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もちださんの鎌倉リポート No.363(2020年1月18日)



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海―歌びとをたずねて・9


 三島由紀夫が死んでもうすぐ50年になる。「あの時」私の母親はまだ市ヶ谷の某研究所にいたから、そとがやけに騒がしかったり、辻々に楯の会のメンバーが旗をもって立っていたのを覚えている、という。

 三島の政治観・歴史認識はほとんどデタラメだ。というより文学的【創作】に近いのかもしれない。戦争をあおった高村光太郎などの詩人や、俗物ジャーナリストの典型とされる徳富蘇峰なんかとくらべても、三島の戦争観には現実味が乏しく、美化がいちじるしい。いわゆる「大東亜戦争」にしても、三島のイメージ通りなら天皇崇拝や神道思想による陶酔感に、すべての責任を帰一することになってしまう。より現実的な、反米・亜細亜主義構想や国民的社会主義運動(ファシズム)といった【社会史的背景】を完全に忘却させるものだ。いまどき楠正成の尊王運動にだってそれほど詩的・神話的な解釈はしないだろう。

 著作権法の延長もあり、しだいに忘れられてゆく可能性もある。ただ神話的ロック歌手・D.ボウイらが心酔し、自作の似顔絵まで残したほどだから、その国際的影響力はいまも看過できない。



源氏山より
 小説というものはもちろん架空のものだ。私は時代小説をあまり好まないが、それは史実と創作との差分があいまいだからで、シラーの史劇「オルレアンの少女」なんかジャンヌ‐ダルクが死なないのだから、めでたしめでたしと結ばれてはいても、その大団円の陳腐さにかえってドン引きしてしまう。それを突き抜けて感動をもたらすのは内容とか真説とかいうことよりも、むしろ【詩】があるかどうかであろう。

 建長寺勝上巘を舞台とした三島29歳の時の短編「海と夕焼」1955のえぐい所は、フランスの少年十字軍と建長寺を結びつけた奇想にあるのではなく、少年たちを幻覚へと突き動かしたもの、「この海が割れてエルサレムへ行ける」とまで思い込ませた、あの時代の熾烈な【熱狂】が、三島本人も「解説」でいっているように、「太平洋戦争」に酷似しているという点だ。

 少年十字軍1212はある程度は史実。ただ商人にだまされアレキサンドリアで奴隷として売られたあと、「蘭渓和尚がかつてインドに求法の旅に出たときに買われてきた」というのは粗雑な虚構だし、勝上巘からみて南南西にある稲村ヶ崎あたりの海に夏の夕日が沈むのもうそ。蘭渓はまだ死んでないのに昭堂があったり、妙高院など後世の塔頭が見晴らせるなんていうのも時代錯誤の矛盾にすぎない。でも、それを突き抜けるのは「海が割れる」という鮮烈なイメージだ。鎌倉の海は、たしかに「割れそうにみえる」から。



暗くなるまで、自主練でしょうか
 気球から地上を眺めたさい、地球は球体のように丸く見えるのではなく、むしろ穴のように深く抉れて見える、といったのはE.ポーだ。鎌倉の外周の山に立ってみると、それを実感する。あまつさえ目の高さまで屹立する水平線から、眩しく反射する波がスローモーションのように流れ落ちてくる。

 小説にでてくる安里(アンリ)は、神の啓示をうけたとされるエティエンヌ少年のなれのはてをイメージした架空の人物だが、蘭渓や大休、竺仙、夢窓などといった和尚は、じっさいに海のみえる山のうえに小亭をきずいて、その景色をたのしんだ。蘭渓の観瀾閣など、今では何の痕跡もなく、御所見直好「鎌倉の四季」1975に「鎌倉でたったひとつの展望台」がさいきん十王岩の近くにできた、といっているから、三島の生前にはまだいまのように視界がひらけてなかったかもしれない。江戸時代には「狻踞峯」とか「美観」とかいう展望台が他にいくつかあったらしいが、これもうしなわれてしまった。

