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もちださんの鎌倉リポート No.368(2020年2月27日)



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地図


 この複製古地図は去年の夏、とある骨董市で買った。まあ、コピー代だと思えばいいか、という値段。内容は鎌倉市立図書館HPにのる「古地図10」に酷似しており、絵づらは違うが、くわしくはそちらをダウンロードして拡大して見ていただければ大差ないと思う。刊記はないが鎌倉宮(明治二年草創)があることからオリジナルは明治頃、観光みやげとして売られたものらしい。

 なんどか紹介した近世の紀行文には、鎌倉は名所といっても畑ばかりでこれといって見所がない、という批判の声もおおかった。で、この地図の特徴は、当時すたれていた谷戸の古地名や廃寺などの口碑を可能な限り蒐集し、廃寺も復元して記載していることだ。もちろん一種の仮想現実であって、かならずしも鎌倉時代ないし室町時代といった「特定の時期」を再現して描いているわけではないのだが、従来の擬古図よりコンテンツが拡大していることは間違いない。地図の作者には、未知の史跡や地元ならではの蘊蓄を駆使し、なんとかして畑のなかに、最盛期の鎌倉をイメージしてもらいたかったのだろう。


 いまでは失われた無量寺(現・交流館)や西御門太平寺(尼五山)・報恩寺(義堂周信)などの寺もえがかれ、なかにはどんな記録にもでてこない、わけのわからない寺も。亀が谷の富光寺というのは薬王寺(夜光寺)のことらしい。英勝寺や高松寺といった近世由来の寺は除かれているようだが、「しかん(智岸)寺谷」の真下の空間に描くべきはずの寿福寺を忘れるなど、まぬけな点も散見される(右)。
 
 もちろん明治の知識では限界もあった。永福寺跡のような有名遺跡を「志うふくじ」なんて書いてあるし(下)、五山の塔頭をはじめ実朝の大慈寺、あるいは中巌円月の「語録」にある藤谷の寺(崇福禅庵)やいまだ場所不明の「鎌倉万寿寺」(十刹の内)・尼五山など、中世文献にみられる重要寺院も当然欠けている。

 また、盛久の松のように今は枯れてしまった名所もあれば、鶴岡の大塔のように明治はじめに撤去されたものも(上)。段葛は二の鳥居より下手に描かれ、並木は古写真にみえるとおり松。その下手はすぐ海が描かれている。いぜん指摘したとおり、近年の研究では、中世には滑川の河口付近の二重浜堤(砂丘)のあいだに、材木座の木材をうかべた貯木場としての浅い入り海(ラグーン)があったのでは、という意見がでてきている。いまは埋まって跡形もないが、有事の津波なんかでは、冠水の指標になるとして注目されている。


 鎌倉市立図書館HPにのるこれとは別の古地図【図5】などをみると、建長寺「仙人沢」「カラタセン地蔵」とか「日蓮るざい出舟場」、いま六地蔵がたつ「千代塚」、染谷太郎伝説の「長者塔」、鉄の井ちかくの「和田義盛墓」、長勝寺ならびの「和田ノ屋敷跡」、「絹張峠」なる古道、梶原の「鏡立松」などがみえ、また移転した「毛利季光墓」「人丸姫塚」ももとの位置にえがかれる。上行寺の瘡守稲荷は1799年にはすでに流行っていたことがわかる。幕末から明治初期には、なお多くの言い伝えが存在したようだ。

 「カラタセン地蔵」とは、心平寺の山号が佉羅陀山(*地蔵浄土の名)ということから心平地蔵と思われる。この心平寺のいわれについては、いま方丈の庭にレプリカがたつ肯山聞悟(?−1346。蘭渓の孫弟子)の「建長興国禅寺碑」(「新編鎌倉志」所引)にも書かれ、北条時頼がこの地はもと刑場で「先に地蔵菩薩の祠」があったとして、建長寺仏殿にも佉羅陀山を象ったひな壇をつくり、その地蔵を本尊として左右に千体地蔵をならべたとの記述がある。また、まぎらわしいものに刑場に消えた平家伴類の骨を集めて粉にしてつくった「原田地蔵」という、別の言い伝えもあり、これは水戸光圀のころには回春院の奥の山の上に埋めてあったとか。位置的には「地獄谷埋め残し」「朱たるきやぐら群」にまつわる伝説なのかも。「仙人沢」は勝上巘の西というから、いまのグラウンドあたりか。・・・

