トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第369号 


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もちださんの鎌倉リポート No.369(2020年3月7日)



No.368
No.370



石仏を捜して・1



伊勢原市・石倉橋
 頭巾とよだれかけを着けたお不動さん。きかん坊の赤ちゃんにみえるから不思議。よだれかけの装束はほんらい「身代わり地蔵」的な観点から、おもに子育て信仰のある地蔵にほどこされるのだが、しだいに他の仏像にも敷衍していったのだろう。

 お不動さんの役割は悪魔調伏であって、主に神通力を売り物にする山伏を通じて庶民にひろまった。不動の真言は「暴虐にして怒れる神に申し上げます。もろもろの敵を粉砕してください!」という物騒なものらしい。不動がひきいる眷属には五大力明王のほか、八大童子・三十六童子・四十八使者などがあるという。その総大将がオフに赤ちゃんプレーとは・・・。

 経典での初出は「不空羂索神変真言経」で、不動尊も羂索(ロープ)をもっており、これは不空羂索観音のもつお助けのロープというより、敵を縛る武器。能の「舟弁慶」で、荒れ狂う海面に跳梁する平知盛の怨霊を、「中央大聖・不動明王の、索(さっく)に懸けて」と、弁慶が法力で縛りあげる見えない綱、あれだ。右手には剣をもつが、この像はすでに両方を失っている。素手で新型コロナに効くかどうかは知らない。



横浜市・大熊地蔵尊
 こちらはほとんど「赤ずきん」、というより「縛られ地蔵」的なお地蔵さま。付近の開発によって畑の一角に堂をたて、集められた地蔵たちだ。おなじサイズのは六地蔵の一具。石仏のおおくは安山岩(おもに関東)や花崗岩(関西)といった比較的硬い石をもちいている。したがって鑿(のみ)では削れず、鏨(たがね)で少しづつ、丹念に打ち欠いて刻むのだが、それは仏師ではなく石大工の仕事。不細工なものが多くても、そこは致し方ない。

 お城マニアによく知られている「穴生積み」のルーツは古代の穴穂部からきていて、はじめ古墳の石室などを細工する「穴掘り部」、今でいう土建大手のようなものだった。それがやがて寺院の石垣から築城へとつづいたらしく、かの安土城には「石部神社」も付属している。安土はもともと佐々木氏の本拠地。その苗字も古代の「沙々貴山君」から継承したもので、語源は「みささぎ山」、つまり陵墓の建築・守衛のための品部をひきいた古代豪族であったから、神社の存在は、その配下の部民として古くから専門の【石工集団】が土着していたことを示す。そして鎌倉後期、硬い花崗岩にも適応した、こうした関西の石工技術者を積極的に関東にもたらしたのは、かの忍性といわれている。

 硬い石はもちろん風化には強い。ただ直射日光による温度変化や水分の氷結・塩類の結晶化などにより膨張率のちがいから表面がタマネギ状に剥がれる「ポップアップ」や、苔やカビなどの侵食によって、酸化・分解・融解などの化学変化が著しく加速する場合もある。いぜん仁和寺墓地でみた親王墓の印塔では、せっかくの銘文ぶぶんがずいぶん剥がれ落ちていた。地域の象徴としてのこされているような地蔵には、銘文に江戸期の「年号」「村名」などが記されていることが多い。ただ、このように縛られてしまうと銘文が覆い隠され、価値判断がしにくくなる。もちろんこれはこれで味。解説板などを置くなら、銘文も正確に記していただければありがたい。



川崎市・妙楽寺
 つばめの雛鳥みたいな口をした奪衣婆。石造の閻魔十王一具のなかにあった。これはもう、怖いというよりは怪獣的な可愛さまでただよう。俗に強欲老婆を「正塚のばあさん」というのはここからきており、「正塚(しょうづか)」は「三途川」がなまった「葬頭河(そうづが)」から転じたもの。

