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もちださんの鎌倉リポート No.359(2019年12月11日)



No.358
No.360



塔頭について・2


 建長寺の大鐘(左)には「建長七年(乙卯)二月二十一日/本寺大檀那相模守平朝臣/時頼 謹勧千人同成大器/建長禅寺住持沙門(道隆)謹題」、云々と陽刻で鋳付けてある。表面の荒れもあって、肉眼ではとうてい読めないが、「時頼」「道隆」の名は撞き座の反対側右上あたりだ。円覚寺の鐘の「平朝臣貞時」「伝法宋沙門(子曇)」の名は撞き座のすぐ右上にみえる。

 円覚寺鐘にはそのほか、鋳造にかかわった「喜捨助縁」1500人、「本寺僧衆」230人にも言及し、役職にあった僧の名簿も彫られている(下)。「大耆旧」は長老衆、「頭首」は修業リーダーで首座・書記・蔵主・知客・浴主・知殿など、「知事」は寺の運営リーダーで都寺・監寺・副寺・維那・典座・直歳など、「西堂」は他寺の住職経験者で、賓客として迎え、住持と対等なアシスタント的役割をはたす。「東堂」(OB)は別格だからここには記されていない。文字は一部はっきりしないが、無学の弟子・見山崇喜(?-1323浄智寺正紹庵、廃絶)や蘭渓の高弟で無学を招くため宋にわたった無及徳詮(?−? 禅興寺)らの名もみえるという。左端には重ねて「当寺住持宋西澗和尚  (子曇)」の署名も。


 五山の住持に選ばれるには、こうした寺の重職をへて諸寺・十刹の住持を経験しなければならなかった。建武の新政では勅命で即時に多くの高僧が京都に招かれたほか、足利氏が京都の「新興五山」を建設するに及んで、夢窓・春屋をはじめ多くのトッブ級人材が引き抜かれる形になった。五山制度が完成する南北朝時代には、五山の任命権は京都の将軍に握られたので、住持として鎌倉に滞在する期間もかぎられてしまった。

 かれらが京都で歴任するうちに没してしまえば、塔所は京都の寺にあるものの方が本物になり、鎌倉のものは遺骨のない供養塔にすぎなくなる。塔頭の正統性を証明するものは、たとえゆかりが深くとも師匠の遺骨であったり伝衣などの「証拠品」でしかないのだから、火災などでそれすらうしなってしまえば、他派はもとより類似の所縁寺院に対する優位性まで失われる。そうして衰退し、弟子名義の塔頭のほうがむしろ学派の拠点になるなどの消長を経てゆく。

 唐土の禅宗はもともと日本のものとはなりたちが違っている。禅宗は天台教学の止観や華厳学の縁起説などからうまれた。ただ、栄西が「興禅護国論」でのべているように、天竺震旦の仏教教学はイスラムの進攻や、唐末の廃仏・戦乱でほろんでしまう。残されたものは民衆信者から支持されてきた禅や浄土教といった、「土着仏教」がほとんどだった。それらは道教・儒教・易学などと習合していたし、周辺部の仏教にいたってはラマ教・マニ教化するものさえあった。しかも南宋から元・明における禅宗は、南宋が都をおいた杭州周辺のごく狭い地域に栄えたものにすぎず、日本につたわった各派閥にしても、そのせまい南宋五山のサークルの人脈から出たもので、本質的には時々の師僧の個性以外に優劣があったわけではない。他者との差別化をはかるうえで伝法の証明・真実性にこだわるのはそのためだ。日本曹洞宗にいたっては、ほぼ道元らの独創によるもので、伝法の由緒にはあまり拘泥しない。



天源院・龍峰院
 【天源院】は大応派を築いた大物、建長寺第13世南浦紹明(1235-1309円通大応国師)の塔所。京都東福寺の円爾弁円の甥であったが、蘭渓に学び、果ては宋にわたって五山をめぐり高僧・虚堂智愚の法を嗣いだ。帰国後は福岡で活躍、晩年に上洛して亀山上皇に教え、貞時にも呼ばれて鎌倉で没した。日本初の国師号をさずかったほか、宗峰妙超ら弟子が都で活躍。卵堂(卵塔をおさめた開山堂)・指南閣(二階)などがあったという。没後20年、大耆旧の柏庵宗意というものがその俗兄と苦心して建て、南浦の高弟・物外可什らも住んで、のちには回陽庵という子院までひらいた。

