トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第347号 


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もちださんの鎌倉リポート No.347(2019年8月25日)



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野毛の山から


 「野毛の山からノーエ」で知られる野毛山節。野毛山は東海道から枝道「横浜道」をとおって開港地にむかう切り通しがあったところで、歌は幕末期、その丘の上から外国人居留地(関内)をながめた俗謡がルーツとされる。

 歌は洋式軍事教練をうけた農兵隊とともに全国にひろまったという。異人が公然と鉄砲をもって横行していることや「ラシャメン」(日本人の妾)をかこっていることなどがうたわれ、その反感をあおりつつ軍事教練のモチベーションを高めたのだろう。英公使館襲撃(東禅寺事件)1861・生麦事件1862の後、現在の「港のみえる丘公園」附近には英仏の軍隊が、しばらく駐屯していた。トワンテ(イギリス)山・フランス山の俗称がつたわる。「ノーエ」はNoYesがなまったものだとか。



鎌倉事件の現場ふきん(古写真による)
 生麦事件で殺されたのはイギリス人で、フランス人の殺害は井戸ヶ谷事件1863。つづく鎌倉事件1864ではふたたびイギリス人が殺されたが、幕府は外国政府を満足させるため、ここではじめて犯人の公開処刑がおこなわれ、居留地入口ちかくに首が晒された。ふたりの被害者は、元町の寺の山手に設置されいまものこる外国人墓地に葬られている。

 幕府は同時期、朝廷の意向をうけいれて鎖国への回帰と攘夷をのぞんだが、薩英戦争および馬関戦争で4か国艦隊に敗れるなどし、開国の継続は不可避と悟る。それは全て幕府の責任であるとして、そのまま薩長が同盟、尊王倒幕運動へともつれこんでいった。・・・

 現在の野毛山附近からはもはや関内あたりはみえない。江戸期に東海道一の絶景とされた神奈川の龍燈松があった附近からも、浮世絵にえがかれた台町からも、海面を臨むことはできない。埋め立てで海が遠くなったため、というよりはむしろ丘よりも高い建物が増えたせいだ。景色もまた、オフィスやマンションとともに売られてしまったのだ。野毛山節はやがて居留地ではなく、全国津々浦々の花街を覗く卑俗な替え歌になったり、風刺歌になるなどして、ラジオやレコードの音楽が普及する大正時代末まで、謡い継がれたという。



野毛山不動尊(成田山横浜別院延命院)
 野毛の切り通し自体も今は殺風景な車道になっているので、時間があるなら戸部から御所五郎丸の墓(鎌倉期の凝灰岩式五輪塔)をへて、外人向け遊郭にまつわる岩亀稲荷・掃部山・伊勢山大神宮・野毛山成田不動なんかを通る脇道の散歩がおすすめ。桜の時期は花見どころも多く、とりわけ掃部山は攘夷派に殺害された井伊直弼の像もあるから、開国期の空気に思いをはせることができる。

 直弼像の横を下りるとすぐ紅葉山の横浜能楽堂で、能衣装の展示なんかもみられるし、向かいの県立図書館・音楽堂・青少年センター(もと神奈川奉行所跡)はコルビュジェの弟子・前川國男設計の文化施設群。伊勢山神宮へは伊勢山ヒルズという結婚式場みたいなのの脇を裏からはいり、正面鳥居を出ればすぐ、切り通しの峠の上。道なりに野毛山不動の境内を経由し、坂の中腹に下れば市立中央図書館や野毛山動物園もある。旧ルートは図書館のところを左折して野毛坂を下りきった先から大岡川に出る。大岡川の桜並木は京浜急行からもみえるので利用者にはおなじみだ。

 横浜遊郭ははじめ、都橋を渡った居留地入口あたり(現・関内駅附近)につくられ、明治のはじめ埋め立てが成ったばかりの高島町(横浜駅〜岩亀稲荷附近)に移転。のちそこも追われ、真金町(横浜橋商店街附近)に移される。落語の故・歌丸師匠が幼少期、遊郭町でそだったといっていたのは、これを指している。そこも震災や空襲で衰退、戦後は進駐軍の慰安所となり、恥をおそれたGHQの指示で名目上は解体してゆくのだが、米軍向けのスナックやカフェーとして散開し、慰安所は各所に存続しつづけた。



顕著なコルビュジェ風ピロティ(床柱)建築・県立音楽堂
 文豪・永井荷風は戦後、焼け跡の東京でヒュースケンの墓がどうなってしまったかをまず心配した(「墓畔の梅」)。オランダ生まれのヒュースケン(1832-1861)は、開国期の米公使館オランダ語通訳として来日。ニューヨークは江戸前期まで新アムステルダムとよばれていたこともあり、ニッカーボッカー(Knickerbocker)とよばれる貧しいオランダ系移民も多かった。いまや外交官となり、日本では人力車夫や妾を囲うまでになった。そんな夢のような生活を謳歌していたのだったが、ある日とつぜん攘夷の武士に斬殺される。

