トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第367号 


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もちださんの鎌倉リポート No.367(2020年2月19日)



No.366
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八聖殿


 本牧の八聖殿は現在、郷土資料館になっている。むかしの漁具や農具の展示ばかりではおもしろくないから、本牧の街角の貴重な古写真や昔の漫画雑誌なんかを並べた「なつかし」コーナーがあったり、子供向けにカレイド‐スコープやけん玉、パズル、鉱石ラジオの実験などがあったりして、半ば児童館か福祉会館といった趣き。学芸員さんも気さくで、ちゃんと大人向けの説明もしてくれるし、押し花がはいった手作りの栞や、よその博物館のチケットなんかもらっちゃった。

 もともとは戦前、安達謙蔵(1864-1948)という憲政会の大物政治家が「若者の精神修養のために」とつくり1933、横浜市に寄附1937した公園の講堂。内外の文化人の講演会をおこなったり、自分の趣味の詩吟大会をひらくなどした。とくに宗教施設ではなかったし、「哲学堂」のように専門の哲学研究者によるものでもなかったから、八聖なんていうのもおおかたハッタリなのだろうが、有名な長崎平和像とか、早稲田の大隈・旧都庁(国際フォーラム)の太田道灌像なんかをつくった、昭和の名彫刻家たちが競作した銅像・木造がいまも遺されており、無料で見学できる美術館でもある。



手前は切断古民家・むかしの電話機・パズルなどのコーナー
 八聖は演壇の上部にならべられ、左からキリスト(清水多嘉示・作)・ソクラテス(藤川勇造)・孔子(北村西望)・釈迦(田島亀彦)・太子(朝倉文夫)・弘法(長谷川枡蔵)・親鸞(長谷秀雄)・日蓮(日名子実三)であり、真ん中に神鏡(香取秀真)がおかれる。

 神鏡が中心にはあるものの、演壇の講演者は始終けつを向けるわけだし、とくに崇拝色があるわけではない。安達の著「十年間の八聖殿」1943には、「もっと神道の神様を入れろ」という批判の声もあったというが、内務大臣にもなり、国際人を気取る安達は偏狭な国粋主義には批判的だった。明治天皇もご誓文で「智識を世界に求め」「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」、と文明開化をうたっているじゃないか。当時の文化人は天皇制にも神道にも、当然国際文化が包合されるものと考えていた。

 現代人はすぐに戦前の神道や天皇制をオカルト的なものとみなしたがるが、それは妄想であって、そもそも帝国主義とは天皇制や大日本帝国のことではなく、ロンドンに住んだマルクスがみた大英「帝国」、つまりイギリスとその広大な植民地経営のことを指している。そのマルクス主義にも侵略戦争があり収容所群島はできたのだし、アメリカ民主主義でも有色人種は差別・屠殺され、フセインやビンラーディンを公然と処刑・暗殺する。ただ、それらを逐一批判してゆけば、しまいには「米帝国主義は日中共同の敵」などとと口走ることになり、鬼畜米英を唱えた戦前思想と等号で結ばざるをえなくなる。ナチスとはNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(国民的社会主義者によるドイツ労働者党)であって、現在の天皇制よりはるかに狂信的サヨク思想に近い。天皇制とは、もとよりサヨク思想(ゾチアリズム)だったのだろうか?



矩(のり)を超えぬ晩年の孔子・毒杯を受け入れるソクラテス
 円覚寺の大梵鐘に巨大文字で書かれている「風調雨順、國泰民安。皇帝萬歳、重臣千秋」。これはいっけん元寇直後に国家意識が高まったようにも読めるが、じつは禅僧がこうした文言を書くのはごく日常的なことで、筆者・西澗子曇をはじめとする本場の高僧たちは、唐土においてもやはり、おなじように国家や皇帝を称えていた。遼や金・元と戦った宋では、狂信的な国家主義を標榜する新儒教「朱子学」がはやり、宋学として禅をとおして同様の思潮がつたわった。

 したがって北畠親房や楠正成の強硬な尊王運動や、鎌倉武士の玉砕的な最後なんてものも、ありもしない古代の極右思想がとつぜん燃え上がったなどとみなすよりはむしろ、宋学伝播の影響と考えるのが自然だ。いまこそ君側の奸を討たねばならぬ、草莽よ立ち上がれ。尊王理論をつきつめれば、反政府思想も当然萌芽する。桜田門外の変も、2.26事件も、たぶん同じ。鎌倉幕府も江戸幕府も、いわば自らが導入した新思想が勝手にひとり歩きしていった、その果てに滅んでいったのだ。

