トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第364号 


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もちださんの鎌倉リポート No.364(2020年1月24日)



No.363
No.365



佐々木氏と失われた鐘



電車がとまっているのが駅
 京急川崎駅のすぐわきにある宗三寺は、かつて【勝福寺】といっていて、佐々木泰綱母子が奉納した鐘があった。「武蔵風土記稿」によれば当時、すでにその鐘は千葉の袖ヶ浦市にある坂戸神社に移されおり、あらたに別の鐘がかかっていたという。

 いまの宗三寺は勝福寺が亡んだあと、戦国時代に佐々木氏の子孫を称する間宮氏が曹洞宗の小寺院として新規に再興したもので、古い伝承はうしなわれ、【勝福寺】についてはただ、幕末まで袖ヶ浦にあったとされる鐘の銘文「武州河崎荘内勝福寺鐘銘」「大檀那・禅定比丘(尼)十阿、并びに従五位上行壱岐守源朝臣泰綱」のみが寺の実在をうらづけるよすがとなった。水戸光圀や国学者の間宮永好らも川崎や袖ヶ浦を訪ねてはいるが、まだあったはずの鐘のくわしい事情は書き残していない。「房総志料」などは「きっと戦国時代、里見氏らに略奪されてきたのだ」といい、間宮永好は「いや、売られたんだろう」と推測している。



佐々木神社
 そもそも川崎市のなりたちは、武蔵国橘樹郡を原点としている。ふるくに発展した郡西北部は稲毛荘として稲毛重成がおさめ、東南部はおなじ秩父平氏の「河崎冠者(小机六郎)基家」が対岸・荏原郡方面から多摩川河口域を繰り入れて河崎荘を開拓。孫に渋谷庄司重国がおり、そこに婿として縁づいた佐々木氏が、秩父平氏のあいつぐ没落を機に伝領。すくなくとも近江のバサラ大名・佐々木(京極)道誉のころまでは、鎌倉近在の重要な拠点となっていたようだ。

 第三の説としては、佐々木道誉が袖ヶ浦にも所領を持った時点で、川崎〜袖ヶ浦間の海上交通の発展を祈り、姉妹寺社としてみずから鐘を坂戸神社に奉納したとの推測もある。中世には流通経済による収入が大名の領地経営に大きく関わるようになっていた。そして寺社の存在は、利潤の追求を神威仏慮をからませて正当化するのに、かっこうの大義名分になっていた。ただそうはいっても鎌倉公方府が滅亡し、後北条氏が台頭する戦国時代もたけなわになると、遠隔地の小拠点はしだいに経営が困難となり、事実上放棄されてしまう。品川・神奈川湊の繁栄にくらべ、港町としての河崎はながく停滞し、勝福寺も衰微していったらしい。

 勝福寺の滅亡後には、いくつかのちいさな辻の堂と「佐々木神社」などの祠が残るのみだった。佐々木神社は現在、建て替え中の市役所ちかくにある稲毛神社の境内に、その他の摂社とともに祀られている。



かつての渡し場を示す旧六郷橋の標・千年銀杏(稲毛神社)
 その稲毛神社のあたりが、佐々木一族の河崎館跡だという。川崎堀ノ内といえば有名な歓楽街で、フーゾク店の無遠慮な呼び込みがおおいので昼間でも歩くにはあまりおだやかではないが、「堀ノ内」とは本来、全国各地に分布する中世館の跡に共通する地名だ。たまたま近世末期、ちかくに人気霊場「川崎大師」がはやったため、東海道五十三次の旧川崎宿を中心に料亭や岡場所(私設遊郭)が急速に展開して今に至るらしい。

 中世には川の渡し場など街道の要衝は【公界】とよばれ、だれのものでもなかった。そうでなければ自由に往来できず、争いも絶えないから、紳士協定的にそう定まっていったのだと思われる。法令が停止した空間、いわゆるアジール(安全地帯。英:asylum)とよばれるものだ。そこには敵味方なく「誰でも」買える市がひらかれ、「誰でも」泊まれる宿がつくられ、「誰でも」見られる芸能、「誰にでも優しい女たち」があつまった。敵味方に無縁で絶対中立が【建前】の職業であればこそ、中世の宿の長にはことさら「売れっ子の遊女」がえらばれたのだろうし、ほかでは容易に生きられないワケありの人々も、ここでは身分を隠したまま、安心して暮らすことができた。いわゆる「被差別部落」とか「反社会勢力」とかいうのとは、時代観もそのニュアンスもたぶん、ちがっていたのだろう。叡尊和尚なんかも、皇室や幕府に出入りするいっぽうで、さかんに非人宿を訪ね、法要をおこなっている。

