トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第343号 


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もちださんの鎌倉リポート No.343(2019年6月12日)



No.342



茶道の歴史〜「喫茶養生記」以後



「新茶三袋、擂茶(るいざ)に入れ賜ひ了ぬ」
 金沢文庫文書といわれるのは、鎌倉時代に書写した希少な経論など、「称名寺聖教」とよぶ重要文書のウラ面にのこった、古い手紙や反古などのこと。当時は、手紙などの上質の紙は漉き返さず裏返して再利用するのが一般的だったし、集めて経巻にでもすれば、手紙の主の供養にもなったのだ。そこに金沢貞顕が書いた手紙の類がけっこう残っていて、生前、お茶を贈答した際の礼状がかなりある。

 この数からも上流階級にとって、茶はすでに日常的な飲み物であったことがわかる。「御茶器九十具、慥に以て返し進らしめ・・・」など、大掛かりな茶会をうかがわせる記述も。注目すべきは「栂尾」という産地ブランド(「本茶」とされ、他は「非茶」とさえいわれた)がすでにあったこと、「葉茶磨らせ」云々とあって、いちいち茶壷(擂茶)から葉茶をとりだして抹茶に挽かせ、挽き立てを飲んだ当時の上流階級のこだわりがうかがえる。



「喫茶養生記」(板本より)
 右、栄西の「喫茶養生記」では碾茶のつくり方・淹れ方を説明するものの、抹茶に挽くことまではみえていない(レポ16参照)。ただ日本では古くから薬効が云々されていたため、薬研で細かく砕いたり茶磨(碾磑、手臼)で粉砕して、余さず飲んではいたのだろう。採れたての葉をすばやく乾燥させるのは碾茶の製法にちかいが、そこから軸などを選り分け、鮮やかな翠色の抹茶に仕上げるには、さらに繊細な作業が必要になり、また茶筅でしっかり泡立てるひつようがある。

 唐土では青磁釉の陶器で飲んだため、黄色い煎茶でも底の色が透過して青味がかってみえた。日本では淹し茶ではなく濁った抹茶なのだから、濃い茶の緑は天目とよばれる漆黒の茶碗にこそ映えたのだし、より色味の鮮やかさが問題とされたのだろう。

 茶のふるさととされる福建地方は、本来チベット‐ビルマ系の「少数部族」の土地。大理国など、朝鮮王朝に似た「半独立国」が栄えていた。インドの紅茶はイギリス植民地時代に清から良質の茶葉を移植したというが、もともとアッサムやシッキムにはチベット系の民族が多く、福建とはいくらか共通する気候・文化圏でもあったようだ。



近世初期当時の姿に復元された古民家(玉縄資料館・旧石井家。重要文化財)
 唐土では、遠方の部族から安い茶葉を手に入れるうえで、保存上の関係から茶葉はあらかじめ発酵させ紅茶やウーロン茶のようなものになり、団茶といって煉瓦のような塊として流通したりした。日本の抹茶はすぐに変質して線香の灰のようになってしまうため、栂尾や宇治など都近くで摘んで手早く処理しなければならず、保管がむずかしい。抹茶の宿命として、人件費だけでもすでに高級品となってしまう。

 また金沢文庫文書には、茶筅という言葉がはじめて現われる。これは抹茶をかき回す竹製の道具で、破損しやすく後世にのこらない消耗品でもあるが、茶筅師はいわゆる非人職人に数えられてきた。非人職人といえば、元来は官奴で排他的な優遇をうけてきたゆえに常民から嫌われた集団。差別はぎゃくに、茶筅師が上代から特別な技術者として存在しつづけてきたことを示唆する。茶筅類で泡立てる飲み物としては、沖縄のブクブクーをはじめとして、チベット・朝鮮などアジア各地の少数部族の、バターや米・香料・薬草・ナッツ・蜂蜜などを配合した伝統飲料も存在する。また京都には、薬湯類の名残で香煎を売る店もまだあるようだ。

 また農民が庭の垣根にうえた自家製の茶を、自己流に煎じてかき混ぜ、のむこともあった。伝説の人・宇治の通円は道行く人に茶を煮てふるまったといい、また各地で「一服一銭」という莚敷きの商売もはやったという。やがて江戸期には急須による淹し茶が普及、団子を売るような峠の茶屋も発展し、「うっかり八兵衛」をよろこばせたりした。



村井康彦「千利休―その生涯と茶の湯の意味」1971より
 上流階級の飲み方については不明な点も多い。古式茶礼の代表的なものに、禅宗寺院につたわる「四つ頭(がしら)茶会」がある。鎌倉でも建長・円覚寺で行っている。会所には茶をそなえるため開祖の画幅に三つ具足(香炉・立花・燈明)をかざり、各々相伴衆を引き連れた四人の正客ら32人の会衆(僧)が着座。一般人もその周囲に参加出来るが、点心(料理)などが付くとはいえ安くはない。素人はYoutubeで。

 まず茶菓、ついで抹茶粉をいれた天目茶碗をくばり、四人の給僧が立ったままお湯を注いでかき混ぜて回る。会所の禅堂はもともと唐土では土間(磚敷き)なので、とうぜん膝をつくことはないのだ。略式ならばすでに点てた茶を点茶所から運ぶが、それならふつうの甘味所や、「風入れ」の際のお休み所で僧が接待してくれるのとおなじだ。

