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もちださんの鎌倉リポート No.372(2020年3月28日)



No.371
No.373



鎌倉と世界・2−渡海僧


 禅という概念は古代からつたわっていて、最古の寺・飛鳥寺にも禅院はあり、比叡山に円仁がひらいた横川も禅院。国宝・明恵上人の有名な画像も山中座禅の姿だが、かれは華厳宗。禅律僧・俊芿にも禅僧風の頂相(肖像画)がつたわるが「禅・律・台・密」の兼学で、同時代に禅を広めた栄西の寿福寺も、当初は台密との兼学だった。現在それらの流れを汲む覚園寺は真言律宗(泉涌寺派)、東勝寺の後身としての宝戒寺は天台宗をなのっている。兼学は日本の国内事情であるかのように説明されることが多いが、寺単位でみれば宋の官寺などはもとより兼学がおおかった。

 日本臨済宗、いわゆる「鎌倉新仏教」としての純粋な禅宗の確立は、主に北条氏が招いた帰化僧を中心におこなわれた。蘭渓はたまたま俊芿の弟子・月翁智鏡の勧めで来日。栄西とはちがい、俊芿がまなんだ法脈は南宋での主流で広範な人脈をもち、禅問答(公案禅)で名高い楊岐派だったのだ。蘭渓は月翁らの斡旋で鎌倉にゆき、北条時頼の信任をうけた。当初はささやかな念仏寺院だったとみられる大船常楽寺(左)なども、蘭渓の入寺で禅宗化。

 蘭渓はあらたに建長寺、無学は円覚寺を興し、寿福寺には大休がはいって本格的な禅宗化が確立。浄妙寺も栄西の弟子・退耕が開いた時点ではまだ「極楽寺」を称する禅密寺院で、蘭渓の弟子・月峯了然らが禅宗に特化した。 



金泥の眼をもつ蘭渓と兀庵(「原色日本の美術23・29」小学館1971)
 執権北条氏が帰化僧を重んじたのは、文化・外交面で朝廷の鼻を空かしてやろうという動機があったから、と思われる。これまで、朝廷のしきたりを少しでも知らなければ「関東の田舎者」とばかにされた。幕府は朝廷から有能な実務官僚(たぶん平家系)を大量に引き抜いたとはいえ、上流貴族だけがもつ宮中の秘儀・秘伝までは、手に入れることができない。そこで、いち早く海外の新知識を吸収・習熟すれば、都貴族を見返すことができるかもしれない。

 宋では難解な漢詩や、白話体とよばれるようなあたらしい漢文がおこなわれていたし、公案禅(看話禅)には易学・性理学をはじめ、宋学とよばれる未知の新思想も、ふんだんに盛り込まれていた。お誂えむきに京都では、まだ文学博士らが世襲して旧弊な学問を墨守。白楽天に代表される簡潔な漢詩が幅をきかせ、南宋禅は「理解不能のダルマ宗」と敬遠されていた。鎌倉にはそんな抵抗勢力もない。つまり禅を受容し大陸の学問に精通しておくことは、外交上、朝廷に優越するおおきなチャンスだった。京都ではなくまず鎌倉で宋風の禅宗が積極的に受容されたのは、そんな国内事情によるものだった。

 大宋国のがわでもまた、遼・金・西夏・元といった難敵にそなえるため、最恵国日本にたいする修好・貿易政策が敷かれ、往来を容易にしていた。これを日宋貿易といっている。鉄銭や紙銭を用いてまで流出を嫌った貴重な銅銭が、なぜか日本にだけは数億枚単位、溶かして大仏になるほど大量に輸出された。日本からは刀剣・硫黄(火薬の原料)・砂金・扇などがもたらされた。「万世一系」については太宗も「理想(古之道)である」と高く評価。みずからも千年王国を憧憬し、漢王朝の覇業にならって五行の「火」性の国であると主張、短命におわった六朝時代の宋と区別するため、「炎宋」となのったほど。