 そこが河崎館の跡だとすれば、百姓が勝手に私有し耕作するのもはばかられただろうから、なんらかの公界になるのも時間の問題だったろう。当時の川崎の古地図はないが、鶴見郷の絵図(レポ264)では中央の「寺」からみて鶴見橋の対岸に、すでに鶴見市場が発展しているのがみてとれる。現在の宗三寺には、茶屋女郎の供養塔をはじめ、大坂方の浪人の墓というのものこっている。



江戸期の開拓伝承がのこる女体神社。女体って・・・
 佐々木泰綱(1213-1276)の父は信綱(1181?-1242)。座間星谷寺の鐘(1227。レポ79)を奉納した人で、その祖父秀義は渋谷重国の婿だから、渋谷氏の勢力圏は外孫・信綱の代にいちぶ佐々木氏のものになっていたことが推測される。

 勝福寺の鐘を寄進した「(尼)十阿」は泰綱の実母・河崎禅尼とみられ、泰綱は三男ながら継母である北条義時娘の猶子として出世したようだ。河崎禅尼は「河崎(中山五郎)為重」の娘で、渋谷氏の同族。泰綱は「吾妻鏡」で小机郷鳥山を開発していることが明らかだから、和田合戦などで没落・衰微していった秩父平氏の一党、渋谷・河崎(小机)一族の土地のほとんどを佐々木氏が継承していったことを裏付ける。その背景には継母北条氏の力があったのだろうし、泰綱の「泰」も伯父北条泰時の偏諱であったことは疑えない。

 佐々木道誉(高氏1296-1373)は鎌倉幕府滅亡後、おもに京都ちかい近江甲良荘の勝楽寺城に拠っていた。中巌円月がそのちかくに龍興寺1364を開いたさい道誉父子が開基檀越となった旨、随筆「文明軒雑談」などに記している。京極家はやがて没落して(同族・六角家とともに)近江すら失い、のち京極高次が中小大名として再興するものの、川崎との縁はほとんど切れていったようだ。金沢八景の和歌でしられる京極高門(1658-1721。レポ300参照)の紀行文でも、なんども川崎を通りながら言及がない。江戸期の川崎の繁栄をつたえるものは一行寺に「仮山碑」1853とよばれる優雅な詩碑があり(下)、庶民庭園を詠んだ七言律詩二首と序題とが丁寧に彫られている。また周辺の開拓長者といえば、慶安酒飲み合戦で名をはせた池上家(日蓮宗)がしられる。



庶民文化の明暗、仮山碑(一行寺)と遊女塚(宗三寺)
 勝福寺は、いいつたえによればまず「桓武天皇のころ、薬師像が流れ着いたので砂子をかき集めて安置した」。その後、「領室玄統という僧が霊亀に導かれ、この地に池水を得た。頼朝のころ、大僧正になったお礼に寺を創建、この地の領主・佐々木高綱が菩提寺として開基となった」とされ、「臨済宗建長寺の末寺」だったともいう。しかし頼朝や高綱(1160-1214)の時代にはまだ建長寺はないし、領室玄統なる人物も未詳だ。また現在、袖ヶ浦にあったはずの鐘や拓本のゆくえは不明で、明治初年の廃仏毀釈で鋳溶かされてしまったとされるが、文献につたわる「銘文」にみえる、「大勧進・僧頼俊」「当寺院主・僧隆祖」という人物についても、よくわかっていない。

  武州河崎荘内勝福寺鐘銘
盖し聞く、洪鐘の響きは蘿洞(*寺、道場)の荘厳、法の声は禅侶の知識なりと。是れを以(おも)ふに五千有余の人に勧めて三尺寸余の鐘を鋳る。廻向の趣は他に非ず。大檀那・禅定比丘「尼」十阿、并びに従五位上行壱岐守源朝臣泰綱。大勧進・僧頼俊。想はくは結縁の諸衆に災ひを除き楽しみを与へ、現つには南山の載(とし)に住して百二十の籌(かず)を保ち、当■(*「当来」か。来世)の宝刹(*仏界浄土)にては三三品の蓮(*九品の蓮台)に生まれんことを。
 数の輩の力を合はせ、一口の鐘を鋳れば、
 響きは厚く地を穿ち、声は夏冬に満つ。
 飛禽は北へ亡せ、走獣は蹤を転じ(*正しく春秋が来て)、
 仏閣に月を吐いて(*迷いの雲が晴れ)、松房(*僧坊)に寧(ねが)ひを開く。
弘長三年(*1263)癸二月八日
 当寺院主・僧隆祖。 鋳物師源有貞。



