トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第356号 


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もちださんの鎌倉リポート No.356(2019年11月29日)



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収蔵庫−彫像について・5



浄光明寺
 この浄光明寺の収蔵庫には宝冠阿弥陀三尊と矢拾地蔵が収められている(撮影禁止)。宝冠阿弥陀はパンチ(羅髪・釈迦形)に冠をかぶる特異な姿だし、遺例のすくない土紋装飾も残る貴重なものだ。通常柵内には入れないので、どこが土紋なのかわかりづらく、横にまつられた矢拾地蔵なども拝みにくい。

 観光地以外でも、秘仏はこういう収蔵庫に入っていることが多い。防火・防犯はもちろん、湿度変化による自然劣化から木彫を守るという意味もあるらしい。

 そもそも寺や教会といった宗教施設じたいが「収蔵庫」として、古来さまざまな美術品を外部の歴史の荒波からまもってきた。有名なのは東大寺の正倉院。平等院や蓮華王院の宝蔵も知られていたが、すでに亡んでいる。鎌倉近辺では金沢文庫があったが、その史料の多くは散逸してしまった。それでも一定の保管効果はあったようで、鎌倉時代の貴重な歴史書「吾妻鏡」などは、後北条氏らが写本として持ち出して以降、徐々に全国にひろがった。



影向寺(川崎市)
 見せるということと保存すること、それを両立させるのは難しいのかもしれない。公開するには番人をおかなくてはならないし、マスコミにだけチラ見せして勿体つければ価値があがると思い込むひともいる。しかし大仏だとか阿修羅像といった人気の仏像は秘仏なんかじゃないし、そもそも「知らないもの」に最初から価値なんかないのだ。

 固く閉ざされた門や本堂のガラス戸の画像なんかに、だれが興味を持つだろうか。スマホ世代の若者はテレビなんか見ないから、クチコミがたよりだ。それに文化財としての価値は、かならずしも年代が古いことだけではないと思う。独創的でほかにない珍しい例なら近世・近代のものにだって価値はあるし、精緻で丁寧な造りではなくとも、たとえば「マリア観音」のように時代をうつしたものも貴重だ。

 そういう意味では、平成には平成、令和には令和風の仏像があってもいいと思う。仏具屋のありふれた彫刻には、ネット‐オークション的にもたいした価値はつかない。しかし和尚は「難解な現代美術」でどんな仏像・仏画・襖絵・屏風が造られるか怖いから、ついつい無難な仏具屋にたのんでしまう。芸術家も「もの」派などといってそこらへんの石を意味ありげに積んだり、どうせ売れないからと、使い捨て展示のインスタレーション(空間表現)などの単発的なイベントににげてしまい、ほとんど後世に残るものはない。



これはつまらん・・・(長谷寺)
 「難解な」現代美術でも、草間彌生とか奈良美智・会田誠・山口晃などのたぐいは比較的人気があるらしい。水玉でおなじみの草間さんはすでにさまざまな公共施設にも採用され、もはや世界的なレジェンドといっていいだろう。山口さんなども平等院の子院に障壁画を描くなどしており、絵巻物など古美術の「もじり(パロディ)」も得意だから、ながく展示保存できる要素がある。一口に現代美術とはいっても、三越で個展をひらく人もあり、一部は保守的な美術ファンにも受け入れられつつあるようだ。

 いっぽう「おたくアニメ」風な過激な作品で毀誉褒貶がはげしいのが会田さん。はだかの少女がごはんの上にのっていたり、手足が切られて犬のようにつながれていたりするので、いたましい児童虐待を想起させるというのだが、アニメの語法では空想上の少女たちの苦痛に、「大人たちの食いものにされてきた私」「社会から手足をもがれた私」を自己投影し、むしろ自身の【分身】として共感し理解するのが普通なのだろう。あからさまな自己欲求と被虐意識とが混在した、そのような残酷で短絡した表現法は、アウトサイダー(知的障害者)アートの影響を強く受けているのかもしれない。

 表現の自由も、それが作者の意図どおり理解されるとはかぎらない。たとえば慰安婦人形の強制展示は、未開人への理解よりさきに、妄想にとりつかれた洗脳国家韓国への嫌悪感を拡げただけだ。「わからないのは、てめえの頭がおかしいからだ」というのでは、たがいに水掛け論に終ってしまう。まずは現代美術をお寺でどこまで飾れるか、というのもある意味チャレンジする価値はあると思う。


 10月14日から11月4日まで、相模原市の橋本を中心に開催された若手芸術家によるアート‐イベント「SUPER OPEN STUDIO 2019」の初日に行ってきた。なぜ橋本かといえば周囲に美術大学が多く、郊外に工房を集団でかまえる新進アーティストも多い。さらにリニア駅計画で急速に都市化が進む中心部では、「アートラボはしもと」を拠点に、芸術の街を町づくりのコンセプトにしているのだ。

 ビル群を抜け、住宅街を30分もあるくと相模川の河岸段丘にくだりはじめ(右写真上)、ようやく畑が目についてくる。鳩川の源流ちかく、道端に稲荷のほこらや未整理の屋敷墓がまだ散在する非再開発地区にその工房のひとつ、「クンスト‐ハウス」があった(同下)。もちろんウィーンにある同名の立派な美術館施設ではなく、零細工場のプレハブを居抜きで借りたというふんいき。ここなら鑿や電動工具でいくら音を出しても、迷惑にはならない。