 中世前期、鎌倉幕府は蘭渓につづいて、宋国一の禅者といわれた無準師範(1177-1249。下)に学んだ京都東福寺の開山・円爾弁円を引き抜く。そして彼らの推薦で無準の高弟・兀庵普寧(1197-1276)や無学祖元(1226-1286)といった大物を来日させる。入宋・入元僧もまた、古林清茂・中峰明本(下)といった現地で名のある高僧の法を嗣いで続々帰国し、鎌倉に集まるようになった。なかには名刹に出世し、学徳を現地の皇帝に認められるなどして数十年にわたり抑留される者もすくなくなかった。

【おもな渡来僧】
蘭渓道隆(建長寺、常楽寺)・義翁紹仁・兀庵普寧・大休正念(寿福寺、大慶寺)・無学祖元(円覚寺)・鏡堂覚円・一山一寧・西澗子曇・東里弘会・龍江応宣・霊山道隠・明極楚俊・石梁仁恭・東明慧日(白雲庵、曹洞宗)・清拙正澄(禅居庵)・竺仙梵僊(浄智寺)・東陵永璵(曹洞宗)・別伝妙胤(*日本人説あり)・玉崗蔵珍・・・

【おもな渡宋〜渡明僧】
明庵栄西・妙見道祐・円爾弁円(京都東福寺)・性才法心・白雲慧暁・寂庵上昭・無隠円範・無象静照・南浦紹明・桃渓徳悟(杉田東漸寺)・約翁徳検(龍峰院)・樵谷惟僊・大歇了心・見山崇喜・明叟斉哲・傑翁宗英・無及徳詮・千峯本立・竺芳祖裔・林叟徳瓊・天岸慧広(報国寺)・嵩山居中・復庵宗己・龍山徳見・物外可什(立川普済寺)・遠渓祖雄・雪村友梅・寂室元光・月林道皎・石室善玖・無涯仁浩・古先印元(長寿寺)・古源邵元・此山妙在・業海本浄・無隠元晦・古鏡明千・鉄舟徳済・東林友丘・無礙妙謙(如意庵)・中巌円月(藤ヶ谷崇福禅庵)・一峰通玄・清渓通徹・友山士偲・不聞契聞・鈍夫全快・大拙祖能・椿庭海寿・無文元選・絶海中津・久庵僧可・汝霖良佐・伯英徳俊・少林如春・黙庵霊淵・古剣妙快・宗遠応世・鄂隠慧奯・東洋允澎・・・



無準(左)・中峰(右)・古林の墨跡(小学館1971)
 日本に来る(還る)ことを「東帰」、唐土にゆくことを「南遊」「南詢」といい、軍事的に日本と対立した元の代にいたっても、商船の行き来はなお盛んだったらしい。泰定二年1325に造建長寺船で江南へ渡った日本僧は、二十人にも及んだ。これが強く制限されるのは海禁政策をとる明代になってから。そのころは日本でも朝廷が衰微して幕府にも海外文化で対抗する機運が薄れていたし、むしろ旧仏教にも精通した夢窓一門や道元系曹洞宗のような国内派閥が隆盛をきわめるようになる。また大内氏など各地の豪族が台頭し、さかんに禅僧を招聘するようにもなっていった。つまり中世後期には、明に抑留監禁される危険を冒してまで、海外に留学しなければ出世できない、というほどの切迫した動機は失われてしまった。

 古来、おびただしい数の渡海僧のうち、空海などは伝記研究がすすんでいるし、鑑真和上や真如法親王のように小説にえがかれた者もいる。平安時代の円仁(杉本寺開祖)・成尋らはみずから詳細な旅行記をのこしている。ざんねんながら中世の留学僧らにまとまった海外旅行記の類は残っていない。戦国時代に失われたのかもしれないし、もともと禅僧は「転語」といわれるような抽象的な詩句や、寸鉄のような短い警句を案じてばかりいたから、さほど筆まめではなかったのだろう。だが、現地でも高く評価された留学僧は数多く、内外のおびただしい人数の語録・詩集・墨蹟・肖像画などのなかには、交流史の断片がまだ数多くねむっている。

