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もちださんの鎌倉リポート No.374(2020年4月12日)



No.373
No.375



鎌倉と世界・4−経済学



マニ本尊(山梨・栖雲寺)
 中華文明はたしかにグローバルな要素をふくんではいたものの、中世ヨーロッパ世界におけるラテン語同様、あるいみ滅びつつあるローカル文化の様相も呈していた。東南アジアに展開した南伝仏教や、チベット密教であるラマ教(パスパ教)、景教と習合した西域のマニ教その他の世界宗教からみれば、鎌倉にさかえた公案禅(臨済宗楊岐派)は、浙江を中心としたごく狭い地域に分布する南宋五山のあいだではやった、ある種ロマネスク(古風)な田舎仏教にすぎなかった。地図をみれば西日本のほうが広いくらい。ただその選択には当然【政治的・流通経済的な理由】があったとみなくてはならない。

 栄西の「興禅護国論」にみえるように、鎌倉時代初頭には、純粋なインド仏教はすでに天竺でも支那でも亡んでいると考えられていた。このばあいのインド仏教とは、唯識とか縁起説とかいった北伝仏教の難解な哲学(2-6世紀)のことで、逐次翻訳・研究がすすめられ、唐土では6世紀から8世紀にかけて三論・法相などの主要な諸学派が成立。すなわち忍性らが懐古・思慕した飛鳥・奈良時代こそが、その思想・教学的展開の共時的な頂点にあたった。しかしインド仏教は西域のイスラム化・唐の敗退を経て杜絶、内戦や廃仏などにより衰微する。その後の禅や浄土教などは、既存の経典をもとに道教や易学などを加味して唐土で独自に生まれた、幼稚な民間信仰にすぎないと、当初は理解されてきた。

 そんな禅や浄土教が一転、日本でも重視されたのは、もちろん内外の政治的・地政学上の理由もあったのだが、見逃せないのは経済学的な側面。宋代になると【民衆】に富や文化がうつりつつあったが、日本の【民衆】にもまた、同様に宗教文化を受け入れる素地、つまり経済的な余裕がうまれていたのだ。



交流館にて
 いわゆる律令政治は統制経済を志向した。沽価(公定物価)をさだめ、和市(相場)を無視した取引きを強制した。それが破綻したのは日唐・日宋貿易により、大量の外来貨幣が日本に流入し銭価が急落したため。穴開き銭は束ねて使うことが多く、内外では一連100文につき3-4文の保証金を差し引いて封をつけた。これではバラしたら損してしまうし、バラさなければ貨幣の真偽・種類をいちいち確かめることはできない。

 朝廷がむりやり渡来銭や贋銭を没収したり・信用をうしなった過去の通貨を回収し、強制的に新しい通貨にデノミしようとしても、どうせ新しい通貨もすぐに旧銭や安い渡来銭とおなじ価値に落ちてしまうのだとすれば、むざむざ「枚数を減らしてしまう」前に秘匿・退蔵したり、いっそ溶かして隠滅し、銅材として売ってしまったほうが余程ましだ。これを【破銭】という。皇朝銭は10万貫(一億枚)単位で発行されたのだから、それを駆逐した渡来銭も相当な数とみるべく、「日本では貨幣経済が発展していなかった」などと断定する旧来の通説は【完全な誤り】。古銭の残存枚数が少ないのは活発な破銭の結果でしかないし、退蔵銭は蝦夷地からも出ている。

 安い渡来銭はいわば贋金と同じであり、朝廷が発行した皇朝銭(ホンモノ)は逐次信用をうしない、その鋳造が放棄される。朝廷はもはや通貨のレートを維持できず統制経済は崩壊、市場経済がにわかに活性化。荘園が蓄えた富は銭の流通を実効支配する現地荘官・地頭を通じて源氏・平家に集まるようになり、各地に武家が台頭するのだ。米なら需要に限界があり、人間がくう量は限られている。豊作貧乏ということばもあるように、モノの価値は陳腐化すればあっというまに失われるし、保管が長期に及べば劣化もする。銭にはそのような「限界」はない。資本のおおきなところにいくらでも集まり、善悪をこえて膨張し、人心を左右する性質がある。



地鎮銭(同)
 大仏はたぶん破銭の延長上にあった。豊作で暴落したキャベツを大量処分するのと同様、インフレであまった安い渡来銭を鋳造によって大量に蕩尽してしまえば、国内に流通する銭は一時的に枯渇してデフレに転じ、市場価値を高騰させる。つまり為替操作とおなじことで、海外貿易の独占によって大量の渡来銭を所有する幕府にとっては、思いのほか損はしないのだ。また、各地で発見される埋蔵銭も、こうした銭不足(レート急騰)を見越して知恵のある庶民が隠しておいたもののように思われる。

