トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第371号 


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もちださんの鎌倉リポート No.371(2020年3月20日)



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鎌倉と世界・1−宗教改革



由比ガ浜カトリック教会
 「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録運動が頓挫して久しい。もともと鎌倉には「復元」にせよ、幕末明治の小京都的な「擬似環境」にせよ、「見せる武家屋敷」のようなものは一切なかったから、推薦文の記述だけで「武家」をイメージすることは、外国人にはむずかしかったにちがいない。そもそも最近の学者は、「大切岸は近世の石切り場」「仁徳陵は誤り」などとマイナス評価の仮説ばかりを言論の自由・学問の良心だなどと心得、内外に触れ回ることで反日史観を形成し、史跡破壊にも多大な口実を与え続けている。

 むしろ多数ある鎌倉〜室町時代創建のお寺やお墓(やぐら)を主体として、「武家の都の《宗教改革》」とでもしたほうがよかったのかも。宗教改革には民衆の台頭や権威の解体、貿易・産業の近代化などのいみあいがあり、現代の世界形成にもつうじるし、歴史的意義や宗教思想がメインなら目にみえないものからも価値をひきだせる。哲学宗教に興味がないのはたぶん、日本人学者だけだろう。



鎌倉雪ノ下教会(プロテスタント)
 たとえば明治に来日した美術史家エミール‐ギメ(Emile Guimet1838-1918、仏)は、日蓮を「日本のエレミア(*旧約聖書にみえる激烈な預言者)」などと呼び、興味をいだいた。欧米崇拝の反日学者から見れば、日本には思想などなく、神道も仏教もみな未開社会の迷信のように思うのかもしれない。「ナチの被害」だの「隠れキリシタンの悲劇」など目先の物語を説いて、したり顔で【正義のがわ】に立ち得意がっているが、当のユダヤ教やキリスト教がなんたるか、考察しようとするひとはすくない。

 ディドロら、キリスト教の独善を告発する流れは早くからあった。ルター(1483-1546)やカルヴァン(1509-1564)は信仰者の立場から旧来の教会を糾弾したが、その門徒もまた、各々の「正義感」にもとづき異端の処刑・奴隷搾取・異教徒の虐殺にくわわった。ギメは日本の仏教や神道を「偶像崇拝だ」などとして全否定する当時のプロテスタント宣教師の傲慢さを批判、なんなら単身スイスにのりこんでカトリック信者を同じように蔑視・差別できるのかと、かれらの無神経な尊大さを論らう。ほんとうに布教や援助がひつようなのは堕落した自国の信者たちだろう、とも。

 カルヴァンは、聖体拝受のパンが司祭の呪文ひとつでキリストの肉にかわるのはおかしい、と批判する。ひとりの聖人の聖遺物が何体分もあるのはどうみても異常だ。・・・ひとつひとつの要求は至極まっとうな、そしてある意味「とるにたりない神学論争」にすぎないのかもしれない。これが血だるまの殺し合いに発展するのはあきらかに飛躍であり、新旧の権力争いにもとづく別次元の動機があったのだろうし、非寛容な殺戮合戦もまた「誰よりも厳格な正義」であろうとする僧侶と、便乗する無知な大衆による拡大解釈、いわばむきだしの自己顕示欲でしかなかった。



伝統的な図像(METにて)
 カトリックはたしかに、因習的な迷信に堕していた。ミサなんかは意味不明のお経や長たらしい法要のように儀式化していたし、おそらく聖遺物にも「動物の遺骨」や「行きだおれの着ていた衣」、「単なる腐ったワイン」などといった護摩の灰のようなものをふくんでいたことを、当時の教会も自覚はしていた。しかしそれは古代の布教史の一コマであっていわば方便、後世の尺度でいちいち信仰の多様性を否定し、いたずらに波風をたてるひつようはないのだ、とした。

 保守の枠組みのなかでも、地道に改革・再生につとめるアッシジの聖フランチェスコや忍性菩薩のような人物もいた。そのいっぽうで既存社会と相容れず、ちっぽけな「正義」をかたくなにふりまわす日蓮やルターのような「はねっかえり者」もまた、いつの世にもいた。ただかれらの時代が、たまたま中世から近世へと生まれ変わる境目にあって、新興領主や拡大する商工人層と深くむすびつき、やがて下剋上や武力闘争と密接に紐づけられる歴史的意義を、「無自覚なまま獲得」していった・・・それが革命家たちの生まれ合わせた歴史的使命だったのだ。その教義がいまも「普遍的に正しい」かどうかの問題ではない。偶像崇拝を厳格に禁止していたら、ルネサンス芸術なんかすべてうしなわれていただろう。

