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もちださんの鎌倉リポート No.360(2019年12月15日)



No.359
No.361



塔頭について・3


 【白雲庵】は臨済宗円覚寺第10世東明慧日(1272-1340)の塔所。東明は曹洞宗宏智派の渡来僧であったが、幕府の命で寿福寺・建長寺などにも住んだ。白雲は元にいたころ住んだ白雲山宝慶寺に由来している。晩年に退居寮(休蔵之所)として名づけられ1319、寿塔「大明塔」も建立、みずから題額「大明」を書いたとか。題額があるということは、すなわち石塔が開山堂の中にあったのだろう。小ぶりの頂相彫刻は、いまも堂内右方にのこっている。

 曹洞宗宏智派はのち東陵永璵らも来日して京都五山にも進出、東明の弟子・別源円旨が朝倉氏に招かれるなどし、道元の日本式曹洞宗とは全く別箇に室町時代までさかえた。しかし臨済宗が支配する五山制度のなかで弟子たちが妥協を重ねた結果、白雲庵もついに臨済宗に吸収されてしまう。

 白雲庵はかつて五山文学の詩文の中心としても栄えた。中巌円月がここで世話になりながら、わざわざ渡元して臨済宗の高僧・東陽徳輝にまなび、あえてその嗣法を公言したことで帰国後、白雲庵の元同僚から殺害予告までされたことは、よく知られている。他派を数多くまなぶことはあっても、正式に嗣法を公言すれば長年の師である東明を裏切ったことになる。ただ曹洞宗宏智派の消長を知るいまとなっては、殺気立つようなその危機感もなんとなく理解できるのだ。


 【桂昌院】は夢窓の弟子・黙翁妙誡に学んだ第49世承先道欽(?- ?)の塔所の名を継いでいる。ただ現在、ほぼ十王堂橋付近から移された十王堂になっていて、しかもほとんど弓道の練習所にもなっている。【済蔭庵】は信者向け座禅道場「居士林」に転用されているが、夢窓の弟子で、公方持氏が亡んだ二階堂永安寺(廃寺)の開山でもある第58世曇芳周応(?-1401)の塔所。手前の選仏場には座禅僧のかわりに鎌倉彫が展示されていた。となりの【寿徳庵】も夢窓の弟子、第66世月潭中円(?-1407)の塔所だ。

 夢窓は甲斐恵林寺をはじめ全国各地を転々とし、県内でも横須賀の島や山深い津久井(相模原市緑区)に逃れたが、後醍醐天皇や足利尊氏らにまねかれ京に上ると一転、政僧として定着、巨大寺院の建設や五山制度の再編にふかく関与し、無数の弟子を抜擢して各地に派遣した。良く言えば権力者を粘り強く説得し、南北朝の戦乱を禅法で収めようとしたのだろうが、結果から見れば権力に便乗して自派を拡げたにすぎなかった。そして中世後期の日本臨済宗は大陸をはなれ、「日本人中心の宗派」へと、変容する。

 本項1に述べた【臥龍庵】の大川道通の遺偈には「凡聖に堕ちず、潭北湘南たらん」というなぞめいた句がある。この「潭北湘南」は碧巌録の引用で、ただの「うつくしい景色」を意味する。けれどその境地には、一国に満ちるほどの黄金(仏性)があるとされる。なぜなら高僧の無縫塔とは、目に見える石の墓石ではなく全世界そのものだから、そう考えると湘南の景色も自分と同一だということになる。・・・大川は建長寺に出世する直前に没したのだが、最期の一瞬においては、生きて自分の名を残すことよりも「本来の面目」に帰ることを望んだらしい。


 こちらは建長寺門前の【禅居庵】。建長寺第22世清拙正澄(1274-1339。大鑑禅師)の塔所。これまで何度か触れた渡来僧だ。京都建仁寺にも同名の塔頭があり、常盤山文庫につたわる墨蹟「毘嵐巻」1339はほんらいそちらにあったもので、「毘嵐(*この世の終りにふく風。毘藍婆)空に巻きて海水立ち、三十三天(*忉利天)に星斗湿ほふ。地神怒つて把る鉄牛(*道心堅固な僧)の鞭、石火電光追へども及ぶこと莫し。 珍重せよ首座、大衆。暦応二年正月十七日。正澄(花押・角印)」とある。