 現地の僧は髪も髭も剃らず、小朝師匠やぴんからトリオ(宮史郎)の髪型をしていたり、布袋のように腹をだしていたりと、なかなかに個性的。中巌円月は、当時「元」でその名をはせた日本僧・雪村友梅の武勇伝「臨剣の偈」を評して、「それはこちらの、無学和尚の真似ですよ」と訂正したところ、かえって霊石如芝和尚から叱られた。「たしかに日本人はみなそういう!日本には何か仲間の名声を強いて貶めるような風習でもあるのか!」(藤陰瑣細集)。



大慶寺・大休とその弟子(秋澗道泉)
 中巌はまた、天皇を中華世界の正統な皇帝として尊ばれた周朝「姫氏」の末裔であると主張していた(逸書「日本書」)。この説は古くから唐土の文献に記されてきたもので、ひとり中巌和尚の創作というわけではないが、北畠親房らは強く否定しており、「姫氏とはけして周のことでなく、アマテラスら日本の女神にまつわるものだ」、といった牽強付会の解釈(一条兼良)も行われた。ただ入唐僧には有利な説だったようで、聖代とされた周の子孫なら、どこの馬の骨ともしれぬ元や明の皇帝よりも、血統ははるかに上ということになる。

 中華の史書によれば、周文王の叔父「太伯」が南方「呉」にくだったとされる。「晋書」には倭人がその「太伯之後」を称していたとあり、「魏志」倭人伝には夏王朝の王族が紹興あたりに下ったとの異説も記されている。かつて日本は不老不死の薬がある神仙の島「扶桑」「蓬莱」ともいわれていたし、洛陽などの黄土高原にすんでいた古代の歴史家にとって、米のとれる揚子江あたりはまだ未知の世界と認識され、日本と混同していたのかもしれない。倭王・ヒミコの都である「邪馬台国」は七万余戸という、当時は洛陽・長安以外に例を見ない巨大都市だった。いっぽうの呉は蘇州あたりの国で、紹興は越の都。ともに古来から遣唐使らが行き来した日本との通商ルートに位置している。

 中世の禅僧たちが求法のために行き来したのも、まさに江南地方だった。元寇の宋兵はまさしく浙江省寧波(明州・慶元府)に集められたのだから、日本にとっては文字通り唇歯の場所だ。華北をうしなった南宋の都がおかれて以降、にわかに国の中心として発展した江南地帯において、文人たちは盛んにこの地の神話伝説を掘り起こし、漢詩に詠んでいた。たかが史書とはいえ、三国志はこのころ大流行していたし、なにより陶淵明や竹林の七賢、達磨大師らが活躍した六朝時代に成立した所説である。天皇の先祖が「本来この土地の正当な支配者であった」ことは、さすがに無視できなかったはず。しかも日本には漢詩のうえで、蓬莱といった神秘のイメージが繰り返し、かさねられていた。



牧谿の猿。建長寺にあるのはたぶん写し(小学館1971)
 とりわけ明の太祖はそのあたりの貧僧・朱重八という盗賊の成りあがりにすぎず、コンプレックスを相当刺激しただろうと推測される。即位後、「赤い玉が母の胎内にはいって生まれた」などという神話を創作したが、これは禅僧の出生譚にもよくみられるありきたりなものだ。日本僧・絶海中津に引見した朱元璋(かつての重八)は、むしろ眩しいものをみるように感じたかもしれない。絶海はこれを察して、中華にゆかりある徐福伝説などを詩に詠み、重八もよろこんで唱和する詩をつくったが、もちろんこれで日明関係が円満にすすんだわけではない。

 足利義満はいちど、独断で明王から「日本国王」の冊封を獲ようとして非難をあつめた。もちろん中国共産党からだれかが「日本省主席」に任ぜられたからといって、なんの意味も持たないことは知れている。だが、当人に天皇制の否定や王権簒奪までの意識はなく、・・・また李氏朝鮮王のように明帝の位牌に毎年季節ごとに土下座する、属国特有の降伏儀礼を受け入れるつもりもなく、・・・ただの「善意」、ただ書面上の「事務的なお世辞」にすぎないと思っていたとしても、いわゆる「屈辱外交」は結果として相手にあなどられ、無用な期待すら抱かせ、やがて恫喝へとエスカレートし、かえって紛争を【悪化させる】。善意はかならずしも友好だけをうみだすものではない。とりわけ政治がからんでくると、それは冷酷なまでに悪用される。中華の歴史には、敵の甘言を信じ、忠臣の諫言に激怒までして国をほろぼした間抜け王の話が山とある。善意という「一方的な思い込み(確定バイアス)」が何をもたらしたか、それを学ぶのも歴史というものだ。 