 「寺の東北隅より蘸碧池を循(めぐ)つて截流橋を渡り、山に傍(よ)りて縈廻すること数百歩。流泉は暗に注ぎ空翠は風を含み、雲蘿寒木の鬱として巌戸を蔽ふ。・・・是に於いて木を刊(きざ)み石を伐り、精しく堂室を構ふ。床座臥具も備はらざる所靡(な)く、尊厳の像(*南浦和尚の木像)を設けて生けるを以て之に事(つか)へ、蒸嘗の礼(*お供えもの)を為すを獲るに至る。・・・抑々茲は異郷絶致にして修飾を仮らず、天然より出でて亦た奇を為す。且つは其の左臂東峰の頂に大浮図(*華厳塔のこと)有り、崢エたる丹級、山緑に掩映す・・・」(竺仙梵僊「天源庵の記」)。

 天源院と参道がクロスするのは【龍峰院】。開祖・第15世約翁徳倹(1244-1320仏灯国師)は葦航・無及・桃渓らとともに蘭渓の四神足といわれた高弟。鎌倉で捨て子であったのを蘭渓が侍童として育てたという。覚(*蘭渓)問ふらく、「雪千山を覆へど、甚(なん)の為か孤峰白からざる」。倹曰く、「毒龍の行く処、艸生ひず」。当時19、蘭渓も舌を巻いた。のちに元にわたり学んだほか、勅をうけ京都でも活躍。また円覚寺雲頂庵の前身・長勝寺を興すなどした。



正統院・正受庵
 四神足のうち桃渓徳悟には、前回のべたように杉田の東漸寺に開山堂がある。ただ円覚寺の大仙庵は廃絶。無及徳詮は禅興寺が亡んであいまいになったとみられるが、法孫の密室守厳が同地に明月院をひらき、その末にも玉隱英璵などの名僧を生んでいる。葦航道然の正宗庵は「鎌倉五山記」にみえるが廃絶。葦航は法泉寺(廃寺)にも拠点があったらしい(レポ123参照)。そばにある【宝珠院】はその法泉寺の中興開山でもある第35世了堂素安(1292-1360)の塔所。葦航遷化の時点では九州にいて、まだ童だった。この人は同源道本の弟子だから、いちおう蘭渓には孫弟子にあたる。法泉寺があったのは横須賀線のトンネルの向こう側。

 奥へむかう曲がり角から参道がのびているのが【正統院】。つまり元々あった建長寺第5世無学祖元の正続院を円覚寺檀那塔の跡地へ同寺開山塔として移したのち、浄智寺からドミノ移植をした第14世高峰顕日(1241-1316仏国禅師)の塔所。皇族の出で京都で円爾、鎌倉で兀庵にまなぶ。長く那須に籠るが来日した無学(仏光国師)の法を嗣ぎ、同門の夢窓国師らにも教えた。中華石人など近代の演出も目につくが、地下には無学の正続院時代の遺構もあるかもしれない。

 来日僧の遺構といえば鎌倉学園第二グラウンドへの曲がり角・河村瑞賢墓登り口の辻にある【正受庵】も、高時が招いた第19世霊山道隠(1255-1325)の塔の名義を継いでいる。まだ三浦泊船庵にいた夢窓とも仲がよかったらしく、「往復して酬唱し、動(やや)もすれば信宿(*連泊)す」るほどだったとか。建物は「親と子の土曜朗読会」なんかを開いているちいさな集会所にすぎないのだが、この場所はやはり貞時が招いた来日僧・第10世一山一寧(1247-1317)の塔所・玉雲庵の跡であるともいう。玉雲庵は江戸時代、鎌倉学園附近に再興されたがついに廃絶。ただ一山の塔所は京都にもあり、南禅寺大雲院(廃絶)の後身・南禅院にかろうじて塔や肖像画がつたわっている。



回春院・正受庵の角
 奥の半僧坊・勝上巘のあたりには開山蘭渓の座禅窟なるものがかつてあり、躍り念仏の一遍と狂歌でとんち問答をしたとか、いろんな伝説もあるが、国宝の頂相画に書かれている「観瀾閣」というのもそのへんにあったといわれる。瀾とは波のことだから、山内では高い場所でなければ海はみえない。大休も寿福寺時代には石切山という高いところに寿塔を建てたし、竺仙も天柱峰に墓所を卜し、海をのぞむ頂に「妙高」という亭をたてて日々瞑想にばげんだ。帰る場所は遥か海のむこう、ふるさとの唐土でもあり、「本分の田地」「父母未生の本来の面目」でもあったのだろう。