 これも遺偈で、難語をとりのぞいて見れば「この世の終わりには星も消え天人だって死ぬのだから、いくら慕っても君たちの師は死ぬ」程度のことをいっているにすぎない。人生の残り時間には限りがあるのだから、もう俺に構わずみずからのことに励みなさい、という教訓なのだろうか。禅意の深さは容易にはわからない。

 清拙は京都で死んだ。「東山西南の岡に火浴す。五色の設利(*舎利)、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。緇白(*僧俗)争ひ取りて灰土共に尽くす」。遺骨は功徳を信じる人々が争い取ったというのだが、キリスト教の聖者たちの聖遺物のように、奇跡を起すお守りなどとして珍重され、高値で売買さえされていたのかも。「本朝高僧伝」はこう述べる。「大凡(おおよそ)東渡の宗師十有余人、皆な是れ法中の獅なり。大鑑師に至りては獅中の主と謂ふべし」。


 十王岩から朱垂木やぐら群を経て降りきったところに平場がある。このへんは正式なハイキングコースではないのだが、風致保存会が保護しており、見学も和尚が寛容な見解をしめしておられる。古絵図には平場を【回春院跡】と呼んでおり、ここが旧在地だったようだ。現・回春院の大覚池からは西御門に抜ける小径を折れて登ったところだが、もともとは沢に沿ってつきあたり、通行止めの柵のむこうの小橋を渡り尾根筋にきざまれたかぼそい道が本来の入り口だったのかも。狭い谷はかつて地獄谷とよばれた葬場の雰囲気をつたえる。

 のちに浸蝕で谷がくずれ沢が埋まるなどして度々参道が分断されたため、「埋め戻し」や「開削」のすえに放棄され、現在地に移したものと思われる。大覚池も防災ダムとして建設されたのだろう。朱垂木やぐら群は百八やぐらのつづきとも考えられるが、ちかくに旧回春院があればその管轄下にあったとみるのが自然。もちろん梵字を刻んだ幾つかのやぐらの近似や連続した配置は、覚園寺の禅律僧との密接な交際をものがたる。やぐらの原型のひとつとされる崖墓は四川省などにおおく、かりに現地出身の蘭渓・鏡堂ら渡来僧の関与があったとしても、「官寺」である建長寺がわにはあまり発展せず、むしろ葬送儀礼に長け、石工技術者が多い禅律寺院の側に展開することになったのかもしれない。

 正統院と回春院のあいだ、半僧坊参道のあたりには維新のころまで【雲外庵】があり、ここにはいまも廃院をものがたる井戸枠や庭の跡のようなものがのこる。これは正統院の高峰(仏国禅師)の弟子・建長寺第30世枢翁妙環(1273-1354)の塔所だったところ。枢翁については「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」の項(レポ264)でも触れたが、松蔭寺につたわる同絵図や枢翁の墓石はここから移されたものかもしれない。GoogleMapなどでみればその他にも空閑地が多いが、遺構をのこすかもしれない塔頭の跡が、ありふれた墓苑開発でみすみす失われてしまわないよう、願うばかりだ。


 禅寺にかかげた額の多くは寺号だったり殿舎の雅号だったりするが、一部には禅語なども書かれていたりする。よくしられるのは浄智寺外門の「宝所在近」。文字ないし撰文は「仏光(*無学)」または「仏源(*大休)」の書と伝える。鐘楼門の「山居幽勝」は江戸時代の隠士・石川丈山の書とされている。後者は「五山記」などの中世の古文書には出てこないし、文言にもあまり禅味がないので、筆者はともかく近世になってから掲げたものだ。

 帰源院のは「万法帰源」。すべての法は源に帰す、というもので前々回の冒頭にのべた「本来の面目」とか「諸仏説底の法」とかいうものを示している。「宝所在近」もおなじだ。鳥の声とか林間の雲とか、そんなものにもさとり(宝)の機縁はある。建長寺の西来庵というのも「祖師西来意」の公案に由来する。達磨は何しに来た、の意。禅問答の答えは「庭のビャクシン」。ただ枝葉をしげらせ大木に育っている、そのほかに何の意味(仏意)があろうか。

