トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第358号 


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もちださんの鎌倉リポート No.358(2019年12月6日)



No.357
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塔頭について・1


 「地味な宗助とハイカラな鎌倉とは殆んど縁の遠いものであつた」。・・・夏目漱石の「門」などにでてくる禅寺のモデルとなったのが円覚寺。漱石(27)はじっさい英留学を終えた後、松山に教師として赴任するまでのあいだ、山内の帰源院にひと月ほど逗留して、円覚寺管長・釈宗演(34)のもとに通った。

 「きみの父母が生まれる以前、きみの本来の姿とはなんだ」という基礎的な公案(課題)を数日考え抜いたあげく、「生まれるまえには私という姿形も、私という魂もなかったはずです」と答えて問題外、と鈴を振られる。これは「無」に帰納して終りではなく、その「無」から現在の自分を作り上げたすべてのものや関係、つまり食べ物やら本やら人の教えやらを演繹していって、自我とはけっきょく外部の世界がつくりあげたもの、すなわち自我と世界(もしくは世界形成の初源的原理としての仏の意思)とは本来対立するものではなく不二同一、紛れもなく同じものだと悟らなければならない。


 さてその上で、その答えをどう工夫し表現したら正解なのか。この設問は古く六祖慧能(638-713)という人が最初に発したとされる。したがって設問のしかたも答え方も古来無数にあり、素人がただマニュアルどおりに答えても真の悟り(開悟)とは認められない。看話禅とはそういうものらしい・・・。
 
 宗演に与えられたこの宿題を漱石が考え続けた帰源院は、いわゆる「塔頭」であり、道場というよりは住房か宿坊、それもちょっとした田舎農家とかありふれた寺の庫裏のようなものを想像しておけば大過ない。大正時代には「参禅のしおり」なども販売され、島崎藤村なども来たという。表門と玄関のあいだに漱石の句碑「佛性は白き桔梗にこそあらめ」がある。非公開寺院だが、イベントの会場などとして時折ひらいており、門前の墓地からは北鎌倉がみはらせる。ここは「弁天茶屋」の真下なのだ。

 【帰源院】は円覚寺第38世傑翁是英(?−1378)の塔所。「上堂していわく、諸仏が説く底(ところ)の法も、祖師が伝ふる底の禅も、暁来の山禽、屋角に語る。紅塵(*俗世界)の堆頭にも、白雲の辺にも」。傑翁は大慶寺の之庵道貫の嗣法で、渡来僧・大休正念(円覚寺第2世、仏源禅師)の孫弟子にあたる。万里集九のころは叔悦禅懌(?-1535第150世、大田道灌の近親)がすんでおり、そののち北条氏康の外護もあり今に至るという。円覚寺山内には大休の塔所【蔵六庵】や、大休の直弟子・第17世大川道通(1265-1339)の【臥龍庵】もあり、山門近くが仏源派の拠点となっていた。蔵六庵は寿福寺から移されたもので、古蔵六という場所を経ていまは墓苑付きの信徒会館みたいな建物になっている(下)。



蔵六庵
 塔頭とは「優れた師僧の住房やその塔(墓や供養塔)を拠点とし、弟子筋の僧がその法脈を継承しつつ生活の場とした子院」といった理解が一般的。京都の非公開寺院特別拝観などでは、枯山水の庭園だったり豪壮な障壁画などが見所となっているが、近世に衰微した鎌倉ではほとんど見せるほどのものがないため、めぼしいものは国宝館などに委託、多くの塔頭が門を鎖し参拝を謝絶し続けている。

 ただ「優れた師僧」という点でいえば、けして見劣りするものではない。初期(鎌倉時代)の名だたる高僧はみな鎌倉に集中しており、宋・元・明へわたったおびただしい数の留学僧や渡来僧ら、世界史的にも価値の高い禅僧のゆかりの塔頭も多い。かれらの事蹟への研究がすすみ、よりひろく一般にも知られるようになればより一層床しさも増すし、散策もたのしくなるにちがいない。そこはぜひとも現代の人気作家さんたちにおねがいしたいところだ。