 長崎の26聖人が西洋人を感動につつみ、細川ガラシャがオペラにまでなったのは、このような文脈に乗っていた。本国ではその実在すら疑問視されはじめた「殉教者精神」が地上に紛れもなく存在するという、その確証をはるか日本にみいだした。したがって世界遺産に合格した「長崎の教会群」も、中世カトリックの往生伝「黄金伝説」の掉尾をかざる物語として選ばれ、今日まで理解されてきたのだろう。



右は「1876ボンジュールかながわ」(有隣新書、1977)より
 聖遺物について、有名なトリノの聖骸布を御存知の方は多いだろう。先日焼けたパリのノートルダム聖堂にも「いばらの冠」などが伝わっている。キリスト本人のものではないにせよ、プロテスタント派による破壊をまぬかれた中世・十字軍時代の信仰の貴重な遺物であることは確か。これらのために今もパリ市民は涙を流し、聖歌をささげた。

 キリシタン時代の日本においても、磔となった26聖人の十字架の木材などが、さっそく功徳をもたらす聖遺物となり、まもなく正式に列福(准聖人)。マカオで死んだサヴィエルの聖フランシスコの遺体からは実際に腕が切断され、ヨーロッパにはこばれ崇拝された。また、マカオの同教会に密かにはこばれた日本人殉教者の遺骨の一部は、のちに分骨されて横浜山手のカトリック教会などに戻ってきている。以前紹介したステンド‐グラスの聖人(レポ203)は、川に沈められるまで王妃の告解を洩らさなかったため、守秘の神様(守護聖人)とされる。そのほかペストから民衆をすくった中世ローマの聖人なども祭られている。

 この山手の教会はジラール神父らパリ外国宣教会の設立で、幕末における26人の「列聖(前述の福者から昇位)」や日本への再宣教・信徒(潜伏キリシタン)発見にもふかくかかわっている。由比ガ浜の教会に、唐突にユスト高山右近(近年福者に)の画像があるのも、同宣教会の伝統的な【関心事】からリンクしているのだと思う。同宣教会をめぐっては、韓国・ベトナムなどで数多くの殉教者をだした。未開人は日本だけが「弾圧国だ」とふれまわっているが、完全に善悪をとりちがえている。日本では「サントスの御作業の内」などの聖人伝をはじめ、「こんてむつすむんぢ(キリストに倣いて)」「ぎやどべかどる」など、広範な翻訳文献がよまれており、ひとつの文化として受容された確実な痕跡がある。


 ギメはオリエントの古代美術を研究するうち、キリストや釈迦をふくむ多くの宗祖たちに共通する思想があることに気付いた。アジアの様々な神々もけして悪魔崇拝などではなく、仏教ならば奇怪な観音や明王のようなものも、みな唯一神(大日如来)から派生する無数の功徳の一部をあらわした「形象」に過ぎない。そのいみにおいて仏教もまた一神教であり、けして偶像崇拝には当らない、と理解した。

 そうでなければカトリックの聖遺物崇拝だって同じことで、守護聖人や天使・聖家族らの祭壇(チャペル)の数だけ神をもつ多神教であり、おおくの絵画・磔刑像はもとより、聖体パンもまた、呪文によって無数の御神体を現出する「野蛮な」偶像崇拝になってしまう。

 ギメの「日本散策記(邦題「1876ボンジュールかながわ・フランス人の見た明治初期の神奈川」)」で特におもしろいのは、江の島の茶屋にいた女中を、ルネサンス前派の画家がえがいたヨーロッパの処女のようだといっている部分。日本版の口絵にもなっている同行の画家のスケッチ(左図)をみると、なるほど、だんご鼻はともかくとして、ピエロ‐デッラ=フランチェスカ(Piero della Francesca 1412-1492)ら、そのころの画家による聖母たちをみるような、あの独特の目つきが強調されている。より古いビザンチン風の絵や、ルネサンス盛期以降の絵にはけしてあらわれないもので、むしろ仏の半眼(慈眼)に似ている。ルネサンス前派の画家たちは、モンゴル帝国の世界征服などを背景に東アジア絵画の影響を強くうけていたのでは、という説すらある。