 内外の禅寺では古来、「十境」などと称する景観が定められていた。ほんらい十境はただの美景を意味するものではなく、特定の境致にひたりつつ、どう修業しどう悟りを積むべきかという「観法(摩訶止観)」の課題・階梯でもあった。四天王寺の「日想観」は有名だし、水面に映る月をみる水月観音とか瀧見観音とかの造形に、その悟りへの志向がよくあらわれている。むろんそれは詩にも詠まれたし、西湖十景とか金沢八景などといった純粋な美景の謂いにもなったのだけれど、そうした自然美への理解をつうじて、俗人にも禅の悟りへの機縁をひらこうという禅僧たちの関与があったことは共通している。塔頭の名はもちろん、僧俗の殿舎の雅号にも、ひろく影響をのこした。大田道灌は江戸城の楼閣に「静勝軒」などとなづけている。


 建長寺十境の詩は渡来僧・明極楚俊が残しているし、同じく清拙正澄は十寮などの頌題をいくつも伝えている。もちろん十境にまつわる境致・景観・建物などはたいてい失われているし、たとえいい景色があっても、観光寺院にはもはや悟りを得られるような瞬間なんかあるのか、というひともあろう。でも季節や時間帯をえらべば結構しずかな場所もあるのだし、初心者は布袋の腹をさすって帰るだけで、奥のほうにはこない(浄智寺)。あるいは楓以外は紅葉とも思わないから、道に貼り付いた赤い桜の落葉とか、「どこにでもあって誰も見ようとしないもの」を見ることもできる。

○ 名区勝概は寰宇(*世界)に充塞すれども、天慳(おし)み地秘し、常に人に悋(おし)む。唯だ深機の上智のみ、旁々(かたがた)捜り遥かに討(たず)ね、玄を摟(ひ)き賾(さく*深部)を剜(えぐ)り、その要を司(うかが)ふことを得る者なり。(清拙正澄「徧界一覽亭記」)

 「去来庵」といえばお寺とはまったく無関係な、ビーフシチューが名物のいわずと知れた老舗古民家レストラン。むかしの別荘文化をつたえるとかで、重要景観建物になっているが、とにかく名前がいい。こういう昔っぽい風流な建物を数多く建てれば、いかにもイコモス(国際記念物遺跡会議)好みの「歴史的景観」を形成するのだが、・・・それもまた作り物めいた、あざといものになっては元も子もない。あえていえば、いつかどこかで見たような、【ごくありふれた景色】であればこその、親密な懐かしさといったものも、鎌倉の魅力にはなっている。世界遺産の要素の足しにはならないとしても。


 建長寺の門前をながめたとき、平凡なアパートや信号や電柱など、目にはいるものを改めて見つめなおせば、こみあった電線や変圧器など早晩地中化され、なくなってゆくだろうし、民家もまた最近はやりのプチ豪邸らしいデザインに、やがて建て替えられてゆくことだろう。それはどの街でも同じなのだが、ありふれた電柱もやがてノスタルジーを誘うレトロなアイテムとして、逆に惜しまれたりするのかもしれない。現に電柱マニアはいるし、気の早い人気現代アーティストにも、電柱や電線を盛んに作品へ取り入れる人がいる。

 亡び去ってゆくのは塔頭や、高僧たちの歴史ばかりではない。ひとが苦しまず生きてゆくには、なにかを忘れてゆかなければならないのだ、きっと。きょう、この瞬間を明日には覚えていないように。・・・街からオレンジ色のコスモスが完全に消えるころ、せっかく知り合った彼女の記憶だって知らぬ間に色褪せてしまうだろう。わたしたちが生きたあかしなんて、いつもそんなものだ。

 かつてこのあたりは多くの塔頭寺院で占められていた。近世の絵図では長寿寺の少し先、尾藤谷(踏切)のあたりまで四至(広義の境内)にふくまれていて、あらゆる空閑地に「○○院跡」などと注記されている。第六天とか亀谷坂延寿堂墓地とか、もはやその名残はわずかだ。


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