 日宋の貿易商人らは、大口取引のために権威ある寺院の名を利用し、保証人代りに大量の渡海僧を伴なった。朝貢制度の抜け道として、寺院間の往来とする体(てい)をとったのだ。取引先の寧波・浙江周辺には禅寺が多く、そこにわたりをつけるためには、必然的に五山の禅僧の緊密な人脈を利用するのが最善の一手。それに、内外の商人による船賃の工面や宿泊先の斡旋がなかったら、禅僧たちはあんなにも大挙して、しかもほとんど変り映えしない特定の寺や名僧に、何人も続々と留学はできなかったろう。すべての日本僧がよほど知的にすぐれていたのでなければ、寺への巨額の寄附礼金がわたっていたのだ。たとえば円爾は帰国後、博多の商人・謝国明に依頼して宋の径山の修復のため、大量の材木などを贈っている。謝がそのついでに私的な交易を果たしたことは想像に難くない。

 しかし渡来銭を供給する宋や元の現地では、貨幣不足から代用の鉄銭や信用に不安のある為替紙幣(会子)が発行されるなどの混乱をきたす。やがて海禁政策をとらざるをえなくなり、国交はもとより対外貿易も停滞におちいった。海禁政策の反動として、なんとか抜け道をさぐろうと倭寇が生まれ、矮小国をもまきこんで琉球ルート・朝鮮ルートまでさかえた。それらはけして個々の事象ではなく、ある種の交易シンジケートと見なくてはならない。倭寇だけを悪者とみなすことはできないし、また、琉球を繁栄させるためにわざわざ日明が対立し、【仲介貿易を独占させた】わけでもない。



おびただしい数の青磁片。煮炊きには向かず、生活必需品ではない(同)
 もともと銅銭の輸出は固く禁じられていたのだが、それでも流出した貨幣の行く末は、鋳とかされて大仏になったりしたわけだから、原因と結果をみるかぎり、アジア史の盛衰には鎌倉大仏も一枚かんでいる。ある種の歴史家は生産技術のみを問題にするだろう。しかし、陶器・磁器は土器にくらべ煮炊きに弱いし、陶石を砕いたり高温を必要とするなど、むだにコストがかかるうえに実用性に劣るが、土器に適した粘土が乏しいといった【やむをえぬ地域事情】からうまれた側面もある。

 唐土の鉱山では、安い贋金との競合になやまされ、きびしい官納の義務や低価格での買い上げが強要されていた。技術の向上とか精錬の効率化とかいういぜんに、銅銭の大きさや純度は目に見えて【劣化】していった。銭の発行で利益を確保し、贋金づくりを防ぐには、コスト削減は必須。佐渡金山をイメージすればわかるが、もうけが出るなら誰もが金を掘ってしまうだろう。一日苦労して500円分しか掘れないのなら、たぶんまともな人間は掘らない。同様に、正貨が信用をたもつためには、さらに製造原価をさげ、罪人などの安い奴隷労働にたよらざるをえない。ただ低賃金の奴隷労働が常態化すれば、社会の疲弊をまねく。

 紙の会子のことは、現地に留学した中巌円月の随筆「文明軒雑談」(1368ころ)にもみえ、はじめは有力商人が振り出した兌換性のある為替証券であったものが、「其の富者、漸く衰へて負ふ所の債を還すことを得ず、訴訟競ひ起こる」ようになったため、しだいに公的強制力をつよめ、銅銭を没収して会子に換えさせるなどした。紙銭は一見、生産が楽なようだが、ニセモノを作るのも楽。すなわち使用できる地域もせまく・有効期限もごく短かったように思われ、信用価値の減衰(インフレ)をまねくのは時間の問題だったろう。交子・関会・銭引・交鈔などとさまざまに名称をかえ、むりくり使用を強制したのはこれを示していると思われる。



六浦湊の模型(横浜市歴史博物館)
 元・明では結局、銭不足から会子以外に秤量貨幣である銀が重視される。日本でも近世には金銀貨や藩札のようなものは一部でもちいられたが、近代には貿易通貨として西洋銀貨を基準にした「円」というものがつくられる。こんにちでは変動相場制に移行して日本円・中国円(元)などに進化しているが、本来は銀の品位そのものであって無限に発行できる信用貨幣ではなかった。

 最近も「仮想通貨」なるものがはやっているが、紙幣にせよ仮想通貨にせよ、ほとんど原価がかからない反面、信用をうしなえば紙屑となり利用者がババをひくことになる。ある種の無限連鎖講、というわけだ。細工を必要とする銅のメダルならば、たとえ贋銭であろうと外国のものであろうと無限にはつくれず、製造原価程度には価値が担保される。もともと一文50〜100円前後で流通していたとすれば、強制的な没収いがいに大きく価値が毀損されることはないだろうし、没収をのがれるには神仏のために鋳溶かしてしまえばいい。