 「亜細亜のために列強と戦い、世界に尊敬される日本になろう」などといった戦前思想も、けして古事記にかいてあったものとは思われない。そんなものが神道思想だというなら、おそらくそれは宋学はもとより近代西洋思想だったり、サヨク運動だったり、・・・文明開化や大正デモクラシーを通じてひろがった新思想と、あきらかに習合していた。この八聖殿の無節操なオムニバスのように。そしてキリスト教徒も仏教徒も民主主義者も詩吟好きも朝日新聞も社会大衆党も、こぞって聖戦万歳をさけんだのだ。



「漢城先生安達謙蔵頌徳之碑」。三行目に「内鮮融和を図り人心を導く」云々
 安達謙蔵は「漢城」(李朝時代のソウル)を雅号とし、初の諺文(ハングル)新聞「漢城日報」を創刊するなど李氏朝鮮の開化に尽力。ただ日清戦争に勝ち、独立門までたてた朝鮮人が、いつまでも恩人を恨み、旧来の民衆虐待にこりかたまるのは「朝鮮王宮内の事大勢力が元凶」であるとの考えに至り、言論人でありながら三浦梧楼とともに閔妃殺害事件にも参与した1895。

 もちろん土人は、じぶんたちに不潔な泥水を飲ませたまま、執拗に改革をはばんだ旧守勢力の死を祝い寿ぐどころか、「韓国文化にけちをつけた外国人」に激昂し、120年以上たった今でも、昨日の事のようにいきまいている。たとえば排泄物を食べている重度の認知症患者だって頭ごなしに止められたらプライドが傷つき、怒って暴れだすだろう。善意であろうが相手に通じなければただの独りよがりにすぎず、「いつかは正気に戻り、俺の真意が理解される」、なんていうような「いつか」なんて存在だにしなかった。「漢城」なんて号は思い上がりでしかない。

 安達はなぜか日本では人気があり、やがて代議士に連続当選。普通選挙下で「選挙の神様」とさえよばれ、内務大臣などの要職にむかえられる。挙国一致体制を唱えたものの、やがて無意味な主導権争いから党を抜け、太平洋戦争が始まるとあっけなく政界を引退、八聖殿の番人として余生をすごしたという。「十年間の八聖殿」には、対米戦争の真っ只中にありながら、詩吟の効用とか、こんどは故郷の熊本に菊池武時・加藤清正・細川重賢ら三賢をまつる三賢堂をつくりました、などと、とりとめもない身辺話が数多くつづられている。いまでいえば、杉原千畝とアンネ‐フランクとマザー‐テレサの像をまつるようなものなんだろう、戦時中に。

 民主主義は、人々の最大公約数しか掬い取らない。かりにまじめな政策論争があっても、幼稚なマスコミには全く理解できず、たとえ雷がなってもcovid19が流行っても十年一日、・・・なにが政局だの、かれが疑惑だのと推理や詐話をまじえた毎度おなじみの【ワイドショー政治】に矮小化し、けして市民には伝えない。開戦前夜の新聞には「南方から子供達に、嬉しい野球のボールが届きました」。戦前・戦後のひとびとのみていた同床異夢は、たぶんだれが首班になったとしても、変らずおなじ結末をもたらしただろう。



「よい豚の国にしてくれるから好きだ」「僕達、喜んでゐるのですよ」
 古民家の切断展示のうちの古ぼけたキャビネットのなかに、漫画「のらくろ決死隊長」1938の復刻版が隠すように置いてあった。作者の田河水泡は鎌倉文士・小林秀雄の義弟。おなじころ「翼賛一家大和さん」(朝日グラフ)を連載した長谷川町子は弟子。こども向けだけに残酷な戦闘シーンはなく、敵の豚兵が自分で埋めた地雷の場所がわからなくなり、「踏んで見るよろしい。すぐ分かる」「私、踏むあるぞ」と自分で踏んで自爆するギャグになっているし、宙を舞う豚兵たちの表情もなんともとぼけている(図左)。

 また、利発な豚の子供たちが慰問袋を抱えて、のらくろたち「猛犬軍」に感謝するシーンも(図右)。いちぶの台湾人が国民党の独裁を批判して「犬が去って豚が来た」というのは、あきらかにこの漫画を指している。のらくろたちが追い払った従来の「悪い軍隊」「豚勝(とんかつ)将軍」とはすなわち蒋介石ということになる。日本が中国を「よい豚の国にしてくれる」、・・・そんないわれはどこにあったのだろうか。

 「亜細亜は感謝している」という、終戦前のひとびとの思いこみは、この通りだった。台湾人でさえそう記憶するひとがいるのだから、当時の日本人にも多少の実感や、まんざらでもない手ごたえはあったのだろう。ヒューマニストであるのらくろは、なぜ戦ったのか。それが「正義」だったからだ。日韓関係を崩壊にみちびいたのに、いまなお捏造記事で韓国人に感謝されていると思い込むばか同様に。しかし、それは真の善意だったのか。・・・戦時のマスコミは、現地に悪意ある贋の情報をリークして意図的に暴動をひきおこし、戦端をひらこうという特務工作にも、さかんに従事してきたのだから。



