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もちださんの鎌倉リポート No.355(2019年11月23日)



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墓めぐり


 いぜん有名人の墓をたずねるマニア「墓マイラー」の話をなにかで読んだ。さすがに中世の人の墓はほとんど残っていないし、あるいは頼朝墓のように改変されていて、当時のままではない。忍性の五輪塔も年に一回公開されるだけだし、蘭渓や無学の塔所は立ち入り禁止になっている。

 近世のものでは、水戸黄門に学問を教えた人見卜幽軒の墓が、ほぼ原形をたもっている(レポ285)。以前横浜で奈良時代の横穴墓の発掘をみたが、密封されていれば頭蓋や大腿骨の一部などはのこるようだ。権力者が古墳を築き、よけいなお堂など建て、豪華な骨壷に分骨などして手厚く祀ったりしても、逆に火事に遭い、荒らされるなどして、かえって失われてしまうものらしい。さいきん流行りの五輪塔型墓石にしても、なんの怨みからか、こなごなに破砕されているのを、いろんな場所で見た。死ねば一切の罪が浄化される、・・・なんてうそだね、きっと。



西田家墓・鈴木大拙夫妻墓
 今日では「墓じまい」がブームとなり、葬式仏教も曲がり角を迎えている。維持費・更新費滞納者の墓を和尚がさかんに壊しているのだから、そんな信用のおけないところに誰が安心して眠るだろうか。不燃ゴミとなった無縁墓石の山はどこの寺でも見る。両国回向院では、山東京伝・京山兄弟の墓石さえも、塀の外に片付けられてあった。素人受けする「ねずみ小僧次郎吉の墓」「猫塚」「(相撲の)力塚」みたいな碑は大事に囲っているのだから、坊主の教養のほどが偲ばれる。

 さて、北鎌倉の東慶寺墓地の上の方には、西田幾太郎(1870-1945)・鈴木大拙(1870-1966)・和辻哲郎(1889-1960)といった哲学者(レポ338参照)のお墓がいくつかある。寿福寺の高浜虚子の墓(レポ250)にはいつも花が絶えないけれど、それは俳句関係者が多いからで、哲学はもともと不人気なジャンルだし、むしろ苔蒸していい感じに寂しげなほうが、霊魂(?)にとってもいいのかもしれない。

 最近になって和辻の戦後の大著「鎖国―日本の悲劇」というのを、真夜中に入院中のベッドで読んだ(隣のいびきがうるさかったから)。鎖国そのものはいっさい出てこず、前半はエンリケ航海王子をはじめとするヨーロッパ勢力の世界征服が克明にえがかれ、後半は日本のキリシタン史で、いわば鎖国前夜といったところで唐突に終る。そして日本人が大戦に負け、世界に飛躍できなかったのはエンリケにくらべ豊臣秀吉が内向的で冒険心に欠け、西洋との出会いを無駄にしていたからだと酷評し、結んでいる。


 かつて戦争をあおった和辻の、それが戦後の反省だった。敗戦の責任はあくまで豊臣秀吉、ないし日本人一般の消極性、「精神的な弱さ」にあると、結論する。たしか戦時中、和辻はアメリカが頼る物量よりも日本人は【道義的精神力で勝つ】、そう断言していたはず(レポ338)。それが日本の悲劇だなどと、突然てのひらを返すような、この欺瞞はいったい何なのか。

 和辻の思想を要約すれば、「精神力」などというふしぎな生き物が不可能を可能にし、死や絶望を超克して戦争を勝たせたり肯定したりするらしい。それがキルケゴールやニーチェのいうところの「実存」であり「超人」ということなのだろうか。さらにいえば、欧米との植民地獲得競争という概念を戦後もまったく否定していないし、その経済的・政治的得失の検証、戦死者・被災者、または落伍者・被征服者への想像力など、全く欠如したままだ。この人もまた、マスコミと同様、自身の戦争責任など、微塵も感じていなかったようにみえる。

