トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第348号 


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もちださんの鎌倉リポート No.348(2019年9月1日)



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城と板碑と・1


 県内でも有数の城郭遺構である横浜市都筑区の茅ヶ崎城趾公園。横浜市営地下鉄「センター南駅」の、にぎやかな南口広場にむかうコンコースの窓からみえるのは東に城山、西に北部病院のビルなので、その場所は一目瞭然。適当に歩いても、たぶん辿りつく。

 茅ヶ崎城はふるく大田道灌関係の城であったと推定され、そのご小田原北条氏の支城となって、桃山時代には廃城になったらしい。公園となった主体部のほかにもいくつか平場や切岸が散在し、都市部ではかなり保存状態のいい中世城郭として知られている。・・・ただ草刈などが追いつかず、ざんねんながら公園内は以前(レポ64参照)とくらべ、だいぶジャングル化がすすんでいるようだ(下)。



2011年と2019年の東郭土橋部分
 公園入り口は北側、早渕川に臨む「北郭」にあたっているが、城代の住む根小屋は南側にあったとされる。「城跡公園」を示す看板の矢印の逆をたどると、南斜面には数軒の地主農家のほか、すでに小奇麗な住宅が建ち並び、その裏手にはコンクリの擁壁もできていて、今はこちらがわから城跡へのぼる道はないようだ。

 向かいには正覚寺という花の寺があり、季節には桜・睡蓮・菖蒲田などが見どころだが、旧家の墓地には中世の「板碑」が幾つもすえてある(下)。碑面はみな風化し明瞭ではないが、関東型板碑の特徴的な素材である秩父青石(緑泥片岩)は中世の板碑以外にはあまり用いない。つまり砕片であっても、ほぼ確実に中世遺物と推測できる。城跡の説明板にはたしか、根小屋の東寄りの山腰からの出土、とされていた。同所をたずねてみると、はたして墓所と同名の旧家がある。「新編武蔵国風土記稿」にいう、岸清左衛門のご子孫にあたるらしく、旧家(主百姓)は近世の兵農分離以前にはほぼ中世武士だったのだから、板碑があって不自然はないのだ。

 同書によれば、戦国小田原時代に茅ヶ崎・池辺村を治めた小机衆のひとり・座間氏との関係をしめす古文書があったようだが、岸氏が座間氏の一族なのかその重臣なのかは、当時すでにわからなくなっていた。それ以前にさかのぼる板碑の主ともなんらかの関係が推測されるが、伝えはないらしい。


 正覚寺はその岸家の先祖がひらいたともいうが、住職の世代墓をみても実質的な創建は江戸期らしく、もとは持仏堂で、板碑出土地のあたりはいわゆる「屋敷墓」となっていたのかもしれない。説明板によれば根小屋西寄り、別の旧家ちかくの山腰からも古い骨蔵器がでているという。城の主郭のあたりは入会地を経て畑になっていたといい、屋敷裏の斜面には腰曲輪に竹薮、宅地南がわの低地には、いまもすこしばかりの畑地がのこる。

 茅ヶ崎城は鎌倉初期、多田行綱の城と伝えるが、遺構が確認されるのはほぼ15世紀になってから。太田道灌の父・道真が都筑郡の地頭になったとする伝えもあり、道灌が小机攻めに在陣した可能性もあるようだ。道灌が仕えた扇谷上杉関係の城跡に特有の「うずまき模様のあるかわらけ(*儀式用の皿)」も確認されている。そののち小田原北条氏が砦として増築し再利用したらしく、「小田原役帳」にも前述・座間氏の名がみえるほか、後北条氏関係の城に特徴的な、横堀を包む二重土塁の痕跡もみられる。

 行綱築城説は城の西に切り通しをへだてて今もある、観音堂(下)・寿福寺の伝えによっている。両寺は行綱の孫の僧・智空の創建とされ、行綱の守護仏もつたえるという。観音堂は城と同一の段丘上にあるので、もともと城の一部で、古道をはさむ出丸におかれた鎮守堂だったようだ。



観音堂(現在は寿福寺と合併)
 行綱は鹿ヶ谷事件にもかかわった曲者。義経と協力し一の谷で軍功をたてたが頼朝により追放。いちじ西国落ちの義経を襲ったともいわれるが、史料からは姿をけした。多田源氏は源満仲・頼光(*坂田金時・渡辺綱らの親分)などが知られるように、頼朝の先祖・河内源氏の兄貴分にあたるかつての名門。

 同族には太田氏があり、道灌が先祖を顕彰するため行綱の位牌をここにまつったなどということも推測される。道灌の先祖について確実なことはしられておらず、直系ではないにせよ、養子契約による「家の継承」は近世までごくふつうにおこなわれていたのだし、道灌が全盛期にみずからの身分を誇張するため行綱の「嫡孫」をなのったとしても不思議ではない。父・道真が都筑郡の地頭についた云々にしても、今川大草紙など複数の軍記物にみえ、当時は本拠地いがいにも各地に少しづつ所領をもつのがふつうだから、あながちに否定はできない。