ピエロがえがいた聖母らの「仏像顔」
 また鎌倉大仏については「言われているような釈迦仏ではなく、ビルシャナ仏」という見解を示す。実際には鶴岡八幡宮の本地仏である「阿弥陀仏」なのだが、姿形はたしかに釈迦様(よう)を象っているし、定印を結んでいるから大日如来(ビルシャナ仏)とも一体化しており、ギメの図像学的解釈にさほど間違いはない。一神教と多神教の優劣はいまだ論壇をにぎわしているが、先入観によって簡単に二分化できるほど単純なものではないのだ。

 アメリカの清教徒(プロテスタント)の一部はいまだ頑迷に進化論を否定、天地創造説を信じ、いちじるしいものは中世さながら排他的な自給自足のコミュニティーにこもっている。エーコのベストセラー小説「薔薇の名前」では、中世の僧院を舞台に、異端の禁書を他見からまもるため殺人まで犯し、自滅してゆく人々がえがかれている。ガルシア‐マルケスの小説「愛、その他の悪霊について」では無実の少女が悪魔祓いと称して司祭や女子修道院長に虐殺される。教会の命令にそむく「愛」などというものは、つい近世までただの悪霊でしかなかった、というのだ。

 あえていえば日本の浄土真宗だって、口では他力・皆成仏などといいながら、みずからに背く「異端者」を堕地獄と決め付け、みずからの計らいで極刑に処した時期があった。20世紀の「革命」がことごとく悲惨な結末を産んだように、正義の毒牙は仲間内にすら相互監視をむけさせる。「間違っている」「党にいいつけてやる」。いわゆる「正しさ」が幸福な未来を約束するわけではない。そんなものは机上の空論、薔薇ではなく薔薇の「名前」でしかないのだ。しょせんは思想・信仰の名を借りた自意識(エゴイズム)の発露、正義という「言葉の檻」にとじこめられたひとびとの、迷妄にすぎないのかもしれない。



バッタ物のシャンパンを売る坊主(「ボンジュールかながわ」より)
 たしかに、諸宗教のもつ不完全さをあげつらうことはたやすい。しかし諸外国に追従することと、彼我をただしく理解し位置づけることとは同じではない。ルターやカルヴァンらが行ったことと日蓮や親鸞らが行ったこととの間に、何か質的・哲学的な差異はあっただろうか。M.ウェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のような論理がゆるされるならば、織田信長らの無神論的合理主義や真宗でいうところの「妙好人」のような愚直な労働者は、近世日本の資本主義的発展に大いに寄与した、ともいえるのだ。

 比叡山や根来寺の焼き討ちにしても、すでに日蓮宗と真宗との抗争のなかで山科本願寺や法華の寺々が灰燼に帰した前科前例があり、寺々は堀をほり土塁・石垣をきずき櫓をあげていた。日蓮宗徒は「他派の首を斬れ」と公言し、なんども執拗に権力者に要求(レポ216参照)。みずからの過剰な「正義」によって、すでに仏教文化は半ば解体しつつあった。承久の乱や南北朝の抗争にしても、権威の失墜によって庶民の自覚をもたらしたのはたしかだし、当の後醍醐天皇は庶民を不自然なまでに登用(下剋上)した。・・・

 戦後史学では、マルクスによる進歩主義史観「アジア的停滞論」やその超克、ということに常に呪縛されてきた。ところが「最先端の」「魅惑のソ連社会」が崩壊してみると、そんなものは19世紀末の、頭のおかしいひげ老人の「ふるぼけた幻想」にすぎなかったことがわかってきた。外国人のいうことがすべて正しい、わけもわからず憧れて、それで自分はあたかも専門家・全てを知り尽くした国際人になったつもり。もしマスコミが声を荒らげ主張したように「クルーズ船乗客の即時解放」「●国に学んで即座に新型コロナの大規模検査」を実施していたとしたら、およそ全国全ての病院が感染クラスターになり、医療崩壊をまねき大量の犠牲者を生んでいたことだろう。


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