 中国にはいまも不征観音という信仰があり、中国を捨てた鑑真を憎み、日本行きを拒否して現地に留まった観音像を英雄のように称えている。明は海禁政策をとる一方、いまも継続するチベットやトルキスタン方面への侵略をつづけ、悪名高い万里の長城を築き、かつての大都・北京に遷都してかつての「土城」をあとかたもなく破壊、現存の紫禁城(18-19世紀再建)の「原型」をたてたとされる。いっぽう、日本人がいっぱんに思い描く「大黄河文明・中国四千年の歴史」などというものは、おおかた教育テレビや教壇でうみだされた虚像、印象操作でしかない。黄鶴楼は「李白の時代、そのまま」どころか鉄筋コンクリートでつくった「エレベーター付きの展望台」。それでも黄色の瓦は皇帝の色、皇帝の龍は五本指などと、わけのわからない世迷言ばかりをいっている。庶民は「北京ビキニ」などといっていまも裸だし、近年までスラム化した胡同地区もおおかった。そんな現実の北京はもちろん、応県木塔など、本来の中世遺物にさえまったく興味を示さず、すべて古代で4000年。



明の地図にあらわれた鎌倉。三仏済は本来スマトラ島附近(「中世倭人伝」1993岩波新書より)
 歴史は現代人の勝手な思い込みによって、容易に浸蝕される。自分の無知やごますりで、あたかも友好が確定したと信じ込み、「やり遂げた」などと独りよがりの達成感にうかれている。未開国への向き合い方は、批判は「差別」にあたるなどとして厳禁、土俗文化をひたすら尊重するあまり、はてなき「翼賛」に傾きがちだが、中国はいつから未開国で、いつまで未開国なのだろうか。【愛好の強要】や【善意の押し売り】が過去になにを招いたか。カレーをくっただけで印度のことなんかわからないのと同様、相互理解は言うほど簡単じゃない。事実とひも付き報道(今風にいえばステマ)、ないし国策教育との「差分」をみることによって、ぎゃくに現代とは何なのかが如実に炙りだされてゆく。

 中世のおびただしい帰化・渡来僧のなかに、遼や金がさかえた華北はもちろん、遼・金・元に代々従属していた王氏高麗の出身者は極めてすくなかった。空室妙空(?−?)は建長寺高峯顕日に禅を学んで国に帰り水精寺をひらいたとされる。それもけっきょく弟子の少室慶芳に「高峯の法系」を受け継いだ、というだけの話で、空室本人や高麗国自体にまつわる所伝は、ほかになにひとつ伝えていない。そのほか日本の留学僧・大智禅師(曹洞宗)が高麗に漂流し詩を詠んだとか、わずかにのこっていても断片的な記録ばかり。高麗国王が貢船を遣わし円爾に法語を求めたなどの伝説も疑わしい。

 法明弘性(?-1248?)は宋の径山で無準師範にまなんだと称して、京都・鎌倉を経由、羽黒山で山伏になったかと思えば、はては道元禅師に帰参した、とかいう支離滅裂な伝えがある。ただ出自については日本人説もあり、出羽で活躍した実在の僧・了然法明(?−1308?)、また飛鳥時代の法明尼や道元門下の了然尼というひととも伝記・伝承がさまざまに混同しているらしい。金や高麗などの北方禅はたしかに曹洞系なのだが、道元が独創した日本曹洞宗とは似て非なるもの。疑えば根拠はなにひとつなくなってしまう。元寇を背景として敵国の事情をさぐるため、もうすこし情報があっても不思議ではないが、そこは「小説家」たちの果てなき空想の領域でしかないのだ。


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