 おもしろいのは西田にせよ和辻にせよ、主に京都で活躍した人物。じっさいの郷里や、より長く暮らした【第二の故郷】をすてて、比較的縁の薄い鎌倉を墓地に選んだのはいったい、何故だろう。イケズな京都を、愛してはいなかったのだろうか。自分を覚えている人が多いから? 西田家の墓の水輪には「寸心居士」と刻まれているが、これは西田個人の号だ。和辻が中野の家に移築した「相模あたりの古民家」も、いまは川喜多記念館にある。


 東慶寺墓地にはそのほかにも赤瀬川原平・四賀光子・堀田善衛・釈宗演・天秀尼・谷川俊太郎の父・・・等、有名どころが数多く点在する。なかには別人の墓に中村汀女の句碑(沈丁や夜を行きたりし薬取り 汀女)が建つなど、まぎらわしいものも。いちいち思いをはせるのも面倒なので、早々に切り上げ次の寺へ。浄智寺の裏山には天柱峰最勝塔といって、鎌倉末期の来日僧・竺僊梵仙の全身舎利(遺骨)を収めた墓がある(レポ49)。

 妙高の峯の頂は経行の処、 最勝の岩の前に静かに坐する時。
 喚び醒ませ蓬莢の張八伯、 笑ひて鉄笛を将(も)ち風に順ひて吹く。

 顕彰碑に刻まれたこの頌は、生前みずからの塔所となる楞伽庵(廃院)の頂相に自賛したものなので、ここでいう妙高の峯とか最勝の岩というのは、最勝塔のことであろう。経行(きんひん)とは行き詰ったときの歩き座禅のことだから、寺のすぐそばでなければならない。張八伯(張伯)とは、むげに入門を断わった禅僧の振り鐸の音を尺八で見事にまねて、後世の虚無僧に伝えたとされる唐代の伝説の仙人。鉄笛は叢に吹く風音のたとえだが、虚無僧がもつ暗殺用の武器(鉄尺八)でもあった。張伯の幻影を召喚し、その脳天一撃で破砕されるのは、はたしてだれの、なんの「迷い」なのか。・・・



墓前にはサントリー「角瓶」180mℓが。・・・
 浄智寺の奥はすでに住居が立ち並び、そこらに散在したであろう歴代の無縫塔も、いまは現墓地の片隅によせ集められている。風化がつよく文字もなかば判然とせず、近世の荒廃が偲ばれるばかりだ。天柱峰の碑・石造層塔、および副えられた顕彰碑は戦前、英大使館の通訳で歴史学者の「サア ジヨルジ サンソム」(Sir George B. Sansom、1883-1965)が発願。のちに人気時代劇の題字の揮毫でもしられた住持「朝比奈宗源」(1891-1979)らとともに、「紀元二千六百年」にたてたもの1940。実際の塔はその時点で、すでに消え失せていたようだ。

 いまや子供たちでも使うようになった「どえむ」「ドS」などという流行りことばのルーツのひとつ、サドの翻訳で知られる作家・澁澤龍彦の墓は、墓地奥に登ってまんなかに一本大木がたってる所を左。墓誌に「彦」の文字をふざけて彫ってあるのは生前ご当人のいたずららしい。たしか本名は龍雄さん。澁澤さんのお宅は寺の真向かいの明月谷にあり、くわしくは紹介できないのだが、ほのかにペールグリーン(薄緑)を調色した白い家で、一歩手前に「この先、私有地につき」の看板がたっている。

 この人の小説には青梅聖天から泉が谷にくだる、崩れてなかば廃道になった道がでてきたりと、生粋の鎌倉文士らしさが垣間見える。龍子さん(奥さま)の随筆によれば、これもいまは廃道になっている日月やぐらから衣張山まで歩いたというから、たぶん「やぐら」好きでもあったのだろう。家は円覚寺の大工が昔すんだという切り岸の上のちいさな平場で、裏山にその大工のやぐらというのもあるらしい。


