トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第375号 


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もちださんの鎌倉リポート No.375(2020年4月16日)



No.374
No.376



秘仏と廃寺



閑散
 ことしは十二年に一度の秘仏ご開帳、旧小机領三十三所霊場子年観音の年。ここでいう「旧小机領」とは玉縄衆・小机衆・江戸衆・・・と分かれていた後北条時代を回顧してのことだから、ほぼ横浜市中北域にあたっている。開扉は4/1〜5/6という予定だったのだが、新型コロナの影響で【19日で打ち切り】とのこと。「緊急事態宣言」発布の直前に、ちょこっとだけ、文化財クラスの仏像を拝観してきた。

 荏田・真福寺は東急田園都市線「江田」駅の東、横浜新都市脳神経外科そばにある「真福寺下」信号のひとつ先の路地を右、すぐ。ここはいぜんにも「鎌倉由来の清涼寺式釈迦がある」と紹介したところで、収蔵庫にある釈迦像は毎年花祭り(4/8)に拝観できる。本堂にはおびただしい数の絵馬があることでもしられ、春秋に声明念仏がおこなわれる。いつもは厨子に固く鎖された本尊の秘仏、子年限定の観音は千手十一面、院政期ころの作らしい。

 ふるくこの地は観音だけをまつる別院の観音堂で、釈迦像を伝えた真福寺の本坊は本来北方のべつのばしょにあり、老朽化のため大正時代から観音堂に合併、「居候」したまま今に至っている。GoogleMapなどの航空写真でたどると、旧地は246の「荏田」信号の北にいまも墓地だけがのこっているはずであり、同信号を西北に、東名高速をくぐってむかう道を俗に「釈迦道(しゃかんどう)」とよんでいる。かつて真福寺の釈迦堂はたしかに、旧地西寄りに隣接していた。



正座してみたところ
 境内にはまったく人がなかった。この先ご開帳はいったいどうなるのか、「こちらの仏教会でもまだ迷ってるみたいで」と寺の人。・・・数日後、外出自粛令をうけ、西方寺のHPなどで打ち切りが発表された。・・・70歳なら82歳、82歳なら94歳。足のぐあいなどで、次の十二支が待てない方のために、例のごとく「どんな感じか」の雰囲気写真。密教式のお堂だから内陣にははいれない。指にむすばれているのは結縁のための「善の綱」。秘仏の詳細はお寺のパンフレットか横浜市青葉区の文化財HPで。

 ふつう千手観音といえば通常の省略形でも40本くらいの手があるが、ここではだいぶ欠落し、修復の末に奇妙な8臂になっている。それがまた奈良大安寺やら筑紫観世音寺にあるような、雑部密教風の異様なあやしさを感じさせる。行基作というのはたぶんあやまりで、お顔はまるく、けして都風ではないが平安後期の、俗に「藤原様式」というものに近い。

 観音堂の草創開基年代はさだかでなく、現在の堂は1789年の棟札があるという。けしてひんじゃくな辻の堂ではなく、きちんとした本堂建築だ。門前には王禅寺にあるような石の仁王も。はたして江戸以前から千手観音はここにあったのだろうか。あるいはどこか別の廃寺から、遠くこの地に勧請されたものなのだろうか。


 釈迦像の方の年代は面相などの細部をみないとわからないが、称名寺のものほど原像からくずれてはいないし、目黒大円寺(もと鎌倉杉本寺)のものほど都風で円満でもなく、伏目がちというよりはきりっとした眼差し、ひきしまった輪郭などは鎌倉中期の理想形といっていいと思う。

 真福寺は称名寺→王禅寺→の本末関係があったとされるので、「鎌倉由来の釈迦」は中世後期、その人脈から移されたのかもしれない。伝説では奥州に運ぼうとしてこの地で動かなくなった、と云々。寺のそばには246、いわゆる旧大山街道が通い、東、剣神社まえは「鎌倉道」、さらにたどると茅ヶ崎城(横浜市都筑区)もあるから、荏田の辻は交通の要衝ではあったし、荏田の「荏」とは中世に燈明の油を絞る荏胡麻の産地でもあったことを髣髴とさせる。前述の釈迦道をゆけば、鎌倉仏をつたえる保木薬師堂から王禅寺にいたる。

