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もちださんの鎌倉リポート No.354(2019年11月15日)



No.353
No.355



建長まつり



十六羅漢。撮影可
 二日、「第二回建長まつり」に行ってきた。三門のうえから境内の地形を見たかったのと、今年の台風でビャクシンが無事だったか、確かめるためだ。三門の楼上に上がれるのは10〜15時の6回・各20名だけ。なんとか開門の8:30のちょっと前に着いた。

 隣に並んだ人は「算額」(レポ117)のマニアだという。建長寺は30年ぶり、といっていた。昔は鎌倉学園の前にぼろっちい乾物屋しかなくて生徒がカップラーメンにお湯を入れてもらって食べてたっけ。学園祭では拾い集めた空き缶ででかいゴジラを作っていた。ポイ捨てが多かったし、まだ引き抜き式だったプルトップがいっぱい散らかってて。ちなみに算額は十三次方程式まであるらしい。へえ、じんましんが出ますね。鎌倉にはあったかな・・・。



「はい、チーズ」
 そのうち「巨福山」の門が開いて拝観券を買い、とりあえず三門下へ。整理券は9:30から、と和尚。半信半疑で方丈庭園をみて、「風入れ」はパスしてすぐ戻ってみると案の定、時間前に配り始めている。莫作妄言。うしろのオバちゃんは残念、次回11時の回。一日分の整理券はたちまち完売してしまった。

 法堂左奥のテントでは名物「けんちん汁」のふるまいがあるとかで、すでに千人くらいの長い列ができている。でも5,000人分あるらしいからたぶん大丈夫。作っているのは山形芋煮会のイベントスタッフや新倉とうふなど地元業者、つまり修行僧ではなくプロの方だ。台風後のビャクシンもおおむね無事。やぐらも見てみたかったけれど、奥のハイキング‐コースはまだ倒木で全面閉鎖だって。まあ包帯がとれたばかりだったし、退院時、むちゃくちゃかわいいナースさんから念押しされた(笑)ので無理はしない。

 仏殿は江戸高輪増上寺から於江の方の御霊屋を移したもの(レポ327)。保存状態はわるいが、格天井にえがかれた桃山風の鳥の絵や、内壁が派手な金色に塗られたりしているのは、たぶんその名残り。つぎの法堂では「数珠作り」「仏像メーク」なんかのワークショップがひらかれている。「限定朱印」の奥のほうにある五重塔の模型は、かつて河村瑞賢のところにあった三重塔【華厳塔】の代りに祀られた小塔だ。「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」と漱石が詠んだのはどのあたりだろう。西来院門前にあるのが国宝の大鐘、仏殿に付いているのは江戸時代の半鐘だけれど小ぶりの鐘ほどはある。有料寺院ではいつものように賽銭箱は無視。もう千円も払ってるんだし、バチなら当れ。そのかわり被災者支援箱に、小銭をどーん(・・・大げさな)。



半端なくでかい扁額。六畳間はありそう
 さて時間が来た。三門の梯子は急だったけれど、カメラ片手になんとか登りつく。楼上には江戸時代の宝冠釈迦、十六羅漢(写真1)、ちいさな五百羅漢などが祀られている。うえで靴をぬぐと、畳表が敷かれた床はぼこぼこで、所々波うっている。欄干もちょっと危なっかしい。山門は江戸中期に万拙和尚と狸とが協力して勧進し、再建したむかしばなしがあるらしいが、解説の若僧はあまり興味がないらしく、右に見えます鎌倉学園は、あのサザン‐オールスターズの桑田圭祐さんがお通いになったところです。へえ、サザンてまだ、若者にも「ナウい」んだ・・・。

 長押の上には現在、外門と法堂にかかげる「天下禅林」「海東法窟」の額の古いものが保管されている。これは禅宗でよくつかわれる言葉です、と若僧。そうではなくて、これは鎌倉末期の渡来僧・清拙正澄が伽藍再興時、境内各所に掲げた由緒ある額の名残り。

 ざんねんながら清拙本人の墨蹟(本物なら国宝級)による当初の額は伝存せず、いまに残る楷書の文字は、江戸前期、朝鮮来貢使に随行した無名の書記「竹西」に書かせたもの。将軍家光は仏殿移築にあきたらず、李氏朝鮮王朝の江戸参賀を実現させたみずからの治世を後世にながく記憶させるため、これを外門に掲げさせた。馬や輿で通りすぎる大名などにも、漏れなく目に入るようにしたのだろう。



現在の三門の位置とビャクシンの列とは、明らかにずれている
 建長寺の伽藍はもともと宋の径山万寿寺をモデルにしたものとか。かつては四合院式に廻廊で囲まれた閉鎖空間であったことが、清拙時代の指図の写しから判明している。伽藍の中軸線もいまのように蛇行してはおらず、発掘状況はけしてよくなかったが、たしかにひとまわり大きな堂の石敷きが、仏殿を中心に今とは11時の方向にずれた形で検出された。したがって三門や写真の参道はもっと右になくてはならず、法堂はやや左、けんちん汁のテント寄りに建っていて、外見だけでなくちゃんと床を張った大陸風の二階建て楼閣建築だったという。

 方丈の裏、蘸碧池には得月楼などがたてられ、その奥には谷川があって義堂和尚が「日工集」に書いているような大きな橋(天津橋)がかかっていた。いまは境内奥に鎌倉学園のグラウンドや墓地・民家がたち、回春院の池も末は暗渠に落ちていて、もはや水がどう流れているかは定かでない。円覚寺や東漸寺のように池は門前にあるほうが、より大陸式ではあるらしい。

