トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第365号 


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もちださんの鎌倉リポート No.365(2020年2月6日)



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三渓園の浜辺で・1


 横浜の本牧(JRでは「根岸」下車)にある三渓園には鎌倉の遺構がいくつかのこっている。旧東慶寺仏殿(1634)は明治40年の移築、旧心平寺地蔵堂(建長寺子院1651)は大正5年の移築。前者は縁切寺としてしられた尼寺で、封建時代の遺物として荒廃し、さいごの尼僧・順荘尼が亡くなって僧寺として復興されるさい、老朽化し雨漏りだらけの仏殿をひきつづき保全するだけの修繕費がまかなえず、保存を前提に釈宗演らによって売却処分されたらしい。

 後者は現在の巨福呂坂切り通しとなったあたりに位置したもので、旧トンネルが開削された時点で地上げにあったようだ。本尊の心平地蔵はいまも建長寺にのこっている。両建物ともに萱葺きでの修復保護をうけており、鎌倉にあったらけっこういい味を出していただろう。重要文化財。



現在の東慶寺の仏殿・山門旧額
 東慶寺の縁切り法は女性の離縁を保障するために設けられたもので、毀誉褒貶はあったものの、幕府の保護は維新により途絶えた。もともとは「女性が出家する権利」をまもるはずのものが、いつのまにか「夫婦間の離縁」に特化されたらしい。豊臣秀頼と離縁した天樹院千姫(1597-1666)は義理の娘・天秀尼(1609-1645)を助命、竹橋御殿(現・北の丸公園)でほんのわずかのあいだ同居したものの、しばらく別々に暮らしたのち、娘のためにこの寺を復興する。

 千姫は本多平八郎忠刻(姫路藩主)との再婚(20歳)のロマンスから二度目の死別(30歳)をへて江戸に帰る。ところが庶民は、将軍家光の実姉で薄幸の女を、尊敬しいたわるどころか、・・・吉田屋敷に夜ごと美しい若者を連れ込んでは殺した、などというひどい伝説も残っている。徳川への反発はもとより、「秀頼との離縁」「イケメンとの再婚」を不貞とみなす人もおおかったのだろう。

 いっぽう天秀尼は8歳で出家し東慶寺に預けられた。つまり継母千姫の姫路時代にはひとりぼっちだったようだ。東慶寺が択ばれたのは、住持・瓊山尼の妹で秀吉の側室でもあった月桂院という尼の進言で、足利氏の縁者とされたのではないかと推測される。禅は黄梅院の古帆周信という僧にまなんだ。寺の復興ののち住持に就任。会津藩主・加藤明成が家臣を殺害せんとした時、縁切法をたてに断固その家族を守ったなどの武勇伝もかたられた。明成の父・加藤嘉明は賤ヶ嶽七本槍のひとりであり、これも外様大名ではあったから、明成の乱心を強調し、改易を大坂方からも正当化するためのゴシップなのかもしれない。


 なんにせよ、三渓園の旧仏殿は千姫時代の遺物らしい。「風土記稿」にのせる棟札には「大檀那・・・秀忠公御息女・天寿院殿(*千姫38歳)御建立焉」「維旹寛永十一甲戌」「豊臣秀頼公息女・法泰蔵主(*天秀尼26歳)御寄進也」。また同書本文には、方丈などとともに仏殿にも、前年に死んだ駿河大納言忠長(千姫の末弟)の御殿の材をもちいたともいっている。

 臨済宗建長・円覚寺派管長をつとめた釈宗演は、退任ののち円覚寺を去り、東慶寺を譲り受けて庵として使用。昨年、没後百年の特別展示がおこなわれたが、その遺品は100円の入場料に比してもあっけないほどだった。戦後、その弟子・鈴木大拙が師の志をついで背後の山に「松ヶ岡文庫」を設け、禅典研究の場とした(松岡宝蔵のわき、冬桜が咲くあたりにゲートがあるが、許可を受けた研究者以外、立ち入り禁止)。

 現在の仏殿はあきらかに庫裏方丈の位置にあって、本来の伽藍配置ではない(風土記稿の挿絵参照)。大正震災をまぬかれた室町ころの本尊がつたわるが、脇侍はうしなわれた。松岡宝蔵の土紋観音は中門外の観音堂「泰平殿」にあった太平寺(廃寺)旧本尊。鐘楼の鐘はなぜか補陀落寺の銘を刻んだもので、創建時のものは伊豆に流出し現存している。その経緯は諸説あってさだかではない。もともとはいくつかの塔頭・脇寮などもあったらしいのだが、最盛期の面影を偲ぶものはほとんどない。円覚寺の舎利殿が戦国時代に廃寺になった太平寺の仏殿(室町期)を移築したものと判明しているが、礎石などをふくめ中世尼五山の遺構はほとんどのこっていないのが実情。・・・


 心平寺の地蔵はいわゆる「済田地蔵」と混同しがちだが、済田地蔵は髻(ちょんまげ)にむすんでいたお守り程度の大きさの仏像で、いまは厨子に入り「風入れ」などに展示される。いっぽうの心平地蔵は現在、建長寺仏殿の右壁の花灯窓の龕に、千体地蔵の残闕とともに祀られている(ただし見えるのは膝と錫杖だけ)。済田地蔵はいったん心平地蔵の頭部におさめられ、建長寺造立の地上げにあって心平寺が境外に移転してからは、建長寺仏殿の丈六本尊の内部にうつされたとか。