 本堂にあるちいさな客仏の阿弥陀はちかくのバス停「小黒谷」付近にあった無量寺という廃寺からうつしたといい、そこも王禅寺末。いまはやはり墓地だけが、公園のかたわらにのこっている。卵塔エリアにある荏田地区最古の五輪塔の地輪には明徳三年1392の年号が、いまや風化してほんのかすかに読めるばかりだが、元弘の変をうけ、称名寺から王禅寺に移って「柿生の柿」を発見したという、かの等海上人とその一門の年代と教線に、重なってくる。



スーパー‐ムーンのちょっと前
 文化財は、調査によってその詳細が知られていなければ指定されない。秘仏であったり、そのため解体修理などをつうじて胎内銘などの発見がなされず、未指定のまま放置されているものもすくなくないようだ。とくに後世の補修や稚拙な彩色によってその価値が見誤られるようなばあい、余計なぶぶんを除去するなどして本来のすがたに復元されてはじめて、文化財のお墨付きがあたえられる。

 鎌倉にも、そんなふうに「未調査」状態にある仏像はすくなくないだろう。たとえば辻薬師堂につたわった仏像は、調査によって二階堂東光寺・名越長善寺ゆかりの像であることが判明。ともに廃寺であり、忘れられた寺。たんに仏像の価値のみならず、その周辺の歴史もおぼろげながらよみがえった。そんな「新発見」は、まだあるかもしれない。いまだ解明されていない中世の廃寺は鎌倉にも多いし、周辺にもある。花月園のような、意外な場所にも。

 ものの価値には、目に見えないものもある。出土した壷などの資料は、その遺跡と紐づいてはじめて歴史的価値をもつ。骨董屋にならんだものはもはや素性が知れないし、無断発掘や盗品であるばあいはなおさらのこと、積極的にその価値を証明することはできなくなる。仏像もおなじだ。伝来の由緒が証明されなければ、文化財としての歴史的価値は大きく減衰する。・・・


 こちらは市営地下鉄「新羽」駅ちかくの西方寺。花の寺であるばかりか、門前に大型園芸店があるためにセルリアなどのお高い珍花を見たり、各種バラの苗なんかも買える。「うらら」「ピエール‐ド‐ロンサール」・・・でも、どうせ枯らしちゃうしなあ。近年ではピンクオレンジの「はまみらい」・深紅の「リンカーン」・藤色の「マダム‐ヴィオレ」などが続々と西方浄土に旅立った。

 寺はこちらも無人。ご朱印のため観音堂に詰めている副住職もさびしそう。堂のいりくちには例のコロナ用消毒液が(下)。エタノールは病院やスーパーの入り口にもおいてあるけど、【きちんとやる人】はごく少ない。泉鏡花とか笠置シズ子とか、むかしから神経質なひとは多かったみたいだけど時期が時期だから、好き嫌いはいってられない。志村さんも朝まで酒なんかのまずアルコールで消毒してればよかったのに。テレビにでてくる「飲んべえ」みたいな医科大学の退官教授は、酒の批判だけはぜったいにしないんだよな。死ぬよ。

 人が来ないぶん、小鳥なんかはまるで朝のようにとびまわっている。椿・葉桜・石楠花・アイリス・クリスマスローズ・・・枝を刈り込まれた大銀杏が無精ひげみたいに、細かな新芽を大量に吹き出している。名物彼岸花はいまは草。こののちいったんすべて地上部が枯れて土になり、秋口に花芽がでる。