 都筑郡にはかつて律令制の官牧がおかれ、馬の産地としても知られた。かつての郡衙はとなり村・荏田におかれ、早渕川のやや上流にあたる。馬や鎌倉古道に関連する地名・伝説も散在し、さらに上流一帯(あざみ野附近)が「石川牧」に推定される。いまは中華街ちかい「石川町」に対して「元石川」という名でよばれているが、地名の由来はずっと古く、村の領域も広かった。




早渕川側から城跡。右が寿福寺
 川の対岸に「横浜市歴史博物館」がある。その上の山に復元された弥生遺跡「大塚・歳勝土遺跡」があるのだが、国土地理院HPの古写真(下)をみると、遺跡のあたりは古代の削平地を利用して近年まで山の畑や道が営まれていたことが分かる。現在そらまめ型の環濠集落の2/3はニュータウン開発のため山ごと深く削られ、コンクリの法面となっている。本来、歴史博物館の裏手にある「吾妻山公園」とは尾根つづきで、その削られた部分に平安時代の式内社(旧都筑郡・武蔵六の宮)伝説のある「茅ヶ崎杉山神社」旧社地がかつてあった(下図参照)。

 同社はいま都筑中央公園エリア内(下写真左端中央)に移転しているが、杉山神社となのる同名の神社は横浜市近辺に50社以上あり、どれが本社でどれが分社なのか、近世にはすでにわからなくなっていた。「上社(奥宮)・中社・下社(里宮)」くらいならともかく、50社は多すぎる。しかし本社論争の有力候補地(論社)3〜5か所には必ずあげられる。弥生(環濠集落)・奈良(郡衙)・平安(牧)・室町(茅ヶ崎城)と歴史を連続的にみてゆくと、そこに貫流しているのは穏やかな早渕川流域の地勢と、杉山神社の信仰なのかもしれない。

 「風土記稿」によれば天文・天正のふるい棟札があり、また宮守の家に「安房の国の神官・忌部氏が創建した」云々という古文書もあったという。また吾妻山というのはヤマトタケル信仰にもとづくのだが、これはいくつかの「杉山神社」に共通してみられるもので、ある時期山伏信仰と習合し、本地・不動明王を刻んだ懸仏(御神体の鏡)とともに後から祀られた祭神と思われる。かつてとなり村の勝田杉山神社にも不動の木像と応永の鰐口1398がまつられていたというが、その鰐口には「菅生犬蔵」「蔵王権現」と刻まれていたといい、犬蔵とは川崎の地名で、蔵王権現は明治の合祀でいまはないが、「ヤマトタケルを案内した山犬」を修験道の遠祖とする山伏の信仰が、かつて盛んだったらしい・・。




地理院空中写真(1975)より作成
 このへんは1980-90年代に大規模開発がおこなわれた。山を崩し谷戸を埋めて新たな街がつくられた。原野のかなたに大型ブルドーザーが走っていた感じだったから、古い地形の多くはごっそりと、跡形もなく更地になって、ビルの谷間に消えてしまった。茅ヶ崎城ももともとは開発予定地に入っていたという。

 北部病院の裏に「まちづくり館」があり、開発前に撮影された農村期のビデオとその後の変遷を示したパンフレットがおいてあった。港北ニュータウン内にも、多少は緑地公園が整備され、それぞれがリゾーム(芋づる)状に緑道でむすばれている。横浜市内の「市民の森」はおびただしい数にのぼり、区役所などに置いてある案内チラシだけでも相当な厚さになる。とはいえ多くは利用価値の低い無表情な林のようなものでしかない。都市部における田舎風景は早晩、姿を消してしまうだろう。

 田畑にかぎらず、首都圏においては見慣れた風景がある日予告もなく、忽然と消えてしまうことも珍しくない。太子堂(世田谷区)の和尚は法事のさい、渋谷の変貌を憤っていたけれど、あんなややこしい場所のありふれた寺にも、ときどき有吉ショーパンなどが人気街歩き番組の撮影で来る。これも時代というものなのだ。



 港北ニュータウンも、はじめのうちは痴漢が頻発するほど寂しいものだったが、各種大型ショッピング‐モールやペットエコといった人気施設が充実するにつれ、親子世代などがあつまり賑わいを増した。スタバやカルディ(コーヒー雑貨店)のレジにあたりまえに群がっている「プチおしゃれ」な人々も、きっとどこかから移り住んできたのだろう。都会的なのかくそダサいのか、賛否両論を巻き起こした人気バンド、サチモスの地元でもあるらしい。まあ音楽は好き好きだ。

 土地の持つ歴史的連続性ももちろん大事なんだろうけれど、若い世代にとっては次々に入れ替わる人気最新スポットこそが、街の活性化の鍵になる。早くに出来たパレット‐タウンの大観覧車なども、やがてお役目を一巡して消えてしまうかもしれない。永遠なんて、死にゆく者の見果てぬ夢でしかないのだ。

 鎌倉のような歴史ある街でも、新陳代謝は激しく進んでいるように思われる。「人気タウン」の波はしらぬまにやってきて、古い屋敷は分譲アパートになり、空き家は朽ちてアスファルトの駐車場に。私たちはたぶん、記憶をデジカメにとどめるくらいしかできない。やがてそれがじじいのつまらぬ浮世語りになってしまうとしても。


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