 禅僧たちが見たのは、無限大の世界と芥子粒のような極小世界との対比。「四面窓を開けば八極窮まり、大千は全て是れ海中の漚(あわ)」。無数の山々はちいさな蟻塚のようなもので、巨海も牛の足跡の水たまりのようだ、と詠んだ詩もある。言い古されたことばでいえば、「大自然を前にすれば、人間の悩みなんかちっぽけなものだ」、現代科学でいえば海も人間も、つまるところ「おなじ素粒子のたわむれ」。



勝上巘から
 しかし、年老いた安里は海をながめて思いつづける。あのときなぜ、海は割れなかったか。海が割れる、というイメージはモーゼのエクソダス(Exodus:出エジプト記)に依っている。「恐れてはならない。かたく信じて、主が今日、あなたがたのためになされる救いを見なさい。今日、あなたがたはエジプト人を見るが、以後は永久に彼らを見ることはないだろう。主があなたがたのために戦われるのだから、あなたがたはじっと黙していなさい」。

 イスラエル人が渡りおえると、神は追っ手のエジプト軍を海に沈めた。「元寇の船が神風で一夜のうちに海の藻屑と消え去った」という神話と、どこか似ている(小説が文永9年に設定されているのも、それを示唆する)。そしてちょっとことばを置き換えるだけで、「今でこそ空襲によるホロコーストにあまんじて居るが、神風さへ吹けば、もう二度とアメリカ人の顔を見ることはないのだ」などという論旨が、あたかも敵国の聖書によってすら予言され、ゆるぎなき真実として裏付けられているように錯覚する。

 こうした主語の置き換えは、未開人の神話に多い。「ライオンは強い。ゆえに王はライオンだ」「共産主義のソ連は平和な楽園。ゆえに活動家である自分は偉大な天才」・・・こうした類推・連想は比喩と現実を混同し、自他を明瞭に区別できない言語上の飛躍にすぎず、そもそもライオンは人間じゃないし、ソ連は楽園でもない。海が割れたとしても、マルセイユから遠くエルサレムまで、どうやって歩いて行くというのか。陸を通ったほうがずっと楽じゃないのか。海が割れなかったというのはむしろ当然であって、ありていにいえば「誤った自己認識の破綻」、すなわち【挫折】でしかない・・・。



衣張山から・霊仙崎から
 神話とは、信じるものにとって唯一無二の太陽のようなものであっても、実は無数の星に似ていて、どれもそっくり同じようなものだ。あの20世紀のマルクス神話も、いまとなってはたんなる「おとぎ話」でしかなく、ファシズムや十字軍、イスラム国などの選民思想に酷似していたのがわかる。

 自然界には収斂進化という概念があって、まったく別々の種類の魚でも、見た目そっくりな縞々模様の魚は世界中にいるし、羊のいない地方でもラクダが進化してアルパカのようになったり、進化の過程で牛馬のかたちのカンガルーなどが存在していたと、化石から判明したりする。人間の思想が似通うのはむしろとうぜんであって、同一の目標である「反米戦争」「亜細亜の解放」を、左翼エリートは教祖マルクスの至上命令として、右派は天皇の大御心として、それぞれ理解した。新聞はひたすら正義に固執して現実を喪失し、作家は精神面から庶民の奮起を鼓舞。ひとびとは蹉跌ばかりを目の前にしながら、ただただ奇跡の到来をまちのぞむようになる。そうして意思が固められ、大政は翼賛されていった。

 奇跡・・・そんなものを信じるのは不幸な人間だけで、幸福な人は宝くじに当りたいとも思わないし、気に入らない相手を「死んでしまえばいい」とも願わない。いいかえれば宗教とか祈りとかテロや暴動とかは、不幸そのものの別の姿であり、けして消え去ることはない。「痛みがあればこそ、バルサム(*鎮静剤)は存在する」(柳田國男)のだから。



