トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第370号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.370(2020年3月13日)



No.369
No.371



石仏を捜して・2



網引地蔵・神武寺弥勒窟
 関東の石仏の多くは江戸城の石垣とおなじ色味の伊豆石、つまり安山岩でできている。硬いので比較的保存状態はいいのだが、関東にはわずかな例を除いて、もともと精緻な加工技術がなかったため、石造物が本格的に普及するのは鎌倉後期から。しかも彫刻をするのは仏師ではなく石大工。仏像などの精緻な表現は時間がかかりすぎ、フォルムが歪んだり彫りのあさい雑なものになってしまう。

 奈良には奈良時代から極めて精緻な石刻の技術があり、もちろん花崗岩など石質の違いもあるのだろうが王朝の威信をかけた高度なデザイン・精妙な表現が蓄積され、皇室が衰退する中世にいたってもその余慶が残っていたものと思われる。鎌倉では材木座光明寺につたわった薬師座像1296(国宝館寄託)が、奈良の当尾石仏をおもわせる古典的な作風。いっぽう浄光明寺の網引地蔵は宋風の衣が特徴的1313年。神武寺弥勒窟1290の石仏はアーモンド形の独自の目つきが印象的だ。これは鶴岡八幡宮につたわる木像妙音弁才天の膝下に彫り込みがある「中原光氏」と同一人が造立の旨、裏面に刻まれている。



伝上杉道合多層塔・山崎・浄妙寺の宝篋印塔
 鎌倉での石造物の画期は、忍性(1217-1303)が関東に大和石工を呼び寄せてから、という。忍性が晩年かかわった元箱根石仏群の銘文や、その石塔類のいまだ関西風の様式などから推定されている。関東に来たのが1252年、やがて叡尊の推薦で鎌倉幕府に認められ1262、一大勢力を形成して没するまでの間、奈良へ帰省1288・東大寺大勧進1293・天王寺別当1294などと再三上京しているから、たぶんそのころが石工派遣の一大ピークとなったのだろう。

 塔身に彫られている四方仏は、目に見えぬ塔の中身(中心)が大日如来であることを表徴する。大乗仏教の最初の経典「法華経」では、釈迦が塔(墓・ストゥーパ)のなかに入り、過去仏(多宝如来)とふたり並ぶことで、瓜二つの同一人物であること、仏の不生不滅・永在であることを明かした。時空を延長することで二仏が無数の仏へと発展し、世界は花模様のように仏で充満していることを説いたのが「華厳経」。善財童子が55ヶ所で仏に遭う物語りは「道中すごろく」のルーツにもなった。密教では、中央・大日如来によってその無数の仏を包括し秩序づけ、末端にいるわれわれ人間にさえも、その心の中心には仏を胎蔵しているとし、どのように実践すれば汚れた心を清浄にし、金剛石のごとき【本来の仏心】に至ることができるかを説く。

 即身成仏というと難解だが、ようするにわたしたちのような者でも(本来の仏性が発現すれば、つまり)慈悲のこころをもった瞬間は誰でも仏だ、ということ。秘密の印とかマントラ(呪文・真言)などというものは儀式的な意味でしかない。禅の悟りも阿弥陀の称名も、目指すところは同じだと夢窓国師は説明している(夢中問答集)。



唐糸地蔵窟・百八やぐら大梵字窟・網引地蔵
 鎌倉時代にさかぼる石仏の多くはうしなわれてしまったらしい。左のふたつは鎌倉石(凝灰岩)に刻んだ磨崖仏。そのほか東瓜が谷やぐら、宅間が谷の金剛窟やぐらなどにもあるが、顔などはいずれも失われたか風化して判然としない。凝灰岩は鑿でも容易に彫れる反面、こわれやすいのだ。