 塔頭は建長寺・円覚寺だけでも各々10を越すが、公方府時代にまとめられた記録「鎌倉五山記」などによれば、かつてはその4-5倍、寿福寺・浄智寺・浄妙寺などにもあって、いちじるしい数に及んだ。これは宋代の官寺制度にまなび、五山の住持は幕府による官選方式をとりいれていたためだ。多くの名僧に幕府や国家のための祈祷を義務付けるいっぽうで、多彩な高僧を短期間づつ入れ替わり任命することにより、一生涯かけていくつもの寺を巡ったのと同じ教えが身につき、特定の法脈にこだわることなくより効果的に修業のレベルがあがると考えられた。寺内には無数の学派が形成され、塔頭はいまでいえば有名教授のゼミ室の数、というわけだ。



達磨と仏光(仏殿)
 もちろん塔所のすべてが残ったわけではない。火事や戦乱で亡び、弟子が振るわず再建をあきらめ、近縁の院や地方の所縁寺院に本拠地をうつしたり、または明治の廃仏に遭ったりもした。あるものは適当な建物に名前ばかりをのこしたり、座禅道場・集会所などに転用されたりもしている。文字通り高僧の衣鉢をいまにつたえたとしても、目に見えぬ教えがそのまま残るなどということはないのだ。

 塔所の構造はさまざまであるが、建長寺開山の蘭渓の西来庵には開山堂があり、鎌倉時代の頂相彫刻がおかれる。唐土の六祖慧能のばあい実物の遺体を漆で固めたミイラらしいが、日本では主に木像をもちいる。遺骸・遺骨は像の直下の石室におさめ、像のうらには石塔を置く。義堂周信の遺言によれば、「深く穴をほって龕のなかに遺骸を端座させたあと、その鍵を折って棄て、石郭を完全密封したうえで穴を埋め、上に石塔をたてよ」といっている。禅僧のばあい「闍維(荼毘)」がふつうだから、おおくは「設利(遺骨)」を骨蔵器にいれて収めたと考えられる。

 西来庵では野外にべつに安山岩製の無縫塔をたてているが、これは美術形式的には没後しばらくしてから再整備されたものらしい。杉田東漸寺には同形式の開山堂があり、内部に「見性」という額をかかげ、蘭渓の愛弟子・桃渓徳悟(1240-1306)の木像をまつる(レポ336)。その境内にある古式凝灰岩製五輪塔は風化がすくないから、これこそかつて堂内にあったものかもしれない。実朝の五輪塔と伝えるもの(秦野・金剛寺)は木製で、たぶん野外に建てるようになってから、より硬い安山岩製の石塔が普及していったのだろう。狭く閉鎖的な開山堂の前には昭堂(位牌堂)がつき、ここで日々の供御焼香を行ったようだ。開山・無学祖元をまつる円覚寺正続院では国宝の舎利殿が昭堂として移築されている。頂相は塔頭だけでなく、仏殿付属の祖師堂にも置かれたらしく、これはいまも仏殿で拝顔できるが、開山堂の有名な「鳩龍の像」とは別物。



正伝庵
 鎌倉にはまず栄西(寿福寺)が来て退耕行勇(浄妙・東勝寺)を教えるなどしたが、なお四宗兼学だった。禅専属の渡来僧としては初めて蘭渓道隆(1213-1278大覚禅師)をまねき、いわゆる【大覚派】が誕生する。ついで蘭渓・円爾らが推薦した宋代随一の名僧・無準師範(1177-1249)の弟子でベテランの兀庵を直接現地から招聘1260したが、時頼の死を契機に帰ってしまった。円覚寺を開いた無学祖元(1226-1286仏光国師、1279来日)はその次の大物で、さほど長生きはしなかったが夢窓国師を教えるなどして弟子筋が栄え、【仏光派】の祖と仰がれた。

 そのほか、宋・元で名を成した虚堂・石渓・古林・中峰といった名僧の法をつぐ多くの渡来僧や留学僧が、中堅派閥を開いてゆく。但し「これは」という人でも弟子筋が振るわなければやがて塔頭も亡び、語録などの記録もうしなわれ、過去の名声を復元するのが難しくなる。幸い蘭渓(常楽・建長・京都建仁寺ほか)や大休(1215-1289寿福・円覚・浄智・大慶寺)は長生きしたため、所縁寺院や弟子も多かった。それぞれに頂相も祀られているし、日本での弟子も確実に五山の住持を歴任している。