【ヤング】向けの並木
 「南山の載」とは「詩経」にいう長寿のことで、「百二十」というのは人間の長寿の限界をいうらしい。禅宗でも(「狗子仏性」の公案で知られる)唐の趙州禅師が120歳まで生きて古仏とよばれたし、日蓮の文書にも「たとえ120まで生きても」という言い回しがみえる。この年、泰綱(51)の母は七十にはなっていたはず。百二十歳まで生きたらどんな景色を見ることになるのだろう。八百比丘尼や武内宿禰、サンジェルマン伯爵にはとうてい及ばないが、泰綱なら1332年に成仏することになる。

 川崎の街も再開発がすすみ、「ラゾーナ川崎」などの大規模商業施設ができて、しだいにオシャレに変貌しつつある。いちょう並木がへんに綺麗だとおもったら、きちんとシンメトリーに刈り込まれ、円錐形のトピアリーになっている(左、川崎市役所前)。まるで外国か、新興のニュータウンみたいだ(右、横浜市都筑区)。

 そういえば工事中の市役所のフェンスには「川崎フロンターレ」や人気ガールズ‐バンド「ししゃも」のパネルも。市内の人気タウン・武蔵小杉の大ブレイクをうけて、ふるい街も徐々に若者向けに生まれ変わりつつあるのかもしれない。稲毛神社の千年銀杏は戦災でまる焦げになりながら、けなげに蘖(ひこばえ)を伸ばし多くの葉をしげらせているけれど、若者にとってはおしゃれな並木のほうがいいのかも。いつまでも「京浜工業地帯」「セメント通り」じゃ、人がより付かない。



洲崎神社と本覚寺(神奈川)
 失われた鐘といえば、神奈川・青木橋の権現山下にある洲崎明神社にも、浄妙寺の芳庭法菊による銘をきざんだ中世の古鐘があったらしい。神社と禅僧とのとりあわせは意外だが、おなじ山続きにある曹洞宗本覚寺は、権現山合戦で荒廃し再興されるまで、栄西創建の臨済寺院だったとか。この鐘も「風土記稿」のころには失われて、ただ不完全に書写された銘文のみがのこっていた。

日本国武蔵州師岡保青木村・洲崎大明神者、此間土地神也。威霊旦在・変化莫重。其■脩徒転貧■作■、其伝者除病而衍齢。■■■■■■■■■■愽換習■■■■■■■在信嚮咸致■■■■■■■
応安元年(*1368)戊申九月十一日 浄妙住持比丘芳庭法菊、敬銘
 大施主沙弥■修 同願禅尼浄■ 同願沙門永顕 同願孝男伴氏貞俊
 冶匠相州飯山源光弘

 神奈川ものちには橘樹郡小机領となったが、律令期には現在の大倉山あたりを中心とした「久良岐郡師岡の保」に属し、鎌倉初期には師岡重保の領地だったようだ。かれも秩父平氏ながら河越重頼の弟で、義経とともに転戦のすえ没落したため幕府領として分割されたと見られ、鶴見・神奈川には鶴岡領もあったから、銘文中の「伴貞俊」はおそらく鶴岡八幡の神官・大伴氏一族だろう。芳庭法菊(?−1371)は太平妙準(高峰の弟子)の嗣法。中風のため、師の塔頭・浄智寺正源庵(いまは廃院)のなかにあった黄金閣の二階で死に、なぜか遺言により武州「河崎の某寺」で荼毘した旨、義堂の日記「日工集」がつたえている。その某寺とは勝福寺のことであろうか。他に川崎近在のめぼしい所縁寺院といえば、法叔父にあたる枢翁妙環(高峰の弟子)がひらいた松蔭寺(鶴見区東寺尾)くらいしかみあたらない。・・・


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