 荷風はオールコックの「大君の都」を読んで、墓の場所を知ったらしい。じっさい昭和12年、南麻布にあるヒュースケンの墓に詣でたことを「断腸亭日乗」(荷風日記)に記している。六本木の偏奇館からはかなり離れているが、すでに市電もかよっていた。

 荷風はピエール‐ロティ(Pierre Loti 1850−1923)など、幕末明治の日本にやってきた外国作家を愛していた。その作品、というより当時の外国人がみた「古き良き日本(の裏面史)」を愛していた、というべきかもしれない。



岩亀稲荷・掃部山公園
 ロティの描く「古き良き日本」とは、ようするに「ゲイシャ」「フジヤマ」にすぎず、常人がみれば女性蔑視とか破廉恥なアジア人差別(「オリエンタリズム」)とかいう【人道的反感】が先に立つ。ところが荷風からみれば、それはあくまで「埋もれた過去」、ないし耽美派作家としてみずからの審美眼に透析され純化された「古き良き日本」なのであり、維新や震災によって失われ消し去られたものたちへの、つよい愛着なのだった。

 逆説的にいうならばピンカートンが来なければ蝶々夫人の貞節は、この世に存在しなかった。ユダが裏切らずペテロが否認せずキリストが死ななければ、贖罪が成就することもなかった。猥雑な過去、醜悪な封建時代の遺物として否定された遊郭のようなものもまた、ほんとうに消え去ってみければその文化史的な意味を、けして自覚されることもなかった。

 「日乗」にはヒュースケンに詣でたのと同じ年、三ノ輪の投げ込み寺に遊女の墓をたずねた記述も。荷風が愛したのは昭和に生きた現実の人間ではなくて、あくまで失われた過去への愛惜であり、滅び去ったかよわい者たちの幻や、その墓石なのだった。そんな荷風にとって、戦争とは何だったのだろう。あまりにも多くの人命がうしなわれた現実をまのあたりにしたまま、なおかつそこに奇跡のような美を唱えつづけることは、さすがにもう、できなくなってしまったのかもしれない。



鎌倉事件のおきた下馬交差点附近
 江戸期の排外感情は吉田松陰ら主に知識人・儒学者にとどまり、下田にはアメリカ人と餅つきなどで楽しげに交流する庶民の絵巻ものこっている。その点、裸の土人が憎悪をむき出しにして奇声をあげ岸から石を投げてきたり、役人がイギリス船内に潜入し、金目のものを大量に万引きしていった朝鮮半島の「攘夷」とは、かなり事情がちがう(*岩波文庫「朝鮮・琉球航海記」原著1816)。

 アマゾンの未開民族が捜索するヘリコプターに見境いもなく矢を射掛けてくる仰天影像をテレビなどて見かけることがある。しかしそのような野蛮行為の結末は、文明社会からの孤立をまねくだけだ。下田の民衆には、それが判っていた。

 日本における攘夷思想の広がりは、おそらく教育者やマスメディアによる世論誘導・言論支配の影響が大きい。攘夷思想の背景に、欧米列強(白人国家)による帝国主義戦争・植民地分割への警戒があったとすれば、いわゆる「大東亜戦争」こそ攘夷思想の頂点とみなすべきものだ。もちろん戦後社会党の反米ドクトリンや、学生運動・日本赤軍などの反米闘争もその系譜に属するが、国民全体が自らの破滅を賭してまで酔いしれたかといえば、そのかぎりではない。敗戦によって覚醒したぶぶんも大きかったろう。



根岸のゲットー「跡地」
 大衆にとって、「正義」や「大義名分」はどんなものでもいいのだ。ひとびとの夢が覚めるまでは。お犬さまに熱狂した徳川綱吉の治世にも、子種のない綱吉による「動物愛護」のキャンペーンに便乗した人々が悪乗りし、むしろ自分の力を誇るかのように人権蹂躙のいやがらせを発明、次々とエスカレートさせていったのだと思われる。「民主政治」や「革命幻想」は、そんな大衆の暴走を超克するものではない。

 たとえば原発反対運動にしても、カルト宗教の自己宣伝や、できもしないことを約束する「へんな政党」の政権転覆運動にしかならないのだとすれば、意味がない。旧来の火力だとCO2がでるし国連による湾岸戦争に協力させられるし、化石燃料が枯渇して高騰すれば貧乏な国があまったウランに着目し核開発の魅力にとりつかれてしまう。風力でも水力でも太陽光でも、一定の環境破壊はまぬかれない。節電に励んだとして、廃炉ののちの廃棄物の問題もある。賛否を唱えれば「即解決」、だれかを暗殺すれば「即英雄」、というわけにはいかないのだ。

 「露をだに厭ふ倭のをみなえし 降るあめりかに袖は濡らさじ」として知られるラシャメン批判についても、ふるくは長崎奉行がシナ人のための慰安所として、円山遊郭を置いた例がある。こうした慰安施設は外国人の性犯罪をふせぐための次善の策、とされた。いまさら民族の貞節を強調したところで意味はなく、むしろ問題はべつのところにある。みずからの金儲けのために他人を強要しながら、あろうことかその被害者を愚弄し、軽蔑してはばからない。そんな異国への「卑しい接待」や「おもてなし」は、ほかにも、いくつもあるだろう。


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