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もちださんの鎌倉リポート No.349(2019年9月8日)



No.348
No.350



城と板碑と・2



廃寺跡の造成で見つかることも多い
 一部の新興墓地をのぞいて、たいていのお寺には江戸時代から守られてきたふるい墓石がある。これはお寺の歴史と、墓をきちんと供養する住職の良心を測るバロメーターになっている。墓石はいっぱんに江戸中期、享保あたりから普及するので、それいぜんのものはごく少なく、後世の「墓直し」で捨てられたため、さらにへっているものと思われる。

 近世以前はほぼ戒名で刻まれるため、年号がのこっていても誰のものかはわからない。まれに「三郎」とか「兵衛」とかあっても、これは仮名(けみょう*通称)であって身元や身分を特定できるものではない。また石仏や庚申塔などと未分明のものもある。とりわけ「板碑」とよばれるものは中世に固有のもので、関東では薄く剥離しやすい青石(緑泥片岩)という特徴的な素材がこのまれ、鎌倉中期から戦国時代にかけて盛んにつくられた。街中に中世の遺構がほとんど現存しないなかで、一般人が中世を実感できるほぼ唯一の指標が板碑なのだ。



地理院写真より作成(原図・1944陸軍)
 横浜市緑区にある旧城寺は榎下城の跡で、鎌倉公方足利持氏の寵臣・宅間上杉憲直の「榎下城」の後身であろうことがほぼ確実といわれる。榎下村はやがて印融法印の出身地・久保村などに分かれ、近代の新興地名である三保・新治町などに変わったが、通称地名としてバス停などには残っている。

 ここものちに小田原後北条氏にとりたてられ、改装をうけた。城主は小机衆・山田右京進とつたえるが、鶴見川(恩田川)辺からの標高は茅ヶ崎城の半分もなく、戦国時代にも砦として通用したかはかなり微妙だ。ただ宅地化以前、戦前の空中写真をみると、現在寺の境内としてのこっている主体部以外にも、峰筋を切り開いた大小の平場や防衛線らしいものがいくつか映っている。城の大手にむかう古道は杉山神社の西、こんにち「ひのでやデイリー」というコンビニ前を斜めにのぼる道にあたるようだ。

 堂屋敷の上の山などからは縄文・弥生土器がかなりでているので、畑地は後世の開拓や近代の圃場整理で切り開かれたわけではなく、ふるくから人が住んで平場を形成していたようだ。念珠坂にあった地蔵堂には板碑片もあった。ただほとんど調査もされないまま、大規模宅地造成により周辺地形はかなり変形してしまい、急斜面や畑の溝、こまかな段差などはあらかた失われてしまった。いまも明瞭なのは「じょうせん谷」とよばれる本城東南の箱堀くらいか。



3本城(中央)周辺の灰色部分は台地上の畑地(同)
 周辺には、宅間上杉憲直にまつわるような、有力な板碑群はのこされていない。もちろんいくつかは点在するし、北側の谷をへだてた長光廃寺ちかい阿弥陀堂墓地には鎌倉時代のものすら確認できるが、城と密接なかかわりをもつかといわれれば躊躇せざるをえない。

 こんにちでは破壊されてしまったが、山田右京進の塚と称するものがあった。塚には塔片が散乱しており、「新編武蔵国風土記稿」の時点では「寛永四」1627の銘文があったらしく、塚が事実であれば山田は小田原陥落ののちも、しばらくこのあたりにとどまっていたのだろうか。旧城寺は江戸期の創建だが、「風土記稿」にのせる観護寺の伝承によれば、それいぜんにも「印融法印が住んだ寺」、おそらく当の観護寺の「前身」が建っていた時期もあったようだ。

 また旧城寺には謎の戒名を刻む夫婦一対の墓碑(下)があり、慶長十九年1614と刻んでいる。「風土記稿」にはこれを山田右京や家老芦垣浄泉・大膳の墓とする説をあげているが、これは以下に記すように、刻まれた慶長よりもはるか後世につくられた「佐藤小左衛門夫婦」なるものの墓碑1714らしく、城主とは何の関係もないようだ。



底部の蓮葉は日蓮宗っぽい
 「旧城寺」(苅谷定吉1979)と称する小冊子には、著者苅谷家につたわる「先祖書」の説のみが採用されており、山田右京や芦垣浄泉の名がいっさいでてこない。また著者は古文書をあまり解さなかったらしく、掲載された資料にはかなりの誤脱がみられる。

 この苅谷氏は「風土記稿」にもみえ、もとは水野氏で三河国の住人、家康に仕えたとされる。先祖苅谷定広が合戦で廃人になったため、息子を久保村の名主・佐藤三郎兵衛の婿に入れ文禄元年1592に死んだ。はじめ台村の弘松(聖)寺(曹洞宗)を菩提寺としたが、やがて改宗してややはなれた小机村にある本法寺(日蓮宗)に葬った、とある。これは奇妙な話で、弘聖寺にせよ本法寺にせよ小田原北条氏の家臣・小机衆ゆかりの寺院である。後北条滅亡1590後、家康とともにはじめて関東に来たのであれば、わずか一・二年のうちに敵方二つの寺に寺檀関係を結んだというのは不自然。むしろはやくから三河を離れ小机衆に属していた人物だったのかもしれない。

 「先祖書」では三郎兵衛の名が佐藤小左衛門になっていて、佐藤氏の出自については「永々しき儀にこれ有るに依り、ここに略さず」。みずからの苅谷家についても、定広の名前すらないばかりか、筆者「定政(苅谷喜左衛門)」の祖父は「ヂヂイ」・曽祖父「ヒイ」などと、かなりいいかげんだ。「風土記稿」の資料とされた書き上げとは、すでに多くの異同があったと言わざるをえない。


 「先祖書」の説では、久保村が御鷹場となり、隠居を願う幕臣・苅谷某が慶長八年1608、はじめてそこに「小緑(ママ・小禄か)」を賜ったという(「風土記稿」ではこの年、定広はすでに死んでいる)。そのころ城跡は名主・佐藤小左衛門のものとなっていて、その遺言により苅谷某は三会寺円海僧都(1682寂)をまねき、旧城寺を開いた(1614)という。しかし円海の年齢からみて、これもまた不自然。

 「先祖書」1727が書かれた頃には寺も荒廃し、小左衛門の墓も命日も戒名も、すべて不明になっていた。そこで筆者喜左衛門は十三年ほど前、住職と相談して適当な没年と戒名を刻み、石塔をたてた(1714)。旧城寺が真言宗なのはもともと小左衛門の佐藤一族が小山村観護寺の檀家であったからだ、という。はたして日蓮宗の苅谷家が「開基佐藤氏の縁者」だと主張し、100年前の命日をきざんでわざわざ別の寺に他家名義の石塔までたてたのは、どんな意味があったのだろうか。

 旧城寺周辺には苅谷家いがいにも土志田・岩沢・芦垣・奥津・杉崎ら数多くの旧家があり、芦垣は先にのべた山田右京の家老の子孫をとなえていたし、岩沢は印融法印の実家と主張していた。また岩本は鎌倉から来て鉄砲製造をなりわいにし、いまも鉄滓がでるので屋号を「鉄砲屋敷」「かなぐさ田」ともなのった。興味深いことに、俗名「石井久保左衛門」ときざんだ墓石1725などもある。あたかも城のある久保村全体の主のような名を堂々となのっていた人物が「先祖書」の筆者・苅谷喜左衛門の同時代に存在していたのだ。



法印秀海墓・地蔵型庚申塔
 このように、近世においてなお公然と苗字を名乗っていた主百姓は、戦国時代にはなにがしかの武士であったろう。刀を捨て、土地を選択した者が各地で旧家となったのだ。ただ武士であったころの記憶があいまいになるにつれて、プライドだけがのこり、いつまでも村のヘゲモニーを握るため、いろんな妄想で失われた過去の栄光を繕おうと競っていた。もちろん、見栄ばかりではなく、村全体の福利や各種事業に努力をかたむけた者もいた。

 幕末、佐藤一族は農村学者として名をあげ、寺小屋を開いたり医院を開業。また神奈川宿にうつり住んで歌人・弁玉らと交わり、金沢八景六浦藩で漢学を教えるななどした。ついには明治民権運動の中心・自由党の幹部にまでなった者もいたらしい。苅谷一族にも医者はおおく、いまも皮膚科の看板をあげている家がある。 

 ただ、旧城寺歴代の墓地には三世?法印秀海(1716寂)以降の墓石しかない。しかも正規の住職はすくなかったらしい。留守居僧として近在の村の曹洞宗寺院・大林寺や宝帒寺の和尚に隠居後の寮として滞在してもらったこともあったらしく、それら他宗の僧侶の名を書いた白木の位牌もつたわっている。より近く、宗派もおなじならゆかりも深いはずの観護寺が兼住しなかったのは、なにやら檀家同士の深い確執が疑われるのだが、「先祖書」では佐藤と苅谷は親しかったようにいっている。ナゾは深まるばかり。



台村の奥
 江戸前期のものとしてはいくつかの石仏がある。門前の地蔵1672には地蔵真言が二行に彫られているが、その下の「奉造立地蔵為庚申供養也」という銘文や台座の三猿から庚申塔であることがわかる。青面金剛に定型化する以前の古いタイプのものだ。これはまた別の旧家・杉崎氏がつくったという。

 戦前の航空写真のおもかげをのこすところは多くないが、台村というところはかつて小机城の在地城代をしていた笠原氏が近世に移り住んだ場所とされ、菩提寺(弘聖寺)がある。奥のほうに手付かずの谷戸がひとつだけのこっていて、誰も踏まないからか、おびただしい数のタンポポの穂がゆれていた。また新治市民の森にかこまれた鎌立の比較的広い畑のわきには、芦垣氏の屋敷墓があった。玉虫が虹色のホログラムのように飛んでいたり、ケセラン‐パサラン(薊の綿毛)が、捕まえようとするのにほんのわずかな風にのって空のかなたにのぼっていったり・・・。ただ、板碑のかけらは探すとなるとなかなかみつからない。このあたりの旧家は屋敷墓をいとなむのがふつうで、いくつか見せてもらったが、江戸前期に及ぶような古い墓石はすくない。「先祖書」をさかのぼり、その真実性を保証してくれるようなものは何もないのだ。

 けっきょくのところ、都筑の地頭大田道真にせよ榎下城主上杉憲直にせよ、今は影もかたちもない。近世に名を捨て土地を択んだ、名もなき武士の子孫だけが、いまものこっているにすぎなかった。この地域では、旗本領・天領などとして采地代官に入ったものはころころ替ったから、かれらもまた、何も爪痕をのこしてはいない。年貢をとり土地を支配した者よりも、土着し、それを実際に耕した中小の家臣のほうが、【土地への愛着】は強かったのだろう。刀なんか捨ててもいいと思えるほどに。


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