パノラマ台(浅間山)より。手前は材木座霊園
 能「角田川」には念仏の声のなかに亡き子の声を聞く、というシーンがある。ベンジャミン‐ブリテンはオペラ「カーリュー河」でこの構成を借りているが、聖歌のなかに亡き子の声を聞く、というのはもともとキリスト教の伝説にも存在した。中世の、黄金伝説などといわれる類いの「奇跡」とは、だいたいがこの程度の、他愛ないものが多い。失くした馬が帰ってきたとか、指のささくれが治ったとか・・・。それは神や奇跡が似ているのではなくて、人が感じる「不幸がおなじ」だからだ。

 三島じしん、「神風」なんか吹くはずもないと頭では知っていた。ただそれを求めるひとの「痛み」にこそウソの存在価値があるのだとすれば、ファシズム神話でさえもなんらかの幸福(恩寵)の代替物であることを無意識に感じていたのだろう。そもそも「神風」は和歌でもちいる伊勢の枕詞にすぎず、「貝や魚がいっぱい打ち寄せられる豊かな磯」程度のいみだろう。元寇ではたしたやくわりも疑わしい(レポ22参照)。

 7つ年下にあたるイタリアの作家、U.エーコの7つの小説には、ファシズムはもちろん、異端の禁書とか、テンプル騎士団、司祭ヨハネの王国、シオンの議定書(贋のユダヤ文書)などといった、過去の時代を熱狂させたさまざまな妄想がえがかれる。「前日島」では、未知の太洋を冒険し子午線の発見に狂奔する男たちが、けっきょくは日付変更線を越えれば昨日へ、過去へとたどりつき、片思いの女と根拠もなく結ばれるといったばかげた情熱に依拠していたことが暴かれる。どこにでもあるような、しかしけして叶うことのない、情熱。



江ノ島からみた鎌倉・逗子
 「岬にての物語」1946はわかい男女の幸福な心中?を目撃するこどもの話。三島45歳の最後の小説、「豊饒の海」4部作1970では、そうした詩的幻想に醜悪な現実が容赦なく浸蝕する。秘蹟を目撃する役、能でいうところのワキにあたる本多は、最終的に「魔界」におちこんでのぞき魔・痴呆老人ときめつけられ、自身の記憶を証明する、唯一たのみの綱であった当事者の老尼からも、そんな事実はないとはねつけられる。・・・

 国学者・折口信夫をモデルにしたといわれる短篇「三熊野詣」1965では、もっとあけすけだ。「むかし死んだ美しい恋人」の櫛を熊野三山に埋めてやろうとする「先生」のすがたを、恋人なんてうそっぱちで、自身を神話化しようという自作自演のばかげた猿芝居なんだと、気付いてしまう。三島はなにも尊敬する川端や折口の美学をドSに批判したのではなくて、むしろ自身の人生を賭けた文学というもの一般もまた、そういうぶざまな虚妄の上にしか成り立たないことを自白、証明したようなものだ。

 三島の不幸は少年時代を戦中にいきて、子ども心に戦争のヒロイズムを知り、戦後の醜さをみてそだった、それだけだったのかも。絶望なんかは誰にでも簡単にやってくる。自殺・凶悪犯罪・痴漢・金閣寺を焼く・・・。魅死魔などとじぶんを揶揄し、少年じみた夢想の中で死ぬことをねがい、20代の若者にまじって稚気にひとしい演劇的な最期を選択してもなお、ついに海が割れ、至福の時に至ることはなかった、と思う。夢をみるなんてたぶん、少年時代だけの特権なのだ。もちろん挫折したのは三島だけではなかった。進歩的文化人、戦後マルクス学者、日本社会党、ゲバ集団、オウム真理教、その他数多くの夢想家たちが時代の波のまにまに消えさっていった。それでも海はけして、割れようとはしなかっただろう。


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