 鎌倉研究には功罪もあった。水戸光圀はかたくなな「理」と忠孝を重んずる新儒教の立場から鎌倉の顕彰をこころみ、葵の紋所を背景に寺社秘蔵の宝物や文献を綿密に調査させたが、口碑・迷信にはきびしい目をむけた。後続の儒者詩人たちもまた、過激に歴史を論評し、仏教を嫌い、義時や尊氏を国賊として憎むことに、より専心するようになっていった。ありのままの民俗誌を専門とする在野の国学者も数多くおとずれたが、なにかを精査するだけの権力はもたなかったし、いかんせん自費での短い滞在ではさほどの新知見は得られなかった。


 迷信にけちをつけるのは簡単だが、専門家を名のる者が勝手に自説を押し付けて口碑をミス‐リードしたり(たとえば「義経は韓国人」とか)、伝説や信仰そのものが毀損され、失われてしまうことにも問題がある。口碑の重要性は、たとえば洲崎の古戦場について、たしか大森金五郎博士が上町屋天満宮を住民が「洲崎の天神」といっていたことを発見して今日の通説を導いたり、旧来の「親王屋敷(若宮大路幕府)」の伝承とは別に、畑のなかにあった「宇津宮稲荷」というささやかな祠の呼称から宇都宮辻子幕府を分離特定したりする業績をあげている。

 戦前のフィールド‐ワークのおもなものに、赤星直忠(1902-1991)らの「鎌倉めぐり会記録」(ガリ版刷り。活字化された復刻あり)や、石野瑛(1889-1962)による論文(国会図書館デジタル)などがあるが、古瓦や写経石があちこちに落ちていた、なんていうのも遥か昔の話。現在、旧市内のほとんどは住宅に埋め尽くされ、もはや大規模な発掘は期待できない。コンクリの擁壁やアスファルト舗装の下になにがあるかなんて、そうそう知ることはできないだろう。鳩サブレーの豊島屋もむかしは「登録商標・名物旧跡古代瓦煎餅」だったそうだけど・・・。

 そもそも中世の遺構は、近世の建物ほど頑丈なものではなかったし、隣接する江戸時代には農耕技術が極度に発展したこともあり、地表面は農地造成や土地改良などで相当程度攪乱され、残りにくいものになっている。発掘が進めば必ず重要ななにかがでてくる保証はなく、たとえば周辺の家屋を立ち退かせれば頼朝屋敷の間取りや寺社の伽藍配置が確実にわかる、というほど単純な話ではないようだ。直近の発掘成果は市役所の3階文化財課で小冊子を配っており、バックナンバーは市のHPでもダウンロードできるのだが、公文所跡近くのドブの遺構から大量の箸がでてきたとか、井戸枠発見とか、せいぜいそんな話ばかり。人気タウンなどという【ブランド力】には、いうほど価値はないのだ。


 このような「往古図」が描かれた背景には、世界遺産審議会(イコモス)にも歴史的価値を否定され、コンテンツ不足を人気スイーツや隠れ家レストランで埋め尽くそうとする現代と、ある意味似通った危機感もあったのだろう。ただ、どれだけインスタ映えするおしゃれスポットを発信し、観光客の獲得に成功したところで、学術的価値の証明(意味づけ・言語化)がなければ歴史都市としては評価されない。きちんと【言葉】で説明できなければ、鎌倉の価値は「いわずとも自明」であるどころか、むしろ「畑ばかりでこれといって見所がない」とされた最初の状態に近いのかもしれない。