キリストと聖観音(火炎光背などは闕失)
 私は個人的に慶派があまり好きではない。迫真的であるにしてもあまりに人間的すぎるから。夢幻的な平安仏の霊性はうすれているし、むしろ鎌倉末期の、宋風に傾いて写実性がゆるんだ感じのほうが、まだましとすら思う。ルネサンス絵画も同様で、前期の霊性はラファエロのころにはだいぶ人間化してしまう。それはそれで美しいとは思うけど、人物の頭光はちっちゃい天使の輪みたいに退化していて、もはや裸の人間にすぎず、崇拝の対象ではなくなってしまったかのように見える。

 八聖像が、なんとなくありふれた、いなかの町角や会社のロビーにたつ見知らぬ人物の銅像(誰?・・・笑)のように見えてしまうのは、まさにその点からだ。人間は万能ではない。仮に「神は死んだ」としても、人間は神に代りうるものなんかじゃないのだ。臨済録に「道流(*修行者たち)よ、仏に逢著すれば便(すなは)ち殺せ」といっているのは、未熟な者が安易に見出だし得るような神仏(悟り、正義、万能感)は本物ではない、そんなものはとりあえずいったん捨ててみるがいい、ということ。神仏を全否定しているのではなく、神仏の名を借りた一個人、あるいは世間一般の愚かな自我・自己愛・因習をすてろ、というに等しい。

 八聖像のはしっこには別に、戦後まで鶴見にあった遊園地「花月園」内の、「大入り弁財天」に飾られていたという聖観音像が置かれている。少女歌劇場わきの池にたつ弁天堂には、ほかにも運慶とつたえる弁天像、水中廻廊には有名画家たちの絵馬なども飾られていたらしく、庭園ギャラリー的な遊覧施設だったのだろう。この像は根岸にアトリエがあった日本画家・下村観山の兄で、能面作家としても知られた下村清時(1866-1922)が大正時代につくったものとか。デフォルメがつよく、なんとも前近代的だが、昭和の力作などよりも、私はこっちのほうが好きだ。

 そもそも花月園遊園地1914のあった場所は、鎌倉末期の幻の巨大寺院だった。レポ264で紹介した、金沢文庫が所蔵する古地図「建長寺正統庵領・武蔵国鶴見寺尾郷絵図」によれば、「寺」(現・曹洞宗総持寺)「祖師堂」「開山塔」「諏訪(社)」「門前寺内四十九院」などとしるされており、遊園地は子院「小池堂?」の跡に相当する東福寺子育観音(真言宗)の境内にひらかれた。絵図がぼろぼろなので読みにくいのだが、「小池」が正しければそれが弁天池にあたるのかもしれない。開業当初、園内には鳥居や五重塔などもあった。また大正震災の供養のため高村光雲作の本尊を安置した釈迦堂もたてられ、聖観音像もおなじ時期、観音堂を計画して作成されたという。こんなかたちの寺の復興も、かつてはあったのだ。


 その昔、八聖殿のかたわらの小高い藤棚のあたりには、異国船を見張る鳥取藩の遠見番所があった。戦時中は高射砲が置かれたとも。冬の日は低いから昼でも水面を銀に変え、遠い貨物船をレーダーにうつる影のように浮かびあがらせる。終戦ころまでは足もとまで海がつづいていた。

 戦争を語るのはむずかしい。いまも狂った教職員らが自衛隊員の子供を吊るし挙げにして絶頂の快楽をえているが、それで平和が達成され戦争を抑止できるとは誰も思わないだろう。文化大革命で自国民一億人が死んでもなんとも思わない国と、原爆や通常兵器、人間の鎖などでやり合っても意味はない。彼我の人道を唱えるなら、殺さずに14億の暴走を思いとどまらせる方式を具体的に考える脳容積の進化がひつようだ。「よい豚の国にして」やるなんて、口で言うのと実現するのとでは、全くちがうのだ。

 目標と達成をとりちがえ、玉虫色の希望や理想を説けばとたんに「やり遂げた」と思って威張りはじめる。往々にしてそのような、「正義」という名の自慰習慣にふけるのはエリート文化人。そして庶民に間違った実践を強要し、失敗すればその責任をまるまる庶民に押し付け、まるで他人事のように、すずしい顔で評論し断罪したりする。自分はつねに正しい特別な人間。自分の思い通りにならなかったら、それはすべて「愚かな日本人」のせい。何もかもすべて「他人が悪い」のだ。それを洗脳教育とかファシズムの本質となづけるなら、あの日の狂気はけして過去の歴史に収束したわけではなく、戦後も今も、世界中のあらゆる場所で、正義づらをしながら、ずっと続いている。


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