 名越唐糸やぐら群にある地蔵窟の前には一対の古式凝灰岩製五輪塔もある。これほど大形で保存のいいものは東漸寺のものや伝・御所五郎丸墓など数少ない。砥石で水磨きしたものか、シャープな線もうかがえる。五輪塔もまた大日如来の形象であり、これを三摩耶形といった。三摩耶とはそれぞれの仏の形を、功徳や救済を象徴する「剣」や「独鈷」といった絵文字の要領で表すものだから、塔(墓)のなかで死者を大日如来と併坐一体化させる、成仏のプロセスを表徴したものにほかならない。つまりこれは「墓石」ではなく大日如来の「尊像」として拝むべきものだった。

 網引地蔵窟のばあい、地蔵の真上に天蓋の痕跡があるほか、脳天直上の山の頂に宝篋印塔が建ち、やぐら込みで全体を塔としてデザインしたことがうかがえる。宝篋印塔もすべての如来の法舎利(宝篋印陀羅尼)をおさめる宝塔をあらわしたものだから、成仏と関わりがふかいのだ。こうした思想は後世の村々の石仏のおおくが板石卒塔婆・庚申塔などの「塔」と習合していることと無縁ではない。さらにいえば、近世の墓石に仏像がきざまれていたり、近年までごく一般的な墓石が縦長で塔の形を継承しているのも、同じ理由があるのだろう。



実物画像はWikipediaより
 美術品にはある時代ごとの理想の型があって、美術品は無意識にそれを【模倣】し個性を喪失する。それを哲学用語では「ミメーシスmimesis」といっている。たとえば「Matt化」などといって、まだ若者たちに「デカ目小顔エフェクト」がはやってる。なんだか「パネマジ」とかいって、顔バレを嫌う水商売の店のパネル写真みたいであまり感心もしないが、なにかにつけ個人情報が危険にさらされる世の中だから、それもSNSで素顔(ないし本心)をさらさないための工夫、一種のアバター(化身)のつもりなんだろう。

 石彫といえばむかし蚤の市で、人造石でできた26cmあまりの、ちいさな「ミロのビーナス」を買ってきた。パリの安っぽいおみやげ品らしく、当初は鼻とあごが大きく欠けていたが、さいわい頭がすこしでかいので、ギリシャ風の小顔に彫りなおせばなんとか治るかも。・・・と思ったのがそもそもの間違い。とにかく石は硬い。強く叩けば割れてしまうし、彫刻刀なんかではまったく歯が立たない。それでも人造石だから多少の粉くらいは出る。とにかく欠けた頤や鼻らしいものを削りだし、ルノアール風のマシュマロ‐ボディをギリシャっぽく引き締めるうちに半年が過ぎ、ついに飽きてやめてしまった。

 いま改めてみれば膝なんかひどく雑で捻じくれているし、腿よりも脛が長かったり、からだの傾き(コントラポスト)もあやしかったりと、気に入らない点ばかり。素人が思い通りに修正するのは最初から無理があったのだ。ただ、いちどはやってみたかったし(笑)、ほんのちょっとでも齧ってみれば、「芸術家」たちの苦労も技術も、少しはわかってくるわけだ。



遺族の像
 さて、建長寺正統院の門前、神雷部隊の供養墓がある墓地のいりくちに、この像がたつ。あきらかに仏像ではない。神雷とは「桜花」の名でも知られる新型ロケット式特攻機、すなわち有人巡航ミサイルの名だ。最高速度はともかく、航行距離がみじかいので、輸送艦上で沈んだり爆撃機から分離する前に撃ち落されたりして、ほとんど戦果がなかった。

 いま出撃しなければ、のこされたきみたちの妻も子も、鬼畜米英に陵辱され、うしろゆびをさされ、つらい思ひをするだらう。ただ、勝利さへすれば、遺族は絶大な名誉とともに【幸福な社会保障】を受け取れるのだ。嗚呼、大東亜共栄圏のために死なうではないか。さァ、いまこそすべての日本人が犠牲となつて、米帝国主義を打倒撃滅する時だッ! ・・・。反米社会主義者が企画した「究極の正義」「理想の社会」とは、けっきょくそんなものだった。