 十王信仰はほぼ唐土の偽経に由来し、道教の神なども含んでいる。偽経は日本でもつくられ、地蔵十王や十三仏信仰とむすびつき、より仏教化して庶民にひろがった。奪衣婆はその名のとおり亡者の着物を奪う下級の女鬼にすぎなかったが、庶民の人気はすさまじく、数ある女鬼としては鬼子母神と支持を二分。いつしか「閻魔さまの妻」、といった俗信すら生まれ、仏像の大きさなど実質的地位は閻魔に次ぐNo.2にまでのしあがり、単体の堂すらつくられた。鎌倉円応寺の奪衣婆もそこそこ存在感があるが、復興像なので鎌倉時代の当初からあの大きさだったかはわからない。

 近世の「関所」では「入り鉄砲に出女」などといって、人質制度のとばっちりで女にきびしく、とりわけ「人見女」と称する老婆らが酒手・心付けほしさに嫌がらせのような詮議をした。男は「通りまーす」といって簡単に通れたところも多く、迷惑したのは主に女性。いちど変なルールができると、木っ端役人はどこまでもエスカレートするし、それに便乗して得意がる手合いもわいて出る。「正塚のばあさん」という名が一方で因業な嫌われ者をも意味したのは、おそらくこれの隠語からきているようだ。



久末妙法寺の義民地蔵(川崎市)
 この義民地蔵のある周辺地域には、義民供養塔をはじめいくつもの記念碑がのこり、うしろの卒塔婆の数から見ても、地元子孫たちの記憶はいまだ鮮明でただの伝説ではないことを示している。元禄六年1693、ここに采地をもつ旗本・佐橋佳純(?-1705)なるものが晩年、突然年貢の倍加を告げた。その抗議のため四谷の屋敷にむかった延べ19名もの村人は、その都度殺害されてしまう。佐橋にお咎めはなく、むしろ一揆同然の不行届があったとして村の名主に厳罰がくだる。・・・

 歴史上の詳細はなお不明とされ、じっさいどのような背景があったかなど、ナゾは多い。ただ村には不可解な怒りだけがのこった。幕末までこの地を治めた佐橋一家は典型的な「遊興道楽の悪代官」と嫌われ、その墓石は維新によって跡形もなく粉砕されたとつたえる。佐橋家は三河以来の古参の旗本で、先祖が家康に弓を指南したのが自慢。

 当時は犬公方綱吉の治世(1680〜1709)。兵農分離以前の戦国時代であれば侍でもあった村人の殺害など日常茶飯事だったろうが、すでに天下太平の世。庶民の墓石は綱吉の死後10年たらずして登場した「暴れん坊将軍」吉宗の代に圧倒的にふえるので、それいぜんは独裁者家光嫡系のぼんぼん将軍として、まだ虐政がまかりとおっていたのかも。「生類憐れみの令」との整合性を、いったいどう受け止めるべきなのか。・・・安産の神様である犬を祭ったかいもなく、江戸将軍家の子孫は絶えて、やがて遠い御三家から「人柄のいい」将軍がえらばれるようになる。



庚申塔(藤沢市、鎌倉市)・国宝「辟邪絵」
 薄く浮き彫りされた石仏の多くは、厳密にいえば「石塔」に分類される。墓塔および庚申塔のたぐいだ。左は帝釈天に表徴された庚申塔で、一般的には「青面金剛」に集約されるのに対し、寅さんの舞台として名高い「柴又の帝釈天」をはじめとして、とくに日蓮系の法華神道では帝釈天として表わされた。庚申信仰は主に寿命を掌るから、もともとの道教信仰では「天帝」であり、これを帝釈天と解釈したものであろう。

 青面金剛はもともとその帝釈天の眷属童子とか、病魔をあやつる夜叉で護法善神に化した者とか、それらしく位置づけられることもあるが、その実体はさだかではないらしい。平安末期の「辟邪絵」にでてくる天刑星がその正体だともいう。「絵」では(悪い疫神としての)牛頭天王を酢につけて頭からばりばりと、キュウリのように食う姿にえがいている。この星神は「紫薇斗数」とよばれる道教系の星占いにでてくるもので、(八将神や黄道28宿など)実在の惑星や恒星の運行に基づく通常の星占いとは別の、架空の星(虚星)を用いるタイプのものという。