 そこまで大切な「銅銭」が、あろうことか海禁政策のあいだにも大量に日本へ密輸されていたことは、けして無視できない問題だろう。明の「永楽銭」は信長や真田幸村の旗にもえがかれたし、六浦の三艘湊にこれを満載した唐船が着いたなどとして、後北条氏は米のかわりに永楽銭を年貢の標準単位とする「貫高制」を敷いていた。のちに寛永銭の発行で鋳溶かされたために確実な枚数は不明だが、厖大な数にのぼっていたはず。比較的価値の安定した銅貨の移動は、あるいみ健全な資本の流入に他ならなかったのではないか。製造コストのたかい皇朝銭なんかにたよらず、使用頻度のひくい金銀貨にも執着せず、唐土の渡来銭に「タダ乗り」した日本の中世経済は賢明だったのだ。



幕府滅亡の時を示す「元弘三年五月」銘塔片のレプリカ(交流館)
 アメリカなど諸外国では移民層への反発がひろがる。野党は「安い労働力」としての移民保護に執着、「安い労働力」が自国民の労働環境すら毀損してゆくことに、全く気付こうとはしない。敗退したヒラリー候補はトランプ支持の労働者層を「(貧乏で無教養の)みすぼらしい連中」と切り捨てたまま、いまだ反省の色もない。私たちは労働力の安売り合戦に、みきりをつけなければならない。ただそれには当然各種イノベーション(社会革新)が必要になってくるだろうし、口でいうほど短期に達成がみこめるものでもない。グローバル企業や野党は労働者の声、消費者からの善意の批判にも、耳を鎖してしまった。ひとりよがりの安売り商品に高い付加価値は望めないし、「より悪い者」が後にひかえていては、けして政権交代はおきないものだ。・・・分断は当面つづくだろう。

 北条高時の時代には、夢窓国師や清拙正澄・竺仙梵僊ら、数多くの文化人が内外から鎌倉にまねかれた。ただ能などの【物語】にえがかれた鎌倉後期の世相は、長期にわたる訴訟にくるしむ中小御家人の怨嗟や悲哀のストーリーが多い。ここでも貧富の格差が無視できないものになっていた。はたして富はどのように使われたのだろうか。

 武士たちは御恩としてさずかった土地を各地にもっていた。ところが遠隔地などで管理がゆきとどかないと、経営能力のある同族や被官によって開発され、あらたに発生したその利権を骨肉で争うようになる。能「鳥追舟」なんかは訴訟で留守をした領主の妻子が、実務に長けた家臣の指示で働かされる。節約のためとはいえ、妻子は無能だから(最下層の労働とされた)鳥追いくらいしかできないし、これを拒んで家臣にまで去られてしまったら、もう餓死するほかない。・・・長引く訴訟から家族が離散したり、収入が途絶し高利貸に手をだすものも少なくなかったうえ、おおくのばあい、下地中分などによって既得権益の半分は、資金力・経営力のある者に横領されてしまう。それは幕府中枢に暗躍する御内人への賄賂とか判決の偏頗であると説明されるが、ただ負け組による保守的な怨嗟のみによって健全な経済発展や国土開発をとめてしまうことはできない。



三分割された荘園図(レプリカ)
 日本とはちがい、代々のローマ皇帝は暗殺で終るのがふつうだった。最悪の暴君のひとりにかぞえられるヘリオガバルスは、そもそも無能な少年でしかなかった。数々の背徳や薔薇の花で来客を埋め殺してしまうなどは政策以前の、「悪質ないたずら」の延長でしかない。実朝の唐船や高時の闘犬などはなおのこと、とるにたりない道楽でしかないだろう。だが所領争いの図に墨で線をかいたという頼家の「暴挙」は、もっとずっと根深い意味をもっていたはずだ。

 下剋上という言葉は、忠義や謀反といった江戸・明治の儒教的な道徳に汚染されているが、その本質は因循姑息な古い権威(=理)の解体(=背理)を意味している。鎌倉幕府をたおした後醍醐にしても足利尊氏にしても、ただ戦乱の世をもたらしただけで、なんらかの答えを持っていたわけではない。蝦夷地など辺境の開発、身分のひくい御内人・内管領をはじめ、非人(職人)・商人・芸人の登用といった近代化の要素はたしかにうかがえるものの、それはみずからの政策によって生み出したものではなく、流通経済の発展によって以前から台頭してきたあらたな力を、高時に代って登用しただけなのだ。

 したがって本当の意味での革命は、【近世】が完成する江戸中期まで待たなければならなかった、ともいえる。室町将軍は三好・松永に首をきられ、信長は光秀に、秀頼は家康にとってかわった。ただ家康ひとりが革命家であったわけではなく、たまたま【近世社会】が国民全体に浸透し、個々人の無数の技術革新のはてにようやく成熟しつつあるころに生まれ合わせたという、いわば偶然に過ぎなかったのだろう。時代劇でおなじみの、「明るい庶民と貧乏侍」なんていう構図はほとんど江戸後期になってからの話で、たまたま江戸将軍家がほろび、人格にすぐれた跡継ぎを御三家にもとめたのが契機になったにすぎない。時代から切り捨てられる者(武士)と、切り捨てる者(庶民)。そんな未来を、当の家康が願ったわけもないのだ。


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