 こちらの十一面観音も丸顔伏目おちょぼ口の、いわゆる藤原仏。前回の子年開帳のあと、平成の大震災で足ほぞが折れて傾いてしまったため全面修復がおこなわれ、後世の金箔などもはがされて面目を一新した。こちらは修復後の博物館展示や記念開帳で公開されたので、すでにごらんになったかたも多いかもしれない。普段は堂内の扉がとざされ、ちいさなお前立ちがおかれている。

 西方寺については以前にも「彼岸花」の項(レポ226)で触れたが、鎌倉の極楽寺子院から移転1492したという伝えを持つ。だがなぜだか仏像は平安後期のものをつたえている。寺ではこの観音堂は土着のもので、本堂の「黒阿弥陀」は当初鎌倉の笹目に創建された安養院西方寺1190由来だとし、その開山は東大寺別当・醍醐座主の勝賢僧正(1138-1196。信西の子)という。それが極楽寺桜橋に移転、さらに新羽にうつされた、ということらしい。

 笹目西方寺については不明な点もおおく、開山とされる勝賢が鎌倉に来たという記録もないが、極楽寺にゆかりふかい称名寺2世剱阿(1261-1338)がいたこともある。笹目といえば真言醍醐寺三宝院流の主要な法脈「笹目流」をつたえた遺身院があった鎌倉密教の中心地。三宝院流の伝法血脈(密教相承の血統書)になんどもでてくる寺で、執権経時の墓所に息子・頼助がたてたとされる。剱阿もそこで笹目流の伝授をうけており、そのさいの宿所として笹目西方寺に滞在もしたのだろう。遺身院じたいはちいさな院家であったようだが、そんな場所になら、上方から由緒ありげな古仏を運んでくることも、ありえたかもしれない。ただ西方寺にある観音像や阿弥陀像はごく一般的なもので、密教修法と特別かかわりがあるものではない。本堂内は正月の7日間だけ拝観できる、と和尚。



(右は文化財掲示板による)
 ちなみに笹目安養院に関連して、鎌倉大町に現存する浄土寺院【安養院】のルーツのひとつに、北条政子が頼朝菩提のためにたてた笹目安養院長楽寺(開山・願行1225)という、寺号を異にする寺があったという。この願行については有名な願行房憲静(1215-1295)とは時代も宗派もあわず、別人とかんがえられ、京都東山にある浄土寺院・長楽寺の隆寛律師(1148-1228。多念義派)の弟子にあたる無名の僧(願行房円満1194-1275。当時32歳)のことだとする寺伝さえある。ただ憲静の律宗にしても禅や真言浄土を兼修する泉涌寺派だから、浄土寺院とはまったく無縁ともいえず、また憲静本人も真言「笹目流」をうけているから、笹目とはゆかりが深い。

 憲静がただしければ頼朝・政子の方が訛伝、ということになるのだが、この大町安養院に合併した比企谷の田代寺千手観音にも、頼朝・政子をめぐる伝説がある。ただし十二所にある頬焼き阿弥陀の縁起絵巻によれば、像はもともと比企谷の岩蔵寺(開基・田代阿闍梨)なる廃寺にあったらしく、その創建は実朝時代の話とされる。伝説や創建年代は齟齬するものの、位置といい開基といい、これと田代観音とは無関係ではあるまい。

 大町安養院のもうひとつのルーツ、名越善導寺の開山に浄土宗一念義名越派の祖・良弁房尊観(1239-1316。名越朝時の子)がいる。良忠の弟子だから「りょうべん」なのだろうけれど、これが東大寺のロウベン僧正相模出生説と結びつけば、相模大山寺開基・良弁僧正と同寺中興・願行房憲静との連想がリンクしてくる。尊観は、一発真心の念仏をすればもう他力往生は叶ったのだから、もうあとは何度も専心して唱えるひつようはない、などとして同門の良暁(西御門白旗在住)が説く多念義と対立した。善導寺は現在の大町安養院の場所に単独で存続してきたというが、後世の宗門改めで一念義は衰退したため、その由緒は比較的うずもれてしまっている。敗者の歴史など、容易に抹消されてしまうものだ。


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