 青面金剛にもまた、時に人間のようなものを手に吊り下げている図様がみられる。一説に、この原型はヒンドゥーの神「マハーカーラ」(大黒天の原型と同じ)であって、あらゆるものを破壊し、当然人も魔も悪神も粉砕するものとして信仰されたのだ、とする。「マハーカーラ」の正体はシヴァ神であり、これは摩醯首羅とか大自在天とかいって、すでに千手観音や大威徳明王など数々の仏教尊像にも影響をあたえている。「摩醯首羅の如く」、なんて何かにちらっと書いてあると、むかしの人は正直に観音の手や眼の数を増やしたりしてしまったものらしい。



観護寺参道(横浜市)
 平成の東日本大震災では、地震そのものより津波によっておおくの命が奪われた。大正の関東大震災でも津波はあったが、むしろその日の夜の火災によって被害が拡大したようだ。昼間、大八車で燃えやすい蒲団や、ありったけの家財を抱え込んだ鈴なりの避難民が皇居前広場を埋め尽くす写真がのこっているが、下町の空き地(陸軍被服廠跡)に殺到した同様の市民が夜中、予想外の風に燃え広がった火にまきこまれ、逃げ場をうしなった。こうしたばかげた避難のありさまは江戸期のオランダ人も書き残している。

 この地蔵の台座には銘文が刻まれている。「・・・永年衆苦を救い給うと雖も、不幸にして関東大震の災いを受け毀傷を被る。講員堪えざること深く・・・」。さいわいにも村人が死んだということではなく、地蔵の修復についてらしい。あまり良い細工とはいえないが、爪なんかの彫りもよくのこっていてどこが壊れたのかわからない。へんに平べったく稚拙な顔面は、あるいは鼻が欠けるなどして削り直した跡なのかも。

 中国にのこる古い石仏は「石胎塑像」といって、岩盤などを雑に彫ったうえで表面を粘土や漆喰で仕上げたものが多い。唐代などといってもおおくは表面を修復したものだ。タリバーンが破壊したバーミヤンの大仏も同様に漆喰のうえに金箔などを置いていた。日本では石の生地そのままであるため、欠けた場合の補修はむずかしい。・・・「鼻欠け地蔵」をはじめとして、鎌倉周辺には風化した石仏がかなりあるが、「そのままの形が文化財」などという理由で修復の予定はないようだ。



横浜市(佐江戸地蔵尊)・円覚寺墓地
 これは子育て地蔵のご遺体。割れちゃったから地蔵堂に納めた、のだろうか。それにしても、部品がずいぶん足りない。百八やぐらの八十八か所霊場へみちびく「大師道」のみちしるべはいろんなところにのこっているが、当の大師像はあらかた首がもがれている。法王窟の上にある総大将の像も台風の倒木でたおれた。

 石だって永遠ではないが、あるいはそのままでは朽ちないからこそ、力任せに毀してしまいたい衝動に駆られるのかも。さいきん親族間のいさかいなどで、墓石がこなごなに破壊されているのをよく目にする。因業なじじいに復讐したかったのか、日本人なら誰でもよかったのか、そこまでする憎悪のりゆうは定かでないが、近年はやっている五輪塔型の墓石に顕著だ。まんなかの笠(火輪)や玉(水輪)なんかを崩したうえで石同士をぶつければ、相当な破壊力がありそう。古参の村人から執拗ないじめをうけ、放火みなごろしに打って出た「かつを事件」などを思えば、墓石程度で済んだだけ、まだましだったのかも。・・・

 その昔、五輪塔の石は解体して「どんど焼き」の結界石(塞石・斎石)なんかにも転用され、散乱することがおおかった。それにしても円覚寺墓地にあったこの右の地蔵の顔、五輪塔の宝珠(空輪)じゃん。もうすこしデカければスライム、というか永沢君ぽいんだけれど、これじゃまんま擬宝珠(ぎぼし)。


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