 鎌倉の価値をはかるのに、今後どんな「要素」がひつようか。たとえば日蓮寺院にとりたてて古い文化財がないからといって排除してしまっては、中世思想の下部構造がになってきた意味を充分に説明できず、文献や出土遺物に紐付けられる個々のストーリーの有機的なつながりを欠いてしまう。外国人に世界遺産として認めてもらうことは逆に難しいと思う。

 だいいち京都なんかに比べ、半日・日帰り観光を想定した鎌倉の周遊範囲はせますぎる。「隠れ家レストラン」や「四季折々の花暦」「古寺社」「文化人村」「路地のノスタルジー」なんかにしても、首都圏では街歩きのごくありふれたアイテムにすぎず、なにも鎌倉にだけあるというわけではない。もともと何の知識も興味もない子供や、イコモスの中国人の意見のほうが、むしろ客観的にありのままの姿を語っているのだろう。


 戦前の哲学者・西田幾多郎は、「迷路の如き鎌倉の谷々は・・・人間の罪悪の歴史・・・を具象化して居る様に思はれる」とのべた。罪悪かどうかはわからないが、三方を壁にかこまれた鎌倉の地形は、たしかに自閉的な島国根性をあらわしているかのようだし、ひらかれた海は海外文化の限定的な受容(受け売り)を示しているようにも見える。

 真ん中に立つ八幡宮は日本人の思考・情念(パトス)の原型となっている「神道」をあらわす。「将門記」で、平将門に新皇の位を授けたのが皇室の宗廟・八幡宮であり、その御使が皇室の忠臣であり祟り神でもある北野天神だった。八幡宮は皇室および源氏・平家に共通のご先祖様である応神天皇とされており、イエの祖霊が統治の権威を保証する装置とされていたのだ。頼朝もまた、幕府の象徴にまずこれをえらんだ。

 霊的な統治につづいて、仏教による運命論的支配がかさなる。「無」や「来世」の信仰は民衆に諦観・無力感を植え付け、「現世は仮のもの」などと、日本人の思考に現実逃避にもにた独自の習性(エートス)をうんだ。顕密体制・本音と建前・偽善と受忍・・・。やがて日宋交易で宋学(儒教・朱子学)がやってくると革命、すなわち言葉の論理(ロゴス)が定着してくる。さかんな交易は、商人などの庶民階級の台頭を意味しており、禅宗のみならず日蓮宗をはじめとする日本中世の宗教改革の基盤となったし、朱子学は下剋上を論理付け、はては徳川・明治政府による強固な「封建支配」にも利用された。そのいみでは、上のほうにあるおびただしい数のやぐらや石塔の発生、下のほうの和賀江島や日蓮寺院、前浜の庶民遺跡なんかも、けしてゆるがせにできない意味をもってくる。



 都市の歴史は、かならずしも残された遺跡だけが語るのではない。海も語るし山も語る。古文書なんて面倒くさいし、むずかしい言葉も嫌われる。でも誰かかやらなければこの街の、この景色が現代にいたる日本人の歴史的形成や、その世界史的な意味を解き明かす鍵になることは、容易に理解できないだろう。「なんとなく、わかったつもり」でいるだけでは、たぶん駄目なのだ。

 古都と名がつけば、なんとなく美しいイメージがある。無限の文化財にあふれ、非日常的な四季の移ろいがかんじられる、他とは隔絶したパワースポット、鎌倉武士のこころのふるさと。でもほんとうにそうだろうか。多くの人が期待する頼朝とか義経とかに直接むすびつく遺構はないに等しいにもかかわらず、実態とは乖離した幻想のみによって絶えず称えられ、美辞麗句に織り成される架空の要素が、メディアの影響下にあるわたしたちの同調意識によってバブル(泡)のような価値観を形成してきた。

 私にとっては、そんなものより名もなき碑文とか、だれも読まない地道な研究論文とか、じもとの人・へんな意味で「作家」ではない一般旅行者らの、率直な意見のほうが、よほど興味深い。ほかの都市と、どこがどう違うのか、あるいは同じなのか。なにが足りなくてなにがおおいのか。・・・せっかくいいカメラを買っても、「プロ」のアングルを忠実にまねるだけじゃもったいない。


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