 台風で開催が二日遅れ、小雨もふっていたし客はまだひとくみの夫婦だけ。さらに掲示の手違いで時間外だったにもかかわらず、留守番の方に開けていただいた。スタジオ内の写真は、画廊と著作権の管理契約を結んでいる方もいるそうなので、ここには掲載できない。お話していただいた木彫作家の中畑さんは「ぼくのはいいよ」といっていらしたが、ご迷惑になっても悪いから、ここは雰囲気写真程度でお許しねがいたい。


 最近の木彫ではやわらかくて彫りやすい楠(樟・くすのき)が主流だそうだ。栗や欅は切ったことがあるが、やっぱり硬くて重いし、芯を残すとぱっくり割れる。楠は虫もつかないし一木でも罅割れは気にならないとか。そとにある巨大な材木でも説明していただいたが、たしかにこまかな罅ていどだ。「とにかく根気。ぼくたちは慣れているけど、素人でも根気があれば彫れる」と中畑さん。

 近年の絵画や彫刻は、アニメやイラストの影響を強く受けている。ギリシャ彫刻はおそらく実際の人体を撫で回すように観察してつくったのだろうけれど、ミケランジェロあたりでは描きためた部分的なデッサンを頭の中でコラージュして組み立てたかのようだ。駅前ロータリーなんかにたっている昭和の「ヌード彫刻」にいたっては、写実的な中年の体に乙女の首をすげ替えたような、理想美とは程遠いものが目につく。これはモデルの確保が難しいという問題もあるのだろうが、技法と美しさとは比例しないのだ。

 自宅には飾ってるの、ときいてみた。仕上げとかは持ち帰って自室でやっているし、けっこう散らかってる(笑)、のだそう。彼がうまれる以前、渋谷の場末のアングラ劇場のいりぐちに四谷シモンさんの太った娼婦の人形がおいてあって、ほんのちっちゃいころ、それに見とれた記憶がある。もちろん幼児のころの記憶だから作者名とか正確ではないかも知れないけれど、「置く場所」を考えたときに、ふと思い浮かんだ。



左の木像の胸にあるのは自然のヒビ
 駅近くの「アートラボはしもと」では、新進作家たちの個展もひらかれていた。ここは写真もOK。気になったのは木彫と陶塑による「石川新平×伊藤幸久」の共同展。少女が分裂する右の陶像はたぶん、引き裂かれどろどろに融解し空洞化する自我をあらわしているのだろうけれど、会田誠の「切腹女子高生」のような毒々しいものを見た後では、むしろ穏健にすら感じられる。ムーブメント(動き)が希薄なのは未熟さといえなくもないのだが、注目したいのはやはり、ゲームソフトにでてくるバーチャル人形(アバター)に近いその造形。これらに実在の【他者】としての存在感、表情とか個性とかいったものは一切ない。アバター(化身)とはあくまで自己の投影なのだ。

 そもそも過度なプライバシー保護の影響で、アート‐シーンそのものが仮想現実化を余儀なくされているかのようだ。わたしたちは(例えば)現実の女の子の、すっぴんのときのそばかすとか、ちっちゃなほくろとか笑いのツボとか、ほんものだけがもつ【実在感】に触れてこそ、愛らしさを感じる。外見のうつくしさなんか二義的なものでしかない。しかし一部には漫画やアニメ、平板なゲームキャラのような【非在感】にのみ、やすらぎを覚えるという人もいる。彼女(彼)たちは年をとらないし、プライバシーもなく、いつでもどこでも手に入る。顔をあわせたり電話で長話するよりも、WebやAI、SNSの活字の羅列に無防備に安心したり、誰ともしれない相手に過度に執着・反応したりする。

 美術ばかりでなく現代生活そのものも、バーチャル世界に浸蝕されている。思想家のボードリャール(Jean Baudrillard 1929-2007)はこれを「シミュラークル(模造)」と呼んでいるが、そこには現実社会にあるべき【他者】という実感が欠けている。それは消費者(プレイヤー)たちにとって都合よく投影された世界でなくてはならず、主人公はつねに正義、いいかえれば均一化された「自己」そのものなのだ。


 諸寺もかつては金銀極彩色でいろどられ、その前衛的な造形が当時のひとびとに衝撃を与えていたであろう。「ふるぼけた伝統」などというのは言葉の綾でしかなく、わたしたちはその技法も哲学も何一つ、知り尽くしてなんかいない。仏具屋の凡庸な仏像よりもあるいみ、古仏のほうがずっと新しい。モダン‐アートの最前線とおなじくらいに。

 一般家庭では油絵なんか飾ってもすぐに埃だらけになってしまう。ほしいものが必ずしも部屋に似合うとはかぎらず、そこそこ有名作家ともなれば版画ですら気安く買える値段ではない。文化財クラスとなればそもそも売ってないし、素人が安易に保管できるものでもない。ふるい木像は乾燥して軽くなり、ウエハースのように脆くなっているものも多い。覚園寺の薬師像も、後ろを見ると倒壊防止の金属ポールにしっかりワイヤで留めてある。

 本物はやはり寺や美術館などで数多く見るほうがいい。ネット画像や粗末な画集でみてもこまかな技法や質感まではつたわらないし、そもそもそれは「模造」でしかないのだ。常盤山文庫・大谷美術館など閉鎖された場所も多いが、コンテンツは多いほうがいいし、より多様であってほしいと思う。


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