 裏山つづきの円覚寺に墓(寿蔵)のある盲目の漢詩人・高野蘭亭(1704-1757)についても「どくろ杯」という短編に描いている(レポ302)。蘭亭は教恩寺から重衡ゆかりの盃をもらったほか、どこから貰ったか不明だが髑髏盃を所持したらしく、小説では大館次郎のしゃれこうべを求めてみずから深夜、極楽寺忍性墓あたりに忍びこむ。その蘭亭の墓は、いったん円覚寺に入って右、ところてんが名物で、なぜかポカリスエットだけが安い弁天茶屋に登って一息、国宝・洪鐘のわき。そのとなりには長谷部信連の子孫・長信直なる人物の逆修碑1650があるが、いかなる人か知らない。下の蔵六庵のところにも、小津安二郎の墓なんかがある。

 著名人のお墓はまだまだ多い。たとえば【下写真】、建長寺回春院下のこんなところにも、映画監督・大島渚(1932-2013)さんの墓があった。家族墓のわきに茶色い自然石の碑があって、こんな銘が彫ってある。「・・・自が燃えなければ 何処にも 光はない」。生前はお騒がせキャラで、野坂昭如と殴りあったり、代表作「戦メリ」の名場面のもじりなのかオウム事件の上祐幹部と熱く抱擁したりと、よくわかんない人だった。名前(愛称・ナギちゃん)は女の子みたいでかわいいんだけれど。この人も京都そだちで、松竹に入社し大船につとめたことも。鵠沼在住。墓は奥さんと和尚がしりあいだったとか。

 若者がサヨク運動に冷淡になったのは、それがすでに既得権益と結びついてしまったからだ。いまやグローバリズムの歯車となりはて、口をひらけば反日。そのこころは、「日本の若者は雇わない」「中国の安い労働力」。これに反対するものは問答無用、「ヘイト(人種差別)」のレッテルを貼り、モラハラの限りを尽くして排除しようとする。組合教員たちはわかっているのだろうか。考えるな、感じろ。「キャビア左翼」が説く、そんな政治勢力に言葉巧みに誘導されたところで、得になることは何もない。



回春院の石段から見たところ
 墓地めぐりで気をつけてほしいのは、一般の墓参者への配慮。お彼岸などは避けたほうがいいし、うろちょろしないよう、あらかじめ場所の下調べも大事。かつて墓苑といえば、立ち昇るヨモギの線香の煙が目に滲み鼻を突いて、近寄りがたかった。いまは香水香というのが開発されて、死者の国もだいぶ過ごしやすくなったと思う。   

 もともと香は、焼くものではなく炷(た)くもの。香道では香木や蜂蜜でまるめた練香を雲母のプレパラートにのせ、灰に埋めた炭火でゆっくり炙る。昔の裕次郎さんがグラスでブランデーの香りを「燻らす」ように。香水香も燃えるまえに成分を揮発させるため煙が出にくく、化学合成だから伽羅とか白檀とかいった高価な香木よりも香りがつよい。

 もちろん強すぎるのも問題で、化学物質過敏症の人は香水の原液を嗅ぐだけで鼻や喉の粘膜がやられてしまう。たとえば某洗剤の「詰め替え」で気分がわるくなる人も、きっといるはず。いぜん日向薬師の「塗香」をわるく書いてたいへん申し訳なかったけれど、一部にはそういう人も「ありえーる」ということを、理解していただきたいと思う。ちなみに中世、仏前に日常的に供えられたのは樒(しきみ)の葉で、これは中華料理にもちいる八角(トウジキミ)の近縁種、果実の形も似ている。ただ彼岸花同様、毒があり、鴉や野犬を遠ざけるために供えたとも。ふるい墓地だとまま、植わっている。


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