 建長寺の華厳塔は瑞賢墓附近にあった。縁起説を説く「華厳経」は唐土における禅の成立にも深く関わっている。境内でもけっこう奥、目立たないところに塔を造った意図は不明。河村瑞賢は江戸期、東回り航路をひらいた人物としてしられる。北条氏の時代には蝦夷地との交易は日本海航路しかなかったようだ。瑞賢が開発した下田・浦賀というルートは江戸にかつおを運んだり、ペリーが滞在したりと、永く重要な役目を果たした。この人は淀川水運も開発しており、そのとき出た平安時代の「長柄の橋」の部材で造った文机というのが寺に奉納され、「風入れ」などでみられる。

 いま塔頭として最奥にあたる【回春院】は、蘭渓の弟子で第21世玉山徳璇(1255-1334)の塔所。ここでも五山版の出版が行われたとか。現存する古版はごくわずかだが、五山版は古典的な禅書・儒書、あるいは杜甫・韓愈・蘇東坡・黄庭堅などの名詩集の複製を全国に普及させたほか、日本で製作・編集した語録・詩文集などの新刊図書も多く刊行した。建長寺の古版といえば正続庵で古倫慧文が出した宋代の「禅林宝訓」の翻刻1287が知られるが、よほど需要があったのかその再刻1331もおこなわれた。宋代の本を細部にいたるまで完全コピーしたというものもあれば、逆に日本で編纂された地味な日本僧(浄妙寺月峰了然など)の語録がかの地の名僧の手で刊行され、のこっているという例もある。交流は一方的なものではなかったようだ。



グラウンド手前の墓地・同契院の角
 「鎌倉市史」によれば、鎌倉学園第2グラウンドのところにはかつて【宝泉庵】というのがあり、江戸期に再興した旨の碑と再興にかかわった間宮氏の墓を収めたやぐらがあるという。間宮氏については国学者間宮永好に関連して何度かふれたが、小田原後北条氏の家臣のいきのこり。古い印塔は南北朝時代のものの転用であるらしく、宝泉庵は建長寺第63世天鑑存円(?-1401。無碍妙謙の弟子)の塔所(五山記考異)であるから、それよりさらに古いことになる。

 また円覚寺の富陽庵には、開祖東岳文c(?−1416。建長寺第71世)の百か日とみられる日付を刻んだ小柄な印塔があり、室町期には高さ1m程度の貧弱な印塔が普通になるらしい。東岳は伊勢朝熊の金剛證寺を禅寺に改めたりした人。ただ、小型の宝篋印塔片なら全国各地におびただしくあるし、適宜複数おさめた供養塔の場合もあるものの、すべてが五山の高僧の墓とは限らない。畠山六郎の墓とつたえる正体不明の由比浜明徳四年塔(1393)294cmなどの方がはるかにでかいのだ。

 さて、さらに無名の僧たちはどこに埋まったのだろう。目につくところの墓地・墓石はみんなあたらしい。さいきん流行りのちいさな集合墓まである。蘭渓が埋まる西来庵の奥とかにも新興墓地は多いが、墓参者以外は入れないから、確かめようもない。比較的やぐらも少ないのは、代々の幕府の「官寺」だったからか。



鎌倉学園・妙高院
 門前の鎌倉学園は明治18年に「宗学林」として建てられたのがはじまりという。かつて江戸時代復興の玉雲庵があったところで、大正11年に旧制鎌倉中学となった。とくに宗教教育はないというが、理事にはいまも建長寺派の僧侶が多いらしい。鎌倉学園側は建長寺稲荷が高い位置にあることからも、いまよりはかなり狭かったものと思われる。

 「巨福山」の額がかかる総門内の反対側には、妙高院がせまい斜面にたっている。中世の伽藍は今とはすこし傾いており、その傾きはビャクシン並木の基軸線やペイブメントの石敷きで大方表示されているので、GoogleMapなどで上空からみれば明瞭になると思う。中世の指図通りなら、かつての総門はかなり妙高院寄りにあったことになり、手前の尾根の張り出しからみて、今の外門内の広場は城でいうところの馬出し虎口のようになっていたことになる。

 【妙高院】は第28世肯山聞悟(?−1346)の塔所。大覚(蘭渓)派だが、肥前の若訥宏弁→北鎌倉長勝寺の石庵旨明→という地味な系譜からの出世。この人は最晩年に「建長興国禅寺碑銘」という長文の縁起文を残しており、蘭渓の伝説、禅のおこりなどを精しく説き、「ここの地蔵が抜け出して蝦夷地で遊んでいた」など奇想天外な風聞もあって、当時の世界認識を知る上でも貴重。ただこれを刻んだであろう碑の実物は、はやくに失われてしまったらしい。


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