 池のほとりの【正伝庵】は渡来僧・西澗子曇(円覚寺第11世)の弟子で、第24世明岩正因の塔所。西澗は二度日本に来た。二度目は一山一寧に同行し、互いに建長寺と円覚寺の住持を分けあった。明岩(1284-1369)本人の事蹟はあまり知られていないが、建長寺にあった西澗の伝燈庵が衰微して同所に天源院が建てられたので、万寿寺(廃寺)に建てた自身の寿塔をここに移し、こちらを西澗派の本家としたらしい。立地もいいので江戸期に寺を復興した大用国師(誠拙周樗)や鈴木大拙なども住んだとか。のぼりくちには「大用国師塔所」の石碑がある。


 最後の得宗、北条貞時・高時親子のテコ入れはすさまじく、曹洞系の東明慧日(1272-1340白雲庵)をはじめ一山一寧(1247-1317建長寺玉雲庵、廃絶)・西澗子曇・石梁仁恭(1266-1334寿福・京都建仁寺)・東里弘会(徳恵?-1318禅興寺、廃寺)・霊山道隠(1255-1325建長寺正受庵)・清拙正澄(1274-1339建長寺禅居庵)・竺仙梵僊(1292-1348浄智寺楞伽庵、廃絶)・明極楚俊(1262-1336建長寺雲沢庵、廃絶)など、多くの渡来僧を招聘。

 いまで言うミッション‐スクールにも似て、宗教学はもちろん高度な語学や漢詩学習を目当てに多くの学僧をあつめ、「五山版」とよばれる禅籍の出版もさかんになった。その背景には第三次元寇にそなえ、エリート留学僧を養成して大量に元に送り込む政策もあったものと思われる。東明にまなんだ中巌和尚は、幕府御用の造建長寺唐船に乗ったが、じぶんたち以外にも20名もの禅僧が同船していた、と回想している。

 名高い舎利殿がある無学の【正続院】はもともと建長寺にあった。弟子の夢窓国師が後醍醐天皇に命じられ、開山塔頭としてここ円覚寺に迎えた。そのさい後醍醐天皇はやはり無学の弟子で皇族出身の高峰顕日(建長寺14世)の塔所を浄智寺から建長寺に移して後釜にすえ、顕彰をはかったらしい。正続院の側らにはのち、弟子によって第15世夢窓疎石の塔所【黄梅院】や高峰の弟子・第36世無礙妙謙(?-1369)の【如意庵】もできた。無礙は元に渡り幻住派の名僧・中峰明本にも学んでいる。また【続燈庵】は高峰の孫弟子・第30世大喜法忻(?-1368)の塔所。大喜は今川氏の出で、浄智寺の太平妙準にまなび、同寺で活躍した竺仙の五山版事業を受け継いだ。



茶室烟足軒
 このあたりは鎌倉時代、いまの【仏日庵】を中心に華厳塔などがたてられ、開基北条氏による、いわゆる檀那塔の敷地であった。貞時・高時の戒名にみえる「最勝園寺」「日輪寺」などの堂宇もかつてあったかもしれない。正続院の移転は、元弘の変で荒廃した跡地整備の一環でもあったのだろう。お抹茶がいただける仏日庵には、いまも時宗・貞時・高時らの小像が祀られているが、近世以降のものにすぎない。ただ上述の地下坑のようなものが、附近にいくつか確認されていて、今後なにか鎌倉時代に遡る遺構が見つかる可能性もある。

 仏日庵境内にある茶室はノーベル作家・川端康成の「千羽鶴」の舞台になったとされる。中年夫人の愛欲の妄執が妖しい記憶として、かたみの茶碗に宿るという物語。愛を失くした中高年の妄執といえば、女学生をつけまわすストーカー教員の転落をえがいた「みづうみ」とか、若い嫁の発育が気になってならない舅の煩悶「山の音」など、川端作品の重要なテーマ。そういえばガルシア‐マルケスも晩年、「眠れる美女」へのオマージュを書いていた。

 川端は学生時代、処女と信じ込んだ15歳のホステスの卵にまじめに結婚を申し込んで、ふられている(・・・とりまきのヤクザがそう簡単にめしの種を手放すわけないじゃん)。ゲーテにも「マリエンバートの悲歌」があるように、70爺いになってもヒリヒリした初恋をこじらせる人はいるようだ。でも自分が失った青春の時間は戻ってこない。マルケスの小説では、90歳の主人公がついに15歳(わざとだろ、笑)の「眠れる美少女」に愛される、という奇想天外な結末になっていたけれど、72歳の川端もそのくらいの楽天家であったなら、「魔界」にとりつかれて自殺なんかしなかったんじゃないかな。墓は鎌倉霊園にある。


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