 霊験仏を新仏に納めることは当時、ふつうにおこなわれていた。というよりお経とか、願文とか、パワーの元になるものは何でも大量に納めたのだ。鎌倉の場合は土中からいくつも小仏が出土するし、頼朝もお守りの小仏を髻に結んでいたというから、身代わりになってくれるという信仰ははやくからあったらしい。伝説の済田は時頼のころの人とも、頼朝のころの人ともいわれ定かでない。いまの丈六本尊は室町期の再興像であるが、心平地蔵は建長寺の創建以前、鎌倉中期のものかとされる。

 移築された心平寺本堂1651は江戸前期の平凡な建築だが、三渓園の創設者・原三渓(1868-1939。本名・富太郎)が住居「白雲邸」の私的な庭園として用いていた「内苑」エリアの最奥、すなわち桃山・慶長建築をあつめた最上部にあって、みずからの持仏堂「天授院」となづけ配置していた。三渓が一般に開放していた「外苑」の、広大だがやや大味な印象にくらべ、「内苑」は滝なんかも流れるコンパクトで華やかなエリアだ。



月華殿はこの右側
 住居「白雲邸」に隣接し小池に臨んで建つのは紀州頼宣の別邸だったという「臨春閣」1649。のち堺の豪商に払い下げられ、いつしか「秀吉の聚楽第の遺構だ」などと誤り伝えられて大阪界隈に流出していたのを譲り受けた。池の向かいに建つ小堂「旧天瑞寺寿塔覆堂」1591はその秀吉が母・大政所のためにたてた寿塔の名残りで、もとは京都大徳寺内の廃院にあった。三渓がさいしょに買ったものという1905。

 そこから東屋附きの小橋をわたり、奥にむかって石径をのぼるとある「月華殿」1603は、家康の伏見城から宇治・三室戸寺の子院を経て移設。持仏堂「天授院」はそのかたわら。ここから滝の反対側の沢筋を下るとある「聴秋閣」1623は、家光が二条城にたてた池亭を春日局に与え、稲葉氏江戸屋敷につたわった。三渓がさいごに買ったものという1922。

 相当な歴史好きでなければ、由緒なんかしらないし、パンフレットも読まない。いわんや紀州頼宣や家光・春日局のたぐいが鎌倉にもゆかりがあるなんて、想像だにしないだろう。では、生糸貿易などで莫大な財を築き、三渓園を創設した地元の実業家・原三渓は、これらの建物をただ金に飽かして、自己満足のためだけに買い集めたのだろうか。



2020.2.1時点
 「内園」には茶室・茶亭のたぐいがおびただしくあり、いくつかはこれらの希少な古建築を連結し、政界・財界の風流の士を茶事に招いて披露するなど、三渓はじっさいに利用した。とくに身分の高い客を招待するにはそれなりのもてなしが求められるわけだし、かれにとっては美術がそれにあたった。建物のレベルが高ければそれだけのクラスの人士がかれのもとに集まった、というわけだ。また庶民のためには「外苑」に梅などを植え、茶屋を開いて遊覧を勧めた。

 三渓園にはこれらのほかにも、仏教関係の古建築がある。シンボル的な存在の旧燈明寺三重塔は内苑の丘の反対側、「本牧の四つの崖」を形成する第二の丘の峰筋にあり、関東にある古塔では最も古い1457。とはいえ、もともとは京都府南端・奈良に近い木津川市にあったもので、奈良時代の創建とつたえるが、いまは神社となった旧地にのこる十三重石塔や、本堂跡にたつ収蔵庫にある仏像は鎌倉後期だから、その全盛期には叡尊一門にも関係があったかもしれない。

 近世に荒廃し日蓮寺院となったが、ふるくからの所縁寺院ではなかったためか、無住となるなどしてさらに腐朽が進み、大正期には塔、戦後の台風で大破し解体部材となっていた本堂1457もここに移され、慎重に復元整備された1982。広大な「外苑」の谷戸や峰筋に三渓がたてたいくつかの亭は大正震災などで失われ、文化財的価値が低いものはそのまま再建されなかった。コンテンツを補ういみから戦後もいくつかの建物が移築または再建され、近代的な茶亭・記念館なども営まれている。


 塔のたつ崖(bluff)の絶頂部にある松風閣は、三渓の義祖父にあたる原善三郎がさいしょにたてた別荘があったところ。いまは廃墟として煉瓦の基礎部分をのこすのみだが、側らにコンクリで展望台として再興され、石油コンビナートのむこうに杉田あたりの海や、よく晴れていれば富士山がながめられる。東京からみる富士山は丹沢にさえぎられて白髪頭しかみえないが、横浜港ふきんだと大山のはずれから胸のあたりまで、藤沢・鎌倉あたりだと腹くらいまでは見える。距離はたいして変らないが、方角の差だ。

 もちろんどこも家やビルが建て込んでるから、あくまでもごく限られた展望スポットやタワーマンションの上層階から、って話だけど、近代化いぜんは北斎がみたように、もっと多くの場所からみえていた景色だ。C.ドビュッシーを感激させた富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」は、本牧あたりの海。北斎の習作には崖がえがかれ「本牧」と明記されたものがあるらしい。

 歴史をのこすむずかしさは、ただ遺物を保存すればいいというものではない。理想としては「原地保存」なんだろうけれど、理想や原則はだれでも語れるもので、達成とは別。高松塚の壁画をむざむざ腐らせた者が、くちばしをさし挟むような話ではない。都市開発はとまらないし、風光はかんたんに壊れ、毀したものはそれがだれかを悲しませることに気付かない。高層マンションなんかを買って、「ついに自分だけのものになった」と信じ込んだ部屋からの絶景が、さっさと新築マンションに遮られたりする。涙ながらに環境権・景観権をうったえたところで、そんなものは自業自得というべきなのだ。


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