 遺族たちは絶大な名誉どころか、「情報局総裁」をつとめた当の新聞社や戦後サヨクによって「自爆攻撃をおこなった狂信的軍国主義者とその家族」だの「遺族年金をたかる偏狭な靖国右翼」だのと口汚く歪曲され、いわれなき言論暴力にさらされたまま、今も受忍を強いられている。戦後75年、加害者が被害者を執拗に裁きつづける・・・簡単に他人を軽蔑し、強要し、ひとりよがりの喜悦にふける、くそ愚かな「文化」人たち。特攻兵器だけでなく、昭和維新となづけられた【革命運動】もまた、人倫を根底から破壊する発明品、身勝手このうえない「詐術illusion」にすぎなかった。



北鎌倉・材木座ほか
 鎌倉にくるとなぜかひこうき雲に遭遇する。そのたびに「ばかげた正義」に便乗してはしゃぎ回ったマスコミや教員、上司、親類、隣近所の人々の悪意に思いをはせる。他人のしあわせを壊す喜びは、イスラム国にも日本赤軍にも、タレントを自殺させる韓国のSNSにも、古今東西いたるところに横溢している。新型感染症さえ政局に利用し、ひたすら対策妨害にハッスルする野党、どさくさに紛れて「日本より某国が正しい」などとはしゃぐワイドショー。そしてそれを革命だなどと思っている。大人になれ。社会にはもっとつらいこと、理不尽なことがいっぱいあるんだから。人並みに生きられない者は死ね。ざまあみろと無責任に笑いながら、旗を振って送り出したひとびと。そしてそんな【未来社会】の到来に、嫌悪感さえいだきながら、消えていった若者たち。・・・

 ブラック企業にもいじめ問題にも格差社会にもネグレクトにも痴漢教員にも、ただ貝になるだけの和尚たちが、その当時やったことは知れている。宗教はけして救いにはならなかった。だからこそこの時代には、【すぐれた仏像はない】のだ。

 人間は等しくみな間違う。しかし間違いをごまかし続けることは、けしてあってはならないと思う。戦後、反日反戦などをうたいながら、たくみに自己の戦争責任を他人事として韜晦し、天狗の鼻を伸ばすひとびとがいた。つねに自分を棚にあげ、「尖閣諸島は誰のもの」「愚かな日本人は、このままでは必ず滅ぶ」などと、「毎朝」痰ツボのような格言を垂れながら・・・75年ものあいだ、かれらは自慰いがいに、いったい何を発明してきたのだろうか。



宗三寺(川崎市)
 苦笑地蔵だ、とおもってよくみると、笑ってみえたのは上瞼で、涙袋にみえていたのは眸だった。これは昭和四十年に「日本一周早慶対抗自動車ラリー」で亡くなったふたりの若者の追悼記念碑。「時間、燃費、事故の有無で得点を競う」ものだったようだが、事故はリハーサルの帰途におきたようだ。

 宗教にはひとの生死がからんでいる。たぶん幸せだけを与えるものではない。しかし過去を思うことはできる。史実がわすれられていったとしても、紙のうえでどれだけうそを書いても、どこかにこうした過去の形見はのこりつづける。そしてだれかにみつけてもらうのを待っている。忌まわしい悪霊とかんがえるか、なつかしい記憶と思うのか、それは見る人次第。

 いきていたら70過ぎ、最近の若者は・・・、なんていってる偏屈なじじいになってたかも。いやいや、最近の学生も礼儀正しくてしっかりしてる子は多いよ。昔に較べてランドセルも異常にでかいし、読書なんかしなくてもスマホでまいにち、せっせと空気を読んでる。高卒でも三流大学でも、あんたたちの頃とは違って、ずっと賢くなければ生き残れない。マルクスに騙され、明日の革命を信じたり、猫も杓子もビートルズなんか聴いて、ひたすら友情を信じ、好きなだけ夢を追った高度成長の昔より、あるいみずっと生きにくくなってるから。


No.369
No.371