 いわゆる茶道(侘び茶)のなりたちにはいくつかのミッシング‐リンクが存在する。それゆえ奇想天外な仮説も多く、「お手前はキリスト教の聖体拝受」「茶室は朝鮮の狭小竪穴住居(オンドル)」などと、まことしやかに語られてきた。それらにも多少の理がなくもないとはいえ、主要な影響ではない。たしかに茶人にはキリシタン大名も多く、利休らが活躍した堺は当時有数の貿易港だった。だが侘び茶は基督教伝来いぜんにすでにはじまっていたのだし、「利休好みの小間囲い」が利休没後の「高麗攻めに由来」する道理はないのだから。



堺湊と利休宅跡(大阪府)
 室町の歌人・正徹の歌論「清厳茶話」に、当時の茶に触れた部分がある。「茶数寄」は高価な唐物道具を惜しげもなく取り揃えた人で、「茶飲み」は茶の味だけはよくわかる人、「茶喰らひ」は味もわからず、ご馳走目当てに茶会にだけは出たがる人。・・・中世の茶の最大の行事は「闘茶」といって、豪華な舶来の茶道具や掛軸・立花などの飾り物を競い、茶もまた栂尾をはじめ百服もの味を飲み較べた。平安の歌合せで短冊を飾る金銀の洲浜などを競ったのと、方向性は似ている。

 バサラ大名の佐々木道誉は高価な賭け物付きの派手な闘茶をこのんだ。のみならずライバルの宴会を潰すため、当日さらに豪華をつくしたイベントをぶつけて正客の将軍らを横取り。相手の面目を丸つぶれにし、ついに追い落としに成功する。・・・一方、侘び茶の祖とされる村田珠光は、同朋衆・能阿弥の推薦で足利義政にも参じた人。「藁屋に名馬を繋いだ風情」がよいとし、東山文化のもつ「奇麗さび」の方向をさらに推し進めたといわれる。

 珠光の弟子・武野紹鷗は、流浪の連歌師・心敬の「冷え寂び」「枯れ」に心酔し、茶の真髄もそのようでなければならない、と常に語っていたという(「山上宗二記」)。その紹鷗の弟子がいよいよ利休にあたるのだが、死に直面した戦国の武士たちは、豪奢な生活にあこがれる反面、心の片すみに隠者の自由な暮らしをつねにおいていた。いますぐ風雅の世界に逃げ込むか、それともこのまま刃の上を歩み、やがて無残な最期を迎えるか。紹鷗の四畳半は、戦乱から逃げた義政の書院(銀閣寺同仁斎)を意識したものかもしれず、信長が集めた往時の茶器(東山名物)は本能寺の変で多くが焼失。利休の茶が変ったのは、その年からだという。



NHK取材班「歴史誕生・3」角川書店1990より
 「方丈記」に語られる隠者たちの庵は、解体し荷車で運べるような簡素なものだった。「一遍聖絵」などにみえる庶民の家も軽い網代を多用したもので、たぶん軟らかな壁土をはさみこんで素早く組み上げ、また解体しやすく造られていたのだろう。ぼろっちい建物にはそれなりの茶碗が似合うが、珠光はむしろ「名馬を繋げ」といっている。かれらが見い出そうとしたのは、一見ありふれた茶器のなかにも、天目なら耀変天目のような、二つとない一点ものの「銘器」だった。

 それは偶然の産物で、常人にはけして成し得ず再現も不可能のものだったから、当の唐土でも一切伝わらず、一片の出土もなく、かつて存在したという伝説すらない。利休があらたにみいだした高麗茶碗(ゆがミ高麗)も、ありふれた上手物ではなかった。一見李朝の汚らしい飯鉢の粗雑な失敗作にすぎないのに、偶然がたぐい稀なゆがみや色味、ケロイド状のふしぎな肌合いをかもしだした。これらは虐げられた未熟な職人が、飢餓と貧困に日々呻吟しつつ、見よう見まねでつくった粉青沙器の、釉薬が溶けて流れて器形もゆがみ、意図せずうまれた突然変異のようなものだった。

 ほんとうの聖人や仙人は一見まずしい隠者のなかに隠れている、のだとすれば、こうした一点物の銘器はまさしく隠れた「名馬」であり「聖人」であるというべきなのだろう。特別に招かれた客人もまた然りとするならば、客人はひとりふたりであるに如かず、茶室もまた極小の、内密に閉ざされた構造でなくてはならなかった。山上宗二は「二畳敷の座、これは貴人か、または一物も無き侘び数寄か。このほかは無用」と断言している。


 あたりを囲んだ茶庭は、閉鎖された茶室からは一切みえない。「二重露地」「三重露地」と幾重にも囲むことにより、「市中の閑居」は町の喧噪から遮断され、山奥の仙郷にあるのと実質なにも変わらないようにみえる。

 茶人も客人も、そのなかにおいては極力「仙界の人」であろうとするだろう。しかし密室の狭い空間においてはそうした虚飾はすべてひきはがされ、心の奥底が見透かされてしまう。それゆえ茶事は人格診断のツールと化し、化かし化かされ、他人の内面を土足で踏みにじる、冷酷な政治の一環としてりようされた。利休が狂気のような茶に邁進し、やがて秀吉に殺されたのも、また秀吉がそのまま平然と利休式の茶をつづけたのも、とうぜんの帰結のように思われる。

 本来娯楽であった喫茶が、堅苦しい行儀見習いの「お稽古事」になってしまったのは、あるいみ不幸な現実というべきなのだろう。内面をえぐるきびしい対峙をせまられる、そんな利休の茶をつづけるかぎり、茶頭はどこまでも聖人でなくてはならず、いずれ社会から抹殺される。さもなくば儒教式人格形成を旨としたなまぬるい「お稽古事」として、形ばかりの模倣にとどまるほかない。もちろんそれが利休の真意ではなかったのだろうが、自意識の芸術のなれの果てとはきっと、そんなものなのだ。


No.342