 門の外にみえるのは禅居院(非公開)の山。掘割とやぐらがあって、頂上のほこらからまちがって降りると禅居院の庭にでてしまい、叱られる(経験者は語る)。そこは清拙正澄の塔所で、清拙は来日後、1315年に全焼した伽藍を復興、「大鑑清規(しんぎ)」という大陸式の厳しい掟を定めるなど、鎌倉禅宗の完成に大きく寄与した。禅寺は「ヤクザ世界の仁義作法」のルーツ、とかいう人がいるけれど、けしてリンチやいじめを許しているわけではない。時間厳守とか私語はやめろとか、そういうことなのだ。いまの僧は「ながらスマホ」も多いし、けっこう自由みたい。



台風被害。・・・コンクリ擁壁での復旧はやめてね
 鐘楼の奥のほうにみえるのが西来院で、開山の蘭渓が埋まっている。ふるい卵塔(鎌倉後期)があるほか、昭堂とつながる開山堂に祀られた頂相彫刻(鎌倉時代)の真下に石郭があるらしい。ここは座禅道場に転用されているので、容易に見学できない。杉田の東漸寺なら花祭のとき、蘭渓の直弟子・桃渓和尚の、それらしい構造の開山堂を見学できる(レポ336)。西来院の裏山を嵩山とか兜率巓とかいっている。昭堂手前の岬状に切りだした尾根と、下の僧堂の屋根の一部とが、まだ青シートで覆われていた。

 蘭渓和尚を日本に誘ったのは、栄西系の禅僧ではなく俊芿系の禅律僧だった。鎌倉での俊芿系寺院といえば覚園寺や大楽寺(廃寺)。いまは真言律宗ということになっているけれど、もとは四宗兼学で、俊芿本人も禅をつたえてはいた。ただ当初は、「理解不能の達磨宗」「中国固有の民間信仰」とばかにされていた大陸禅宗を普及させるため、天台密教なり戒律なり、当時のひとびとが期待する事相教学と抱き合わせ、便乗して広めるほかなかった。

 たぶん蘭渓も、法要などでは柔軟な方針をとっていたらしい。唐土においても、官寺では皇帝のための祈祷とか雨乞い供養とかはふつうにおこなわれていたから、特異な環境ではなかったはず。憤激して去ったとされる兀庵にしても、めずらしく初老で来日したため初めから帰国の意志が固かったのだろうし、「ゴタゴタ」を繰り返す頑固者だったにせよ、北条時頼には最後まで指導した。



豆腐をちぎって、かきまぜる。直径3mの鍋の下は巨大バーナー
 禅問答は判じ物のようで、非常にむずかしい。ただ蘭渓や大休の語録などには、わかりやすく説いた法話も散見する。「夫(そ)れ善知識たるは耕夫の牛を駆り、飢人の食を奪う。恠しむべし、疑ふべし」「君見ずや、炎天の壠(おか)の上に耨耕の夫を。拶得すれば通身白汗流る。笑倒せよ、雲門の乾屎橛」。坊主なんてものは飢え人・労働者の食を奪って、ただのうのうと生きている。そんなやつは道端の糞と同じだ。

 五山文学をひもとくと、高時がまねいた清拙のころ、漢文はいたって難しくなる。竺僊は鎌倉で多くの禅籍を出版し(五山板)、詩壇のリーダーとなった。「円照寺嘉元三年板碑残片(埼玉)」には禅の名著「碧巌録」からの引用が刻まれ、各地の関連寺院をつうじ地方武士にもその思想・教養が広くゆきわたっていたことがわかる。太平記にえがかれた鎌倉武士の最期に禅宗色がふかく漂うのも、けしてフィクションとばかりはいえない。鎌倉は全国にひろがる禅学・宋学の中心だったのだ。

 鎌倉幕府、あるいは公方府の莫大な外護がもうすこし続いていたら、建長寺はすくなくとも学問の府として君臨しつづけたのかもしれない。南北朝時代にもひきつづき五山一位として重んじられはしたが、夢窓国師らの転出を経て、制度はやがて京五山・鎌倉五山へと分離し、しだいに都へと重心が移ってゆく。塔頭や、そこにまつわる伝記・語録など、おおくの典籍も失われた。・・・



おじさん、当り。ラッキー
 三門を這い降りて院家をめぐる前に、そうそう、けんちん汁。配っている可愛らしい女の子の胸には「ミス鎌倉」のたすき。もう長蛇の列はすっかりはけていたけれど、三人ともまだ笑顔で配っている。就活やなんかで大変だろうに、ごくろうさん。仏像もいいけれど、あれは何もくれない人だし、若者はわたしたちの将来の年金の貴重な担い手なんだから。この世界からブラック企業なんかなくなるよう、社会がもっといたわらなくちゃ。

 通ってる病院でも、診察待ちの世間話で鎌倉がわだいになるのは、大抵年配の方。看護実習の学生さんなんかは「鎌倉?は・・・近すぎて逆に行かないデスヨー」。若者の反応はそんなもので、さっきの若僧がいっていた「伝説の建長寺ライブ」とか、もっと若者向けのイベント企画があってもいいのかな。この日はちょうどラグビーW杯の決勝(横浜国際競技場・TV視聴率50%)とかぶってたし、にぎわっていたのが逆に不思議。奥のグラウンドでテニスの練習してた若者はそこそこ上手だった。

 テーブルが並んだフードコートには椅子がなく、お堂にもたれて食べている人も多い。けんちん汁は、家庭の味とほぼ同じ。5000人焚きのばかでかい鍋だけど、変に煮詰まることもなくできるのね。これをふつうの鍋にうつして、何列かにわけて配るのだけれど、混んでる時にあせって並ぶと具が偏っていたり、はては【おじさんがよそうブース】に当ってしまう可能性もあり、要注意。おかわり・大盛りの要求はできません。この「建長まつり」、また来年もあるらしいので、ご参考までに。


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