない。高松塚の壁画なんかは少数の学者たちに独占されたまま、あやうく消されるところだった。先日もある学者がありもしない「中世ヨーロッパの古文書」をでっち上げて不正に論文を捏造し、追放になったばかり。公開は文化財の真実性を証明し、ひいては持ち主の名誉のためにもなるのだ。
 
 広瀬橋にあったころは土地も狭く、非公開でほとんど注目されることもなかった。下段写真のちょっと先、滑川をわたった左側で、現在は駐車場になっている。果樹なんかが実る、昭和感に満ちたそのあたりのレトロな住宅地も、プチ豪邸が過密にたちならぶ、ごくありふれた殺風景な街並みへと、次第